第26話 魔女の薬

 丸1日置いて、次の朝、二人はサーラの家にたどり着いていた。並外れた身体能力を持つ二人にとって闇夜に紛れて街から出ることはさほど問題ではなく、祐治が懸念していたように追手に捕まることもなかった。

 つまりはさしたる脅威もない逃避行だったのだが、祐治にとって最も問題だったのは沈黙だった。それは街へ行くときにおいても経験したものではあるのだが、気まずさはその比ではない。静寂さが形を持って窒息させに襲いかかってくるようであった。逃れるにはリルリーシャと言葉を交わすしかないが、発声方法を忘れてしまったのかのように自分の喉は微動だにしなかった。


「これが魔女様のお薬?」


 二人が渡した瓶と眼の前の魔女たちを見比べてサーラは不思議そうに首をかしげた。その瞳には疑いは欠片も浮かんでおらず、純粋な疑問が口に出たようだ。

 魔女様の、と前置きを付けたのはそれがあまりにも「きれい」だからだろうか。何やら文字が掘られた形の整った瓶にそれを包んでいた鮮やかな色彩の布。幼い少女にもそれは人の営みから外れた魔女が作り出したものと言うよりも、洗練された都市の商品として映ることだろう。


「いや、買ったものじゃ。あれだけ格好つけて恥ずかしいのじゃが材料が足りなくてな。だが、こっちの方がお主は安心じゃろう?」


 リルリーシャはきっぱりと少女の夢を砕き、その父親に視線を向ける。


「あ、ああ。変なものを飲まされたらたまらんからな」

「ふふっ、安心するがいい。ほれ、薬屋の名前も瓶に彫ってあるじゃろ? それだけのことができる一流の薬屋のものじゃ」


 心なしか落ち込んでいるサーラを元気づけるようにリルリーシャが言った。


「でも……魔女様が作ってくれるって言ったのに……」

「サーラ……我儘言っちゃだめよ……」


 ベッドに横たわっているサーラの母、アンナがかすれた声を出した。それでも前回見たときよりはだいぶ顔色は良くなっていた。


「……はい。ごめんなさい、魔女様」

「いや、気にするでない。私が調合するとはっきり言ったからな。それに関しては約束を守れなくてすまぬ」


 リルリーシャはあっさりと頭を下げた。


「さて、叶うことなら効果が確認できるまでついていたいところだが……そうはいかぬよな。祐治、出よう」


 そう言って振り返ってきた彼女の顔には微笑みが張り付いていたが、祐治には少しだけ悲しげに見えた。こうして他人を助けるために奔走したというのに自分が報われることを信じていないようだった。

 それは見返りを求めないと考えれば完全な善なのかもしれないが、単純に自分が忌み嫌われている魔女だということを否定できていないだけなのかもしれない。


「いいのか?」


 どう声をかけるか悩みながらも祐治は尋ねた。漠然とした意味のない問だ。


「何がじゃ?」


 先程サーラがしてみせたようにリルリーシャは首をかしげる。


「……いや、お前がいいならそれでいいよ。行くか」


 掘り起こすことでも無いだろう。それよりも大きな問題はあるのだから。そう結論づけて祐治が振り返ったその瞬間だった。


「待て!」


 後ろから怒声にも近い声で呼び止められる。サーラの父親、カールのものだった。


「……何じゃ? 早く出ていって欲しいのではないのか?」


 カールは口にこそ出さなかったが、それを望まれていることは祐治にもわかるほど露骨な視線を送ってきていた。どういうつもりなのだろうか。


「お前らはどうしてこんなことをしたんだ? 何が目的なんだ?」

「そんなことか……」


 リルリーシャは苦笑した。だが、今回の出来事の根源に近い問ではある。救われる側としてははっきりとさせておきたいのであろう。いかなる理由で魔女に救われてしまったのかを。

 祐治はその傍ら、口を挟まずにリルリーシャの言葉を待った。彼女に記憶を流し込まれたときに色々知った気もするが、霞ほどの密度も残っておらず、そして、巻き込まれた自分としても非常に興味があった。


「そこの娘が助けを求めて、私が助けたいと思ったからじゃ」


 あまりにも簡潔な説明に全員が無言でリルリーシャを見つめ、補足を待つ。


「何じゃその視線は。これが全てじゃぞ?」


 リルリーシャは呆れるように全員を見回す。


「……どうしてそんな風に思ったんだ? 一緒にいたけどただの気まぐれに人助けしたくなったようには見えなかったぞ?」


 それは単純な祐治の疑問であった。


「お主は知って……いや、もう記憶は抜けて……」


 そこまで言って祐治と目があった瞬間、何か恥ずかしいことを思い出したかのようにリルリーシャの顔が赤く染まった。それから祐治から床へと視線を落とし、呟いた。


「私は強大な力を持つ魔女じゃからな。弱きものを助け、救うのは当然じゃろう?」


 それはとても崇高な精神だと祐治は思った。自分には全く及ばない完璧でカッコいい考えだと。そしてそれを実践していたと言われれば認めざるを得ない。そしてすぐに思い至る。自分の扱い方もそれと同じなのだ。愛玩用のペットのように大事に扱われていたのも彼女より遥かに弱者であるからに過ぎない。

 そう気付いてしまえば行き場の怒りが湧き上がってくる。自分は彼女に助けられるのが、弱者として庇護されるのが気に食わなくて、自分の足で同じ場所に立ちたかったのだ。そうでなければこの自分の想いが伝わるはずはない。ペットと主人では恋愛関係にはならないのだ。現に、ヴィクトリアに言われるまで彼女にはそんな考えの欠片もなかった。

 あの戦いはその立場を脱し、同じ場所に立つ絶好の試練だったのだ。それを善意からとはいえ彼女に水を指されてしまった。


「貴族と同じじゃよ。その富故に責務があるように、強大な力を持つ私も、その責任を果たさなくてはな。だが、今まではそれも拒絶されるばかりで、誰かに求められたのは初めてだったのじゃ。気合も入るじゃろう?」

「本当にそれだけなのか?」

「うむ。だから安心せい。見返りに何か求めることもせぬ。そういうわけで私は帰るぞ。何かあればまた頼るが良い。魔女の慈悲は全てのものに向けられるのじゃ」


 気取ったように言ったリルリーシャにサーラ一家は感激の視線を向けるあれだけ敵対していたカールまでも表面上はそれを見せている。そしてそれは同じ魔女という枠に入れられている祐治も同じく向けられており、すぐに逃げ出したいような居心地の悪さを祐治は感じた。

 自分は彼女のような気高い思いを抱いていたわけではない。ただ、漠然と流れるがままに彼女を手伝い、サーラたちを助ける結果になっただけだ。その証拠に、今の自分はこの醜い幼稚な激情をこらえるのに精一杯である。こんな風に恩人扱いされる資格など無い。


「出よう」


 短く吐き捨てるように言って祐治は家を出た。リルリーシャはそれに続いてすぐに追いつき、横に並ぶ。それ以上のことはなにもない。静かな帰り道がまた始まった。

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