1st

 引っ越し業者を見送ってから部屋の中へ戻り、開封される時を待っているように並んでいる段ボール箱を無視して、まだ綺麗な床に寝転ぶ。天井にまだシーリングライトが付いていない接続部分を見つけて、これから買いに行かなければならないことを思い出した。これから生活をしていけば、他にも必要な物が浮き彫りになっていくだろう。その点においては、社員寮の方がある程度の物は揃った状態で入寮できたから楽だった。


 社会人3年目を迎えたこの4月、私は営業部への転属を命じられた。入社してから2年間は総務部で一般事務をしていて、自分でも事務の淡々とした仕事を気に入っていたから、喜ばしい配属ではない。ましてや人見知りの私にとって、営業など不向きに決まっている。それでも「やりたくないです」なんて言えるはずもなく、その配属を甘んじて受け入れた。これから待ち受ける日々を考えると憂鬱になってしまう。そんな私は、自分なりに心機一転を図り、社員寮からこのマンションに引っ越してきたというわけだ。


 顔を横に向けると、荷物の詰まった段ボール箱と目が合った。ネットショッピングの繰り返して積み重なっていた段ボールを利用したのだが、側面に描かれたロゴが顔のように見えて気味が悪い。


「......なによ」


ただの段ボールに向かってそう呟いた私は、箱を開封しようと体を起こした。しっかり張り付けられたガムテープを切ろうとカッターかハサミを探して部屋を見渡したところで、カッターもハサミもまさにその段ボール箱の中で出番を待っているということに気がついた。


 カッターが自主的に中からガムテープを切り裂いて出てきてくれればいいのに、なんてくだらない妄想をするが、もし本当にそんなことが起きれば、私は真っ先に部屋から逃げ出すだろう。


 手の爪でどうにかならないかと試してみても、伸びた爪が嫌いで頻繁に手入れをしていることが仇となり、少しテープに跡が残る程度に終わった。溜め息をついて再び段ボールに目をやると、ニヤリと笑っているように見えるそのロゴが、こんな状況に陥っている私を嘲笑っているかのように感じる。その顔に軽くパンチを入れてから、買い物へ出かけるために立ち上がった。



 自分が歩いている場所とスマホのアプリを照らし合わせ、駅まで続くルートにどんな店があるのかを確認しながら、これから何度も歩くことになるであろう道を歩いていく。マンションの内見に来たときには気がつかなかったが、マンションのすぐそばにレンタルDVDショップがあった。休日に映画を観て過ごすのが好きな私にとって、心強い存在になってくれそうだ。


 数駅分を電車で移動して大きな家電量販店まで来た私は、現時点で分かっている必要な物をここで全て揃えてしまおうと思い、1階からじっくりと散策することにした。早々に発見した文具コーナーでカッターを探す。そこで見つけたのは、段ボールの開封専用の道具だった。段ボールを開けるためだけにカッターをもう1つ買うのは馬鹿らしいと感じていたから、これはちょうどいいと思い、それを買い物カゴに入れた。


 次に照明コーナーを探そうと振り返ると、遠くに並んでいる数台の電子ピアノが目に入った。小学生の頃に数年間ピアノ教室に通っていた私は、当時あのような立派な電子ピアノに憧れていたことを思い出し、ピアノコーナーに足を向けた。


 中央に陣取っているピアノの前に座り、鍵盤に触れる。ピアノを弾くのは何年振りだろうか。社会人になってからは間違いなく初めてだ。小学6年生のときにコンクールへ向けて練習していた曲を弾いてみる。先生に指導されながら繰り返し練習を重ねたこの曲は、何も考えずに弾けてしまう程度には今でも体に染みついている。近くを通る人の視線を感じるが、この久しぶりの感覚を楽しむことを優先する。


 どれくらいの時間が経ったのだろうか。そろそろ店員に注意されるのではないかと急に冷静になり、逃げるようにピアノコーナーを後にした。


 小学生の頃は半ば強制的に習わされていたピアノも、社会人になった今では純粋に楽しんで弾くことができた。マンション住まいになり、部屋にピアノを置くのも良いかもしれないと思ったりもするが、良いピアノは当然のように値段も張る。社会人3年目の私にはまだ手が届かない。だからと言って安いもので妥協していては、小学生の頃と環境が変わらない。「オトナ」になるには、それなりの物を買わなければ。いつか高級電子ピアノを部屋に置けるように、仕事を頑張ろう。


 音楽関連の商品が並ぶそのエリアを歩いていると、CDプレーヤーのコーナーを発見した。今や音楽は配信で聴くことが当たり前になり始めていて、ひと昔前では信じられないほどCDプレーヤーの形見が狭くなっているのが分かる。スピーカーのコーナーにはスマホを接続するタイプの物が溢れていて、この量販店にディスプレイされているCDプレーヤーも、10種類にも満たない程度だ。


 そんなことを考えているこの私も、確かにこの数年はあまりCDを聴かなくなった。実家にいる頃から使い続けていたプレーヤーも、この引っ越しを機に捨ててしまった。私の場合は、CDを聴かなくなった理由は配信サービスの台頭だけではないのだけれど、聴かなくなったことは確かだ。


 久しぶりに、あのアルバムをCDで聴いてみるのもいいかもしれない。そう思った私は、有名なメーカーのロゴが描かれたプレーヤーを選び、その商品のバーコードが記載されている札を手に取った。 



 マンションに帰って来た頃には、もうすっかり辺りは暗くなっていた。シーリングライトにCDプレーヤーまで買った私は、大荷物を抱えて電車に乗るのを諦め、タクシーを使ってしまった。無駄な出費にあまり後悔していないのは、引っ越しをした高揚感のせいか、それとも引っ越しの疲労で頭が回っていないだけか。


 スマホのライトを頼りに、天井に買ってきたライトを付ける。壁のスイッチでしっかり照明のオンとオフを切り替えることができるかを確認した後、ようやく段ボールの開封作業に取り掛かる。あれから数時間が経ったというのにまだ笑い続けているロゴに、私が手に入れた秘密兵器を見せつける。それでもロゴは表情を変えず、余裕の笑みを崩すことはない。大したヤツだ。


 並んでいる段ボールに貼られたガムテープを一気に切り裂き、中の物を取り出す。勿論、しっかりとハサミとカッターも入っている。待たせてごめんね。申し訳ないけど、もう君たちに用はないんだ。今までありがとう。心の中から語り掛け、2人ともペン立ての中へ入れてあげた。


 他の段ボールに入れていた中身も整理しつつ、私は目的の物を見つけた。何枚も重なっているそれを取り出し、1枚ずつじっくりと眺める。


 最近はスマホに入れた音源を聴くことが増えていたから、真月佑奈が生み出した曲が詰まったCDと向き合うのは久しぶりだ。彼女が私の誕生日に亡くなってから、しばらく彼女の曲を聴くことはできなかった。どれだけ好きな曲でも、彼女の歌声が流れてくれば、その存在がもうこの世にないという事実を突きつけられてしまうから。


 彼女が亡くなって数か月後にリリースされたアルバムも、購入はしたもののCDを再生することはできなかった。写真もデザインも描かれていない、ただ紫色に塗られたジャケットに小さく、アルバムタイトルである『PURPLE』という文字が印されているそのCD。私はフィルムを剥がすことができなかった。


 本人すら予期していなかったであろう形で、真月佑奈のラストアルバムとなってしまったその作品。彼女と共にレコーディング作業を行っていたエンジニアが発表したコメントによれば、私が香織と行くはずだったフェスのステージで、アルバムのリリースを発表する予定になっていたらしい。そのアルバムについて真月佑奈はレコーディング中、「私のすべてを詰め込んだ」「最高傑作になる」と繰り返し発言していたという。あの真月佑奈が自ら「最高傑作」と評したアルバムでさえも、私は聴くことができなかったのだ。


 初めてそのアルバムを聴いたのは、真月佑奈が亡くなってから1年が経過した日だった。つまり、彼女の1回忌でありながら、私の23歳の誕生日でもあった12月28日だ。その日は朝から、何をやっていても彼女のことが頭から離れなかった。忘れられないのならば、逆に真月佑奈で頭を埋め尽くしてやろうと思った私は、初めてCDのフィルムを剥がして、そのアルバムを再生した。


 確かに、素晴らしいアルバムだった。真月佑奈の才能が存分に発揮された楽曲の数々。真月佑奈の集大成でありながら、彼女の更なる進化を楽しみにさせてくれるような、最高の作品に仕上がっていた。だからこそ、その「進化」を見ることはできないという事実が改めて浮き彫りになってしまう。この作品を作っていた彼女の気持ちを想うと、遣り切れなかった。


 特に、アルバムのラストを飾る『アサガオ』という曲が終わった瞬間、それまで我慢していた涙が溢れたのを覚えている。その曲は、ギター1本での弾き語りだった。真月佑奈の曲では珍しく、純粋で真っすぐな感謝の気持ちが綴られた歌詞になっていた。


『ありがとう』

『あなたがいるから頑張れる』

『今は会えないけど』

『いつか会える日が来ますように』

『愛してる』


 そんな言葉が重ねられた、誰かへ向けたメッセージのような歌詞。もしかすると、当時の真月佑奈には恋人や大切な人がいて、その人へ向けた曲だったのかもしれない。だけど彼女が亡くなった後にリリースされたアルバムの最後にこの曲が流れると、まるで別れのメッセージのようにも聴こえてしまう。まるで自分がいなくなることを分かっていたかのような。そんなことは絶対にありえないが、私はこの歌詞を真月佑奈から私への最後のメッセージだと解釈して、何か辛いことがあった時にはこの曲を聴くようになった。


『あなたがいるから頑張れる』


その歌詞を聴く度に、「私もあなたのおかげで頑張れる」と天国の真月佑奈に想いを馳せる。その肉体はもう消えてしまったかもしれないが、彼女が遺した曲を再生すれば、いつでも真月佑奈が歌ってくれる。


 明日から、いよいよ新たな生活が本格的に始まる。不安もたくさんあるが、きっと大丈夫だ。今夜は新しい私の家で、真月佑奈が歌ってくれるから。


 そう決意した私は、真新しいCDプレーヤーに『PURPLE』をセットし、再生ボタンを押した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る