第27話 まずは恋人未満の距離から

 二人が館に戻るともう日は暮れ始めており、リルリーシャは逃げるように書斎に逃げ込んでしまった。祐治も迷うことなくベッドに飛び込んでいた。

 肉体的な面で考えれば睡眠が絶対に必要であるというわけではないのだが、疲れを取るにはやはり睡眠だろう。少なくとも精神的には疲弊するくらいの出来事は今日起きている。

 だが、数え切れないくらいの寝返りを繰り返した後、祐治は一人つぶやいた。


「眠れない……」


 硬いマットレスのせいで体も痛くなってきており、寝返りをして肘を打ち付けようものならば猛烈な痺れに襲われるのだ。感覚を遮断できるとはいえ、祐治は睡眠時にそんなことをするつもりもない。

 そもそもこの体において祐治は意識のオンオフもある程度に切り替えられる。この世界に来てから不眠に悩まされたことはなかった。それができないのは明確な原因があるせいであり、そしてそれは考えるまでもなく明白で、リルリーシャのことだった。彼女と直接話して、決着を付けなくてはならない。そしてそれができないのだから、こうベッドの上で反復回転運動を繰り返しているのだ。

 祐治はそのまま左右にゴロゴロと転がるのを繰り返し、やがてベッドから落ちた。

 もしかしたら一晩眠って夜が明ければ何事も無かったかのように解決しているのかもしれない。そんな淡い期待を捨てられなかったのだ。幽霊に怯える子供のように朝を待てばそれでいいのかもしれないと。そんな風に自分で何もできないのが嫌だったはずなのに。

 祐治は意を決して部屋を出るとリルリーシャの書斎へ向かった。

 予想通り、でもないが彼女の部屋から明かりが漏れているのに祐治は驚かなかった。そのまま迷うことなく扉を開ける。

 彼女は頭上のランプに火を灯したまま机に突っ伏して眠っていた。祐治は一度深呼吸をすると、足元を気にしながら忍び寄るようにゆっくりと近づいていく。床には沢山の本が散らばっているのだ。本棚の中から探しものをして、邪魔になるものを全部ぶちまけたようにも見える。

 祐治はリルリーシャから2,3歩離れたところで足を止め、机の上で重なっている本に視線を向ける。彼女がどんなものを読むのか興味があったが文字は読めないし、表紙に絵が描かれているわけでもない。

 祐治は決戦の前のように一度深呼吸をして、彼女の肩に手を伸ばした。


「おい、リルリーシャ」


 ビクリと一瞬彼女の身体が痙攣するように跳ねたと思えば、振り向きざまに祐治の手を払い、逆の手に生成した剣を突き立てようとしてくる。

 無意識ながらもその流れるような動作を為せる彼女は達人の域に達しているのかもしれない。だが、機械のように正確で、一点のブレもない動きならば祐治に対応のしようはあった。一度は見たのだから。

 祐治は待ち構えていたように剣を生成し、リルリーシャの剣を上から叩き落とすように弾いた。キレイな金属音が響き、剣は簡単にリルリーシャの手から落ちる。祐治は安堵したが、それで終わりではなかった。

 リルリーシャは持ち替えるようにナイフを生成し、振り上げるように祐治の首元を狙う。一撃を防げば当然目覚めると思っていた祐治はそれを受ける余裕もなく、全力で避けることだけを考えて体を逸しながら後ろに足を引いた。そこで何かに躓き、背中から落ちる。

「うおぉっ!!?」

 彼女の足だった。柔道だったら完全な一本負けだろう。リルリーシャはそのまま祐治に馬乗りになり、胸の前でナイフを両手で握ったまま止まった。

 またやられてしまった。清々しい敗北感を覚えながら祐治は彼女の祈りが終わるのを待つ。刃物を向けられても不思議と恐怖心は無かった。刺されても死なないことが分かっているから、ではない。彼女が本当に他人を助けたいと思っているなら、無意識の内に人を殺めるようなことはしないだろう。祐治はそう信じることができた。


「んんっ……ゆ、うじ……?」


 寝ぼけたような声で彼女が名前を呼んでくる。


「おはよう」


 大体のことは一度踏み出してしまえば後は容易いものなのかもしれない。少なくとも今の祐治にはリルリーシャと話すことに躊躇いも恐れも無かった。


「それにしてもやたら組み付いてくるよな。そういう戦法なのか?」


 その余裕を見せつけるかのように祐治はからかい混じりに言った。リルリーシャは手元と祐治の顔を何度か見比べ、ナイフを祐治の喉もとに突きつける。


「大体の者はこう脅せば降参してくれるからな。無駄な殺生をせずに済むのじゃ」


 淡々と言いながらリルリーシャが見下ろしてくる。その視線は敵にも慈悲を見せていた魔女とは 思えないほど怒りに満ちていた。まるで意図的に表情を作り上げているかのように。


「確かにそうだな。俺も降参だ」

「み、認めぬ」

「……え?」

「認めぬ! だ、だって、お主! 夜這いに来たのじゃろ!? 眠って無抵抗な私に……ああ、口にするのもおぞましい! 降参など受け入れるものか!」


 「眠って無抵抗」な彼女に抵抗された結果、押し倒された上に刃物を突きつけられ襲われる側みたいになっていると祐治は言えなかった。それよりもまずは誤解を解かなくてはならない。


「じゃあ降参を受け入れてくれないってことは、俺を殺すのか?」

「……そんなわけないじゃろ」


 そう呟き、不満げにリルリーシャが睨みつけてくる。


「だが、人の部屋に勝手に入って襲おうとしたのじゃ。それなりに罰を与えさせてもうぞ?」

「ちょっと待ってくれ。確かにこんな時間に勝手に入ったのは悪かった。本当にすまん。だけど、襲うつもりなんて本当に無かったんだ。信じてくれ」


 祐治は素直に謝った。黙って書斎に入ったのは失敗だった。いくら惚れてしまったとはいえ相手が相手だから手篭めにしようだなんて思ってもいなかったが、夜に女性の部屋を訪れるというのはそういう風に捉えられてもおかしくない。


「んむ……じゃあ何をしに来たのじゃ?」


 リルリーシャが瞳に疑いの色が交じる。魔女の慧眼は全く機能していないようだった。


「話の続きに」


 それしかないだろう、と祐治が心の中でつぶやく。


「続き?」

「ああ。あの城でのさ。途中だっただろ?」


 そういえばあのときだってこんな風にのしかかられていたことを祐治は思い出した。話

を再開するには丁度いいかもしれない。


「そっ、それは……えっと……」

 リルリーシャの瞳が泳ぐ。


「はっきりさせておこう。俺は……」


 そこまで言って祐治はリルリーシャの瞳を見つめ直した。彼女は両手で縋るようにナイフを握りしめ、祐治を見下ろしていた。ここから選択を間違いでもしたら、刺されてしまいそうだ。祐治は喉を激励するために唾を飲み込んだ。


「お前が好きだ」


 祐治の人生で初めての告白だった。今までできるだけ安全で平坦な道を選んできた祐治に、自分の心の深い部分を他人に晒そうだなんて思ったことはなかった。もし、その見せたものを否定されでもしたらきっと自分は耐えきれないから。

 祐治はじっと彼女の唇を見る。そこから唱えられる呪文は彼女が手にしている刃物なんかよりも、よほど致命的な傷を与えてくることだろう。

 リルリーシャは恥じらうように視線を祐治から逸し、その小さな桃色の唇を開いた。


「……うん、私も」


 その至高の魔法の囁きは祐治の心を一瞬の内に喜びで満たした。永遠にこれに溺れられれば、それでも至福の最期を迎えることができるだろう。だが、そうはいかないのだ。


「……じゃ、じゃあ私たち、恋人同士になるのか、な?」


 そのリルリーシャの可愛らしい問に頷けたらどんなに幸せだろう。しかし、何も考えずにそれを受け入れることは今の関係と何も変わらない。言葉一つ交したところで、愛玩用のペットが恋人になりはしない。


「それは……なれない」


 自分が彼女に追いつくまで、少なくとも自分がそう自分を認められるまで、その時は訪れない。祐治はそう自分に言い聞かせ、きっぱりと彼女の言葉を否定した。そしてリルリーシャが動く前に、間髪入れずもう一声上げる。


「刺すな! 刺すなよ!!」

「さ、刺さぬよ。お主は私を何だと思っているのじゃ」

「ご、ごめん。何かすごい身の危険を感じて……」

「それは当然じゃのう。相手を殺すか脅す位置取りじゃからな」


 そう言いながらもリルリーシャが降りる気配は無い。先までの乙女のような甘やかな雰囲気は消えている。祐治の答えでリルリーシャの夢は覚めたようだった。


「で、どういう意図じゃ? 普通は、その、恋仲の男女は恋人になるのじゃろう?」

「普通はな。でも俺たちは普通じゃない」

「魔女だからか? たしかにそうかも知れぬが……」

「俺は弱い。お前からしたらゴミみたいなものさ」

「そんなことはないが……うぅ、面倒くさい。仮にそうだとして何の関係があるのじゃ?」

「俺が満足できない。リルリーシャの恋人になるのなら、同じくらいの強くて隣に立てるのが当然だと思う。だからそのときまでは恋人になんてなれない」


 言ってしまった。彼女にはくだらなく映るのだろうか。だが、それでも自分はもう譲ることはできない。弱気で臆病者で、自分一人では何も踏み出せなかった自分がこうまで決心したのだ。彼女自身にさえ、揺るがさせはしない。


「お主、やっぱりわがままなんじゃな。私のものだったくせに」


 リルリーシャはどこか嬉しそうにそう言って、ナイフを投げ捨てた。


「……だいたい私だって話しきってなかったことがあったんじゃぞ? それなのに先立ちおって」

「え?」

「お主が私を助けてくれたとき本当に嬉しかった。牢に閉じ込められたときもお主が私を助けようとしてくれていると聞いたとき、どんなに嬉しかったか。震えながらあのハインリッヒに立ち向かったとき、本心ではどんなに喜んでいたか。お主は自分が役に立たないと言っているが、それでもお主のその気持ちが本当に嬉しくて……」


 そこまで言って限界を迎えたのか、リルリーシャは目を逸した。


「こ、ここまで言っても、やっぱりダメか……?」


 恥じらうように甘える彼女を切り捨てるのは祐治にとってハインリッヒに立ち向かうのと同じくらい過酷なものだった。

 だが、同時に祐治は確信していた。これでも自分が引いてはならない場面なのだと。ここで一瞬前の自分の決意を捻じ曲げ、甘い誘惑を受け理れることこそが自分を魂を腐らせるのだと。


「ダメだ。それはダメなんだ」


 それを聞いたリルリーシャは寂しげで、祐治にはすごく脆そうに見えてしまった。何かで繋ぎ止めておかなくては簡単に崩れてしまいそうなほどに。


「……だからまずは友人から始めさせてくれ」


 人の関係性はどこかで明確に線が引かれているわけではない。言葉でその区切りをつけることは青空と夕焼けの境を見つけるくらい無駄なことではある。だが、例え仮初であろうとも、彼女との間に明確な、言葉にできる関係を作りたいと祐治は思った。

 リルリーシャは祐治の言葉にぽかんとしていたが、腹を抱えるように笑い始めた。


「ふふっ、ふは、あっははははは、そうか、『始める』か」

「リルリーシャ?」

「いや、私たちはまだ友達でも何でもなかったというのが妙におかしくてな。そうじゃよな。だって、私は元々お主のことを……」


 リルリーシャが祐治に覆いかぶさるようにして瞳を見据えてくる。2対の昼と夜の瞳が鏡合わせのように互いが互いを映し合った。


「ここから新しく始まるのじゃな。では、改めて問わせてもらおうか。私たちはいい友人になれるよな?」


 世界の理さえもねじ曲げるな魔女の傲慢さと、穢れなき少女のような純真さを持って彼女が尋ねた。

 祐治の答えは紛うことなく肯定であった。その先にも行かなくてはならないのだから。

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