第77話 琥珀に酔わされる③(バレンタインSS)

 ホットチョコレートの甘くほろ苦い香りを纏わせ、ルードの私室の扉を叩く。

 応える声の調子から判断するに、体調に問題はなさそうだ。変な無理をしていなければの話だが。


 中へ入ると、ルードは奥の窓際、書斎机で書類仕事していた。

 カーテンを閉めきった薄暗い室内、机上のオイルランプの光がやけに眩しく感じられ、ナオミは目を眇める。ただし、目を眇めた理由はそれだけではなかった。


「熱は下がったの??」

「ええ、半日眠ったので平熱に戻りました」

「でも無理をしたらまた熱上がるでしょう??どうしても今日中にやらなければいけない仕事??」

「期日に関わりなく、手元にある仕事はすぐに片付けたいんです」


 気持ちは分からなくない、けれども。

 静かな部屋にナオミの盛大なため息が響き渡る。


「常に仕事でキリキリしていたら、知恵熱どころかいつか大きな病気に罹るわよ??休む時は休む!」


 書類や資料の邪魔にならないよう、書斎机の端にコトリ、カップを置く。


「カイラも心配していました。ホットチョコレートでも飲んで、滋養をつけてと言っていたわ。カイラだけじゃない。他の皆さんも心配しています」

「貴女は??」


 カップを持ち上げつつ、液面を見つめながらルードはもう一度問う。


「ナオミさんは??」

「訊くも愚問ね」


 ルードを見下ろすナオミの青灰の瞳を、黒に近い深緑の瞳がじっと見つめてくる。

 気恥ずかしさにぷいとそっぽを向くと、カップに口をつけながらルードがくぐもった笑い声を発した。


「……私はもう寝るから。カップは明日シュナに取りに行かせます。だから、飲んだらすぐに寝てください」

ノーNOと言ったら??」

「話、ちゃんと聴いてました??」


 なんて聞き分けの悪い大人なの!!

 否、大人だからこそ聞き分けが悪いのか??


「……貴方が忠告を聞き入れてくれないことがよぉぉおお─くわかりました!じゃあ、こうしましょう!貴方が寝るまで私はここに居ることにします!!」


 ルードの手からカップが滑り落ち、床へ転がった。

 ホットチョコレートを飲み干した直後だったため、幸いにも床は汚れなかった。しかし、カップを落とした時の状態のまま、ルードはカップを拾おうとしない。ナオミのとんでもない爆弾発言にすっかり硬直し、拾えずにいる。

 代わりにナオミがカップを拾い上げ、机上の元の位置に戻す。

 カップから手が離れる直前、ルードの手が重ねられる。


「……今の言葉の意味、分かって言ってますか??」


 何が、と言いかけて、戸惑いと迷い、かすかな熱が籠ったルードの目に、どきりとさせられた。同時に、先程の発言がいかに大胆な意味を持ち合わせていたかと思い知る。


 自分にしては不用意過ぎる発言だったと、素直に認めた方がいい。

 でも、軽率な女だと幻滅されたくもない。


 珍しく返答に窮するナオミをルードは黙って様子を窺っていたが、やがて、「……たわむれが過ぎました」と解放した。

 ホッとする反面、離された掌の感触が甘い余韻を残し、一抹の寂しさを感じた。

 室内にはまだホットチョコレートの香りが漂っている。


 そう言えば、この間のお茶会でホットチョコレートに媚薬効果があると話題になっていた。ナオミは口にしていないけれど、この甘くほろ苦い香りに少なからず当てられてしまった、かもしれない。


「結婚前に大喧嘩したくないので、今日のところはもう寝ることにします。安心して自室へ戻ってください」

「本当に??」

「でないと、貴女は本気で一晩中この部屋に居座りそうで、却って眠れそうにありません。貴女のことは大切にしたいですから」

「……そんなこと言って。私のこの目で確かめないと信じない」

「ナオミさん」


 今度はナオミの方が聞き分けの悪い大人と化してきている。

 聞き分けが悪いどころか、明らかに困り果てているルードが可愛く思えてきたあたり、完全に悪い大人になりつつある。きっとホットチョコレートの香りのせいに違いない。


 ルードの頬に両手を添え、無防備な唇にそっと口づける。

 すぐに肩を掴まれ、引き剥がされ、ルードの険しい顔が間近に迫る。


「何度も言わせないでください。結婚前に貴女を抱く気は……」

「私じゃない女性ひとは何人も抱いているのに??」


 自分でも驚くほど直截な言葉が飛び出したことで初めて、無意識に芽生えていた嫉妬心に気づかされる。ルードは反論の余地もなく、ぐっと言葉を詰まらせていたが、「さてはチョコレートの香りに酔いましたね……??」と頭を抱えた。


「言っておきますけど、貴女と出会ってから他の女性とは」

「知ってますし、わかってます。でも」

「でも、とは??」


 少し怒った顔でルードに真っ直ぐ見据えられ、ナオミはその先の言葉を飲み込んだ。

 睨み合いに近い沈黙がしばらく続いた。が──


「ええ、わかりました。よくわかりました。今夜の仕事は終わりにしますっ」


 乱暴に席を立ったルードの腕の中、ナオミは強引に引き込まれた。


「その代わり、宣言通りに僕が寝るまで傍にいてもらいますよ」


 昼間の時より強い力で抱きすくめられ、わずかな身じろぎもできずにいると。

 熱と艶を含んだ低い声が耳元で囁いてきた──









 そして、迎えた翌朝。


 今度はナオミの方が熱を出し。

 早朝からセバスチャンの長説教を食らうルードの姿が、デクスター邸で目撃されたとか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る