5th

 時間を確認すると、松木さんとの待ち合わせ時間を5分ほど過ぎていた。いつも香織やその他の友達に待ち合わせで待たされている私でも、少し心配になってくる。松木さんと待ち合わせをするのは当然初めてで、あの人がどれくらい時間を守る人なのかも分からないし、もしかしたら、常に集合時間に遅れてくるようなルーズな性格かもしれない。いくつもの可能性を考えたとしても、連絡先も交換していない私たちが落ち合うには、この場所で待っている他ないのだけれど。


 少しずつ騒がしくなっていく駅前の光景を見ていると、また別の不安が私の心を蝕んでいく。もしかすると、松木さんが遅れているのではなく、私が待ち合わせ場所を勘違いしているのかもしれない。この駅の、この出口を指定されたと思い込んでいるけど、実際は他の出口なのかもしれない。そこで今の私と同じように、松木さんが過ぎる時間を確認しては不安を大きくさせているのかもしれない。


 ただ、この待ち合わせ場所が合っていたとしても、無暗に動いている間に松木さんがやってきてしまったら、ややこしいことになる。帰宅ラッシュがピークに差し掛かる時間帯の駅前で、連絡も取らずに感覚だけで合流することなんて不可能に近い。元来ネガティブな私にとって、1度溢れ出してしまった不安を封じ込めるのも至難の業だ。目の前を行き交う人混みの中から、なんとか松木さんを見つけようと必死になる。



 待ち合わせ時間から10分が経過した。いよいよ不安が最大に膨れ上がろうしている時、視界の右端からいきなり松木さんが姿を現した。「見つける」という段階を飛び越えて突然フェードインしてきた松木さんに驚き、体がビクンと跳ねてしまった。自分の視線と松木さんの視線がばっちり繋がったことに焦りを覚え、急いでその繋がりを解いた。


「すみません。遅れてしまいました」

「い、いえ。大丈夫ですよ。私も来たばかりなので」


「15分前には到着してました」なんて言えるはずもなく、定型文のような嘘をついた。まあ、松木さんも薄々気がついていると思うけど。


 行きましょうか、と言って歩き始める松木さんの少し後ろをついて行く。どこに行くのかなと思いながら歩いていると、まるで心を読まれたかのようなタイミングで松木さんが「お店なんですけど......」と喋り出した。


「お店なんですけど、実はまだ決めてないんですよ。2人だけなので、あまり堅苦しい雰囲気のお店も疲れてしまうかなと思いまして。ちなみに、お酒って飲まれますか?」

「あ、はい。人並みには」

「そうですか。でしたら、普通に居酒屋とかでも大丈夫ですか?」

「もちろん。松木さんにお任せします」


すると松木さんは、「じゃあ」と言って立ち止まった。


「ここにしましょうか」


見ると、ちょうど私たちが歩いていたすぐ横に居酒屋があった。松木さんは指をぴったりとくっ付けた右手でその入口の方を指していて、なんだかバスガイドのようなポーズになっていた。


「そうですね」


私の同意を得られたことを確認した松木さんは、勢いよく居酒屋の入口の戸を開けた。中から漏れてくる威勢のいい店員の声を聞いた私は、いよいよミッション開始だ、と心の中で呟いた。



 お互いに酔った状態ならば質問もしやすいだろうし、松木さんも気前よく答えてくれるかもしれない。そんな私の期待は、テーブル席に座った直後に早くも崩れ去ることとなった。


「えっと、とりあえずビールでいいですか?」

「あ、私はお酒飲めないんです」


数秒間、黙ってしまった。呆気にとられながら私は、これまで平常心で直視できなかった松木さんの顔をしっかりと見つめていた。


「え?じゃあ、どうして居酒屋にしたんですか?」

「だって、早川さんは飲むんですよね?」

「いや、まあ、そうですけど......」


ということは、私に気を遣って居酒屋を選んでくれたのか。


「なんか、すみません。私に合わせてもらっちゃって......」

「大丈夫ですよ。というか、別に居酒屋は嫌いじゃないですから。どうぞ、遠慮しないで飲んでください」


ニコリと笑った松木さんは、ちょうど近くを通りかかった店員さんを呼び止め、生ビールとジンジャーエールを注文してくれた。これも本来は、年下の私の役目だろうに。


「何から何まですみません......」

「良いですって。気を遣わないでください」

「すみません......」

「謝らないでください。もう、謝るの禁止です」


そう言って松木さんは自分の唇の前に人差し指を立てた。その大人っぽい雰囲気に似合わず、意外と可愛らしいことをするな、なんて思いながら、また「すみません」と言いそうになる所をぐっと堪える。


 運ばれてきたビールとジンジャーエールをそれぞれ持ち上げ、乾杯を交わす。食道を通っていく冷えたビールが、緊張を少しは洗い流してくれたような気がする。ジョッキを置くと、松木さんもジンジャーエールの入ったグラスを口から離したところだった。「ぷはぁ」なんて息を漏らすその姿は、ビールを一気飲みしたおじさんの様だった。ついさっき可愛らしいポーズを見せたばかりなのに。


 少し落ち着いたところで、テーブルの上には飲み物とお通しの切り干し大根しか乗っていないことに気づく。私はメニューを見ながら、「何を食べますか?」と訊ねた。何も返事がなかったので、もう一度同じことを訊きながら顔を上げると、松木さんとバッチリ目が合った。一瞬の空白の後、その大きな瞳が何度か瞬きをすると同時に「え?ああ、すみません」という声が聞こえた。


 2回も言ったのに、聞いてなかったのかな?不思議に思いつつ、「すみませんは禁止ですよ」と先ほどの松木さんの真似をしてみる。松木さんは「そうでしたね」と笑った後で、「なんですか?」と尋ねてきた。やっぱり聞いてなかったみたいだ。同じことをもう一度言うと、「早川さんにお任せします」という答えが返ってきた。その言葉に甘え、適当に料理をいくつか注文する。


 これまで松木さんと対面していた場所には必ず主任も同席していて、基本的には主任が会話の口火を切ってくれていた。そのせいで、今この場でどんなことを話すべきなのかが分からない。どのような話題を切り出せば良いのか。頭の中の引き出しを開けたり閉めたりするけど、何も正解は見つからない。無言のまま、ビールがどんどん減っていくばかりだ。


「今日はありがとうございます」


唐揚げとポテトサラダが運ばれてきた頃、松木さんがそう切り出した。私はその助け船に遠慮なく乗り込むことにした。


「いえ、こちらこそありがとうございます」

「急でしたよね。本当に予定とかなかったですか?」

「何もないですよ。予定なんて滅多に入りませんから。本当は主任も来れたらよかったんですけど」


「そうですね」と言いながら左手に持った箸で唐揚げをつまんだ松木さんに続いて、私もひとつ取り皿に乗せ、半分ほどの大きさに齧った。思いのほか熱かった唐揚げに驚いていると、松木さんが「でも」と呟いた。


「でも、私は早川さんと仲良くなりたいなって思ってお誘いしたんですよ」

「え?」

「もちろん、3人でご一緒できれば良かったとは思います。でもそれより私は、早川さんとお話してみたかったんです。いきなり早川さんをお誘いしても、まだ知り合ったばかりですし、断られるんじゃないかと思いまして」


割り箸を取り皿の上に揃えて置いた松木さんに、じっと見つめられる。すると私の体は、まるで何かの呪いにかかったように動けなくなる。


私がずっと憧れ続けていた真月佑奈と同じ、大きな瞳。


私、この瞳には弱いんだよ......


「こちら、野菜スティックとだし巻き卵、カマンベールフライになります」


そんな店員さんの声のおかげで、ようやく呪いが解けた。運ばれてきたお皿を並べながら、お礼を言う。私に合わせて小さく頭を下げていた松木さんは、店員さんが戻って行くと同時に、野菜スティックのきゅうりに手を伸ばした。


 ......何の話をしてたんだっけ。確か、松木さんが私と仲良くなりたいから誘ってくれたとか。


 それは喜んでいいことだよね?好意的に思ってくれていたっていう事だし。「仲良くなりたいと思って」なんて面と向かって言われると照れてしまう。


「お酒、好きなんですか?」


 松木さんからの「仲良くなりたい」発言について考えを巡らせていたのに、当の松木さん本人の中ではそれは既に過去の話題らしく、また別の質問が飛んで来ていた。


「あ、はい。飲まない日の方が少ないくらいには、好きですよ」

「意外ですね。勝手に早川さんはお酒に弱い方なのかと思ってました」

「割と強い方かもしれません。松木さんは、全く飲まれないんですか?」

「そうなんです。20歳の誕生日に大学の友達のペースに合わせて飲んでいたら、あっという間につぶれてしまって。もう......最悪でした。フラフラして具合悪くなって、次の日は頭が割れるくらい痛かったんですよ。それがトラウマで、飲めなくなっちゃったんです」


その話を聞いて私も、自分が20歳になった誕生日のことを思い出していた。その日、お酒でつぶれたのは私じゃなくて彼氏の方だったけど。


 ......あれ?


 今がチャンスなのでは?


 松木さんの方から、20歳の誕生日の話題を切り出してくれた。


 ここしかない。


「あ、あの!」

「はい?」

「その......失礼かもしれませんが、松木さんは今、おいくつなんですか?」

「ああ、28歳になりました」


......真月佑奈は、3年前に25歳で亡くなった。生きていれば28歳だ。


「えっと......お誕生日は?」

「ついこの前ですよ。4月1日です」


......真月佑奈と同じだ。


年齢も誕生日も同じだ。


双子の姉を持つ真月佑奈と、彼女同じ顔をした松木玲菜という女性。


この2人は、出身地、年齢、誕生日が一致している。


まさか......本当に?


 そう思った瞬間に、これまでとは比べ物にならない緊張感と、それを上回る高揚感が沸き上がり、私の身体中を一気に駆け巡った感覚がした。


 次の瞬間、私は無意識に真月佑奈が受けていたインタビューの内容を思い出していた。


『高校を出たくらいから姉とは連絡を取っていなくて。何をしているのかは分かりません。まあ、どこかで元気にやってるんじゃないですかね』


 もし本当に2人が双子の姉妹だとして、高校を出てから連絡を取り合っていなかったという事情から考えると、姉妹の仲は決して良い状態ではなかったのだろう。


 そうだとすると、この話題に踏み込むのはかなり危険性が高い。せっかく誘ってもらったこの時間が、私の質問で台無しになるかもしれない。


 もし私の読みが外れていて、松木さんと真月佑奈が全くの他人だったとしても、それはそれで場の空気をおかしな方向へ向けてしまいかねない。食事に誘ってあげた女が、いきなり自分のことを「亡くなった歌手の双子の姉」と決めつけてくるのは、松木さんとしても気分が良い話題ではないだろう。


 とにかく、今日のところはここまでにして、「妹」という話題には踏み込まないように気をつけなければ。


「早川さんの誕生日はいつですか?」


オーバーヒート寸前の頭で真月佑奈のことを考えていると、松木さんから逆に質問されてしまった。会話の流れとしてはごく自然だけど、私にとってはデリケートな問題だった。


 私の誕生日は12月28日。それは真月佑奈の命日でもあるのだ。でも、誕生日をごまかすための表向きの理由なんて、いくら考えても思いつかない。


冷静に。努めて冷静に。


「......12月28日です」


私の誕生日を聞いた松木さんは黙ったまま、残り少なくなったジンジャーエールを飲み干した。


......何か言ってください。


 私の中で徐々に和らぎ始めていた緊張が再び大きくなるのを感じながら私がそう願っていると、松木さんは空になったグラスを置いてから少し笑顔になり、「年末ですね」と呟いた。


「は、はい。年末です」

「私は4月1日生まれなので、ギリギリ早生まれになるんですよ。小学生の頃は、すごく劣等感を感じていました」


 そこから松木さんは、これまでの人生で経験してきた「4月1日生まれエピソード」をたくさん話してくれた。


 ほぼ1歳上の同級生に勉強でも運動でも勝てなかったとか、エイプリルフール生まれだから嘘つきだとバカにされたとか。春休み中に誕生日を迎えてしまうから学校で祝われたことが無いというエピソードは、誕生日が必ず冬休み中だった私にとっても「あるある」で、その寂しさを共感して盛り上がったりもした。


 その間も注意深く聞いていたが、「双子の妹」という言葉は一切出なかった。次第に私の中でもその話題に対する意識は薄れていき、気がつけば純粋に松木さんの話を楽しんでいた。


 松木さんも、いつの間にか私に対して敬語を使うことをやめていた。一気に距離感が近くなった気がしたが、別に嫌な感じはしない。学年で言うと4年先輩の松木さんが私なんかに敬語を使う理由なんて無く、その方が自然に思えた。 


 どれくらいの時間が過ぎたのだろう。私が3杯目のハイボールを飲み干したことを確認した松木さんが「そろそろ、帰ろうか」と呟いた。


「そうですね。えっと、お会計......」


合計金額を確認しようとテーブルの脇に掛かっていた伝票を手に取ると、パッと松木さんにそれを奪い取られた。


「私が出すから」

「そ、そんなの申し訳ないですよ!」

「いいの。私が誘ったんだし、歳だって私の方が上なんだから。ご馳走させて」

「でも......」

「でも、じゃない。ご馳走させて」

「すみません......」

「謝るの禁止って言ったでしょ?」

「あっ」


ルールを忘れていた私を笑った松木さんは、イスの背に掛けていたジャケットを羽織った。そして、その内ポケットからスマホを取り出すと、「連絡先、教えて?」と私にそれを差し出した。業務用のメールアドレスは交換していたけど、おそらくこの場合の「連絡先」は、私個人の連絡先ということだろう。


「れ、連絡先ですか?」

「......ダメなの?」


一瞬で「ガッカリ」という雰囲気の表情を浮かべた松木さんに、慌てて自分の言葉を訂正する。


「ダ、ダメじゃないです。むしろ嬉しいです。まさか松木さんからそんなことを言ってくれるとは思わなくて、ちょっと驚いただけです」


松木さんの表情が、笑顔に戻った。松木さんは酔っていないはずなのに、最初とかなり印象が変わっている気がする。表情が柔らかくなって、ある意味で「だらしない」笑顔になっている。まあ、話しやすくて楽しいから良いんだけど。


 連絡先の交換を終えてレジへ向かうと、松木さんは宣言通り全額払ってくれた。


 駅まで歩く中、私は何度も松木さんにお礼を言った。「ごちそうさまでした」と言う度に、松木さんは手をひらひらさせながら「いいってば」と笑った。毎回同じ動きをする松木さんが面白くて、後半はわざと言っていたけど。


 家の方向が逆だった私たちは駅で別れた。混雑する電車に1人で乗り込んだところで、今日の松木さんとの会話を思い返してみる。純粋に今日が楽しかったから忘れかけていたけど、真月佑奈と松木さんが双子の姉妹だという可能性が一気に高まってしまったのだ。


 これから、どうしよう。


 いや、どうしようも何もないのだけれど。


 この数時間で松木さんとの距離感が一気に縮まったのは喜ばしいことだが、その分だけ、松木さんの前で「真月佑奈」の名前を出しづらくなってしまった。とにかく、まだしばらくは気をつけた方がいいかもしれない。


 駅に停車すると、目の前の座席に座っていたサラリーマンが降りていった。すかさずその席に座った私は、交換したばかりの松木さんの連絡先を開き、『ごちそうさまでした』というメッセージを送った。1分も立たずに送られてきた返信は、『いいってば』というメッセージと、熊のキャラクターが手をひらひらと振っているスタンプだった。

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