2nd

「そんなに緊張する?」


取引先まで向かう電車の中で主任にそう訊かれた。何も言っていないのに緊張を指摘されたということは、それだけ私の体から不安が滲み出ていたのだろう。なんとも恥ずかしい話だが、ここで「なに言ってるんですか?余裕ですよ」なんて見えを張ったところで、恥の上塗りでしかない。


「緊張しますよ。つい先月まで、ひたすら事務作業しかやってなかったので......他の企業の方と会うなんて、人見知りの私には高い壁です」


フフッと笑った主任は、隣に座る私の背中を軽く叩いて「大丈夫だよ」と言ってくれた。そりゃ、あなたにとっては大したことない事かもしれないですけど。そう言いかけた言葉をぐっと飲みこむ。


 私の指導を担当してくれることになった主任は、私より2年先輩の、営業部では数少ない女性社員だ。入社当初から営業部に配属された彼女は、今年から主任という肩書を与えられ、それなりに期待されている存在だという。昨夜に開催された営業部の飲み会で、主任が期待されている理由を他の社員たちから聞かされた。


 うちの出版社で発売している漫画雑誌に広告を掲載してもらうための営業での出来事。当時営業部に在籍していた男性社員が、取引先の担当者の目の前で、うっかりその会社のライバル企業の商品を褒めるようなことを口走り、相手方を激怒させてしまったのだという。その現場に同行していた新入社員だった主任は、怒り心頭の担当者の機嫌を取るため、言葉巧みな交渉術を展開。なんと、そのまま契約成立まで巻き返してしまったのだという。そんな出来事から、主任への期待値は一気に高まったらしい。ちなみに、その同行していた上司は、今年の春に転勤になったとか。


 1年目からそんな活躍を見せていた主任にとっては、外回りの営業なんて余裕に決まっているのだ。逆に私はそんな主任の活躍を聞いてしまったせいで、さらに緊張が増している。それに加えて、これから向かう取引先がまさに1年目だった主任が活躍を見せた企業だというのだから、かなりのプレッシャーだ。


「その......先方の方は、どのような方なのでしょうか」

「別に怖い人じゃないよ。いつもは大体50代くらいの男の人と、私と同世代の女の人が2人で迎えてくれる。もう何年も契約してくれてるから、営業というか、ほとんど雑談をしにいくようなものだし。だから今日は、私がその2人に早川さんを紹介するのがメインになると思う。よっぽど変なことを言わない限り大丈夫だよ」

「でも私、ゲームとかあまりやらないんですけど......」


これから向かうのはゲームソフトを作っている会社だ。万が一「うちの商品で好きなゲームはありますか?」なんて訊かれたらどうしようか。


「大丈夫だよ」

「もし、色々訊かれたりしたらどうしましょう」

「訊かれないって。いざとなったら、私が上手く言ってあげるよ」

「そうですか......」

「さすがに緊張しすぎだよ。営業なんて、そんな怖いものじゃないから大丈夫。他のことでも考えてみなよ」


笑顔のままの主任に、少し注意されてしまった。優しく言ってくれたが、要するに「大丈夫だって言ってるでしょ。静かにしていなさい」ということなのだろう。取引先でのミスを怖がるあまり、主任から愛想を尽かされてしまってはどうしようもない。「すみません」と謝り、言われた通りに他のことを考えることにする。


 電車の中のモニターを眺めていると、あるCMが流れ始めた。どこかの森林の中を、1人の女性が歌いながら歩いている。


 最近人気のシンガーソングライターである彼女のことを初めて知ったのは2年前。私が就活中に行くことを諦めた真月佑奈の対バンツアーの情報が発表された時だった。結果的に真月佑奈の最後のツアーとなったそのライブで共演していたのが彼女だった。その頃は真月佑奈よりも知名度は低かったのだが、現在では歌番組に頻繁に登場したり、女優として映画やドラマにも出演したりと、一躍時の人となっている。もし真月佑奈が今も元気に活動していたら、こうやって人気が出ていたのかな。このシンガーソングライターをテレビで見かける度に、そんなことを考えてしまう。


「好きなの?」

「は、はい?」

「あの人」


主任がモニターを指して尋ねてきた。


「あ......いえ、特にそういうわけではないですけど。主任はお好きなんですか?」

「いや、私もあんまり知らないんだけどね。私の友達が好きで、よく聴いてるの。人気らしいね」

「らしいですね」


そこからしばらく、お互いの趣味の話題になった。主任は小説が好きで、大学時代は書店でアルバイトをしていたこともあるらしい。この出版社の入社試験を受けたのも、本に関する仕事を続けたかったからだという。私も本が好きでこの会社を第一志望にしていたということもあり、お互いの好きな小説の話で盛り上がった。いつの間にか、先ほどまでの不安はどこかに消えていた。


 目的の駅で電車から降りた私たちは、取引先まで歩いて移動する。4月になったばかりだが、急いで歩いていると少し汗が滲む程度には気温が高い。ここ数年、気温が上昇し始める時期が早まっているのは気のせいではないと思う。これが、地球温暖化というやつなのだろうか。


 黙って歩いていると再び不安が襲ってきそうだから、この時間を利用して気になっていたことを主任に尋ねてみる事にする。


「主任。1つ訊いていいですか?」

「なに?」

「私、どうして営業部に配属されたんでしょうか」

「え?どうして?」

「私なんかよりも、営業に相応しい人はたくさんいると思うんですけど」


会社の中でも特に人間関係を築いていなかった私は、一体誰の目に留まって転属が決まったのかが不思議でならなかった。人事部の人間が、なぜそんな判断を下したのか、いくら考えても分からない。


「うーん。私もちゃんと言われたわけじゃないから、詳しくは知らないんだけど。でも、人事部の知り合いに早川さんのことを訊いたら、『仕事熱心っていう噂だよ』って言ってた」

「私がですか?」

「そう。いつも熱心にパソコンに向かっていて、仕事が早いって。そんな噂が少しずつ広まって、人事部の耳に入ったんじゃないかな。丁度、去年までうちの部にいた女性の先輩が結婚して辞めたから、その後釜として白羽の矢が立ったんだと思う」


 確かに、同期の社員に比べて仕事が早いという自覚はあった。ただ、それは単に「早く帰りたい」という不純な理由によるもので、真面目に働いていたのかと言われれば、決してそんなことはない。単純作業は得意な方なので、仕事というよりも「作業」という意識で、ひたすら無心にやっていただけだ。それが周囲から「仕事熱心だ」と受け止められていたというのは、なんともばつが悪い。


「本当に私でよかったんでしょうか。他にも優秀な人はたくさんいると思いますが......」

「早川さんだって優秀でしょ。まだ3日くらいしか一緒にいないけど、真面目だなって思うもん」

「そうですか......」


それは単純に、主任に迷惑をかけたくないから必死に話を聞いていただけ。真面目ではないけど、手を抜きたいわけではないし。ただそれだけの事で「真面目な子」になってしまうなんて、他の人たちは一体どんな態度で仕事をしているのだろう。そんなことを考えていると、主任が「だけど......」と話を続けた。


「早川さんは真面目だけど、少しネガティブな言動が目立つかな」


そう指摘された私は、「ああ......」と声を絞り出したきり、何も言葉を出せなくなってしまった。あまりにも心当たりが多すぎたからだ。


 子供の頃から「どうせ」が口癖だった。


 どうせ無理。どうせダメ。


 大体、その枕詞は「私なんて」だ。


 ピアノを辞めた理由も「私なんて、どうせ下手なままだから」だった。中学校で好きな人ができても「私なんて、どうせフラれるに決まってる」と言って告白はしなかった。


 最悪の出来事を想定して、何かと向き合うことから逃げるのが私の癖だ。


 そんな私の性格を更に加速させたのは、真月佑奈の死だった。


 それまで家族や親しい人が亡くなるという経験をしたことがなく、彼女の訃報は私に「死」という概念を強烈に焼き付けた。


 この世に生まれた命は、必ずいつか死を迎える。


 私の家族にも、友人にも、平等に死は待ち構えている。


 当然、私もいつか必ずその瞬間を迎える。


 どんなに楽しい人生を送っても、どんなに幸せな人生を送っても、どんなに努力を積み重ねても、その先には必ず「死」が待っている。その事実を突きつけられてしまったのだ。


 どうせ、みんな死んじゃうんだ。


 そんな考えが私の脳内を占拠して、全く生きる気力が出なかった。これからの人生で待ち構える困難を乗り越えていく自信が無かった。


 そして、それは今も変わらない。


 自ら命を絶とうとした事はないが、強く「生きたい」と思うこともない。


 もちろん生きていれば、心から楽しいと思う瞬間はいくつもある。その分、虚しくなってしまう瞬間も多くある。


 今すぐ人生が終わりを迎えたとしても、そこまで後悔はない。そう考えるようになった。


 こんな考え方は良くないとは理解しているものの、性格という物はそう簡単に改められるものではない。


 それこそ、私が死ぬまで変わらないと思う。


「すみません......直した方が良いとは思うんですけど」

「まあ、性格はそう簡単に変えられないよね。大丈夫だって。肩の力を抜いて気楽にやろうよ。きっと上手くいくから。ほら、着いたよ」


そう言われて、いつの間にか地面へ向いていた視線を上げると、目の前には立派なビルが建っていた。うちの会社もそれなりに立派だとは思うが、ここには負けるだろう。


「行こう」

「は、はい!」


透明で大きな自動ドアを通る主任の後ろにピッタリとついていく形で、ビルの中へ足を踏み入れた。



 応接室に通された私と主任は、立派なイスに横並びで座った。プレゼン等で使うのか、大きなモニターとスクリーンが設置されていて、窓からは東京の街が一望できる。


「凄い部屋ですね」

「うちも、これくらいの設備は欲しいよね」


あったところで使わないけどね、と笑う主任。やっぱり余裕だな。一方の私は、なんとか静かにしてくれていた「不安」というヤツが、この部屋を目の当たりにしてしまったことで再び騒ぎ出していた。何故か分からないが、就活の最終面接を思い出してしまう。


 主任の話によれば、50代の男性と、20歳後半の女性がこの部屋へやってくるらしい。「怖い人ではない」と言っていたけど、人見知りの私にとっては、知らない人と会うことが「怖い」。相手がどんな人であろうが、実際にはあまり関係ないのだ。


「名刺だけしっかり渡して、あとは私たちの話に合わせてくれればいいから」

「は、はい」


その直後、ドアがノックされる音が響いた。主任に促され、イスから立ち上がる。ドアが開き、1人の女性が部屋の中へ入って来た。


「お待たせして申し訳ありません」


そう言いながら私たちの前に立ったその人の顔を見た瞬間。


全身の毛が逆立つ感覚に襲われた。


視界に描かれていた部屋の景色が一気にぼやけ、その人の顔だけに焦点が合った。


パンツスタイルの黒いスーツを着たその女性。


濃いベージュでウェーブがかった髪が、肩まで伸びている。


横に流された前髪の下から、真っすぐこちらを見つめる大きな瞳に吸い込まれるかのように、目を逸らすことができない。


心臓の鼓動が速くなっていくのを感じる。


その女性も私の視線に気がついたのか、少し困惑したように首を傾げる。


「ほら、名刺」


隣の主任に小声で指摘され、慌てて自分の名刺を取り出し、名乗りながら両手で名刺を差し出す。手と声が震えないように気をつけながら。


「初めまして」


そう言いながら笑うその顔が私の中へ飛び込んでくる。心臓を撃ち抜かれたような衝撃と共に、背中の上を汗が伝っていくのを感じた。


「大丈夫ですか?」


優しく訊いてくれるけれど、全く大丈夫ではない。


原因は、目の前で微笑んでいるその顔。


その顔が、ここに居るはずのない人と同じ顔だから。


私の目の前に、真月佑奈が現れるなんて、絶対にありえないから。

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