第36話 職場見学

「前向きな返事をいただけて嬉しいです。では、これから絵麻君が実際に調査に向かいますので、君は一緒に行って見学をしてください。最後の返答はその後に聞かせてもらいます」


 真っ直ぐに僕の目を見据える所長さんは「自分のすることを、自分の目で見て決めるんだよ」と締めくくった。

 その一言だけは、これから従業員を雇おうとしている側の代表ではなく、ただの大人からただの子供へ向けた言葉のようだった。登山の道すがらですれ違いざまに挨拶を交わすような飾らなさと親しみ。


「……、はい」


 僕の消え入るような返事は彼に届いただろうか。

 所長さんが「座って待っていて」と退席すると、すぐに入れ違いになって柴宮さんが入ってきた。


「うーす、お疲れェ」


 返事をしようとして、彼女の姿を目に入れたところで、僕の喉はぐぐぐと言葉を詰まらせた。


「……なんですか、その格好?」

「これ? 親の金に物言わせて世渡りしてきて、大人を舐め腐ってて、金持ちしかいない私服高校に通う学生――って設定。っぽいだろ?」


 まさに、その通りの学生がそこに立っていた。

 柴宮さんはさっきまで三百六十度どこを見てもボーイッシュな格好をしていたのに、今は艶やかな黒髪を垂らした学生服もどきの姿になっている。

 僕の知る彼女よりも性根が悪そうで、幼い顔に見えるのも気のせいではない。化粧で顔が変わるのは姉たちの姿を見ているから知っていたけれど、ここまでくると特殊メイクの域だと思う。

 見慣れない姿でも見知っている人の登場は有り難いもので、僕の体はスイッチが切られたように弛緩した。肺がぶわっと膨らむ。自覚している以上に緊張していたらしい。

 柴宮さんは所長さんの座っていた場所に収まると、印字された紙を一枚と黒のボールペンを僕へと突き出した。


「とりあえず、これね。今日の仕事する上での秘密保持契約書。要は今日見聞きしたことは内緒にしてねってやつ。全部読んでからサインして」

「……分かりました」


 何条何項と書かれてるそれらの文章は堅苦しく言い回しが難解な文体であるけれど、要約すれば柴宮さんが言っている通りのものだった。

 こんなものなくても話したりしない。僕がここにいるのは僕の利己的な私情である。間違ったことをしているつもりはないけれど、人に話して聞かせるものではないという認識はあった。

 不利になるような契約事項がないかを確認して、僕は署名欄へと自分の名前を記した。


「柴宮さん、あの――」

「絵麻でいいよ」


 紙面から顔を上げると、顔こそ変わったものの僕の知る笑い方をした柴宮さんが僕を見ていた。それから、彼女は悪戯に目を細めて「ここの人はみんな下の名前で呼ぶから」と常識を語るように続きを口にする。そうなる理論はよく分からなかったけれど、躍起になって拒否したいことでもなかったから、僕は素直に「そうですか。絵麻さんって呼べばいいんですね」と柴宮さん――、改め、絵麻さんの提案を受け入れた。

 絵麻さんは上機嫌で頷く。


「よろしい。じゃ、今日のお仕事のことさっくり説明すんな」


 そう言って、彼女は二枚の写真テーブルのを並べた。どちらも隠し撮りらしいアングルである。

 一枚は学生服の男子。どこの学校かも学年も分からないけれど、中学生には見えないから高校生だろう。表情は明るく、活発そうだ。過剰な自尊心が写真からでも滲み出ていた。いや、これは偏見か。

 もう一枚はスーツ姿の女性。三十代くらいに見えるけれど、ぴっちりした引詰め髪のせいで老けて見えるだけかもしれない。小綺麗にしていて、特質すべき点の見つからない地味さだった。


「依頼人はこの少年のご両親。依頼内容はママ活の証拠を掴んで欲しいって。ついでにこの関係はどっちから始めたことなのか、彼には写真の彼女以外にも相手がいるのか調べるのが私たちのお仕事」

「ママ活ってパパ活の男版ですか?」

「そ。若い男の子が年上のオネーサンとお食事したり、お小遣い貰ったりってね」


 僕の目は改めて写真へと向いた。やっぱり、人って見かけによらない。

 男子生徒へじゃなくて、女の人への感想である。どこからどう見ても真面目で、そういったグレーゾーンなこととは無縁そうなのに。

 ふと、前に絵麻さんから言われた言葉が頭に浮かんだ。確か、クソババアに口説かれる囮をやってくれる奴を探してる、って言ってたはず。彼女の言うところのクソババア、とはこの人のことなのだろうか。


「……顔の整った若い男を探してたのって、この依頼のために?」

「この依頼限定じゃないけど、やって欲しいことはそーね」


 絵麻さんは「浮気ってさァ、性別関係なくする奴はするもんなんだよね。変な名称で誤魔化してるけど、援助交際も同じでさ。女の子の専売特許じゃないし、やる奴はやるわけよ。クソなことに需要もあるしね。誰が何を提供するか――それに伴って、客も変わるわけ」と呆れたように嘆息した。


「てなわけで、この学生くんの担当は私、このオネーサンの担当は伊朔くん。ま、伊朔くんから誘えなんてことは言わないよ。ただ、釣り餌になってもらう。綺麗に着飾って、隙を見せて、ターゲットを誘う。今日は遠巻き見るだけだから、気負わなくていいぜ」


 気負わなくていい、なんて簡単に言ってくれるものだ。

 所長さんの面接のときは違った緊張で、胃の中がぐるぐるとかき回されているような気分になってくる。自分は緊張しないタイプだと思っていたけれど、案外、そうでもないのかもしれない。

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廿楽ヶ丘伊朔の無謀なる初恋 真名瀬こゆ @Quet2alc0atlus

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