第76話 琥珀に酔わされる②(バレンタインSS)

(1)


 お茶会の翌日、ルードがセレーヌから一時帰国するとの報せが届いた。更に数日を経て本日夕方、屋敷に到着する予定だとのこと。

 折しも今日は安息日。家庭教師の仕事も休み。

 未来のデクスター家の女主人として、ナオミは使用人たちと共にルードを出迎える準備を進めていた。




「ナオミ様。そろそろルードラ様の到着する時間が近づいてまいりました」

「ええ、わかったわ」


 ナオミの自室の外からセバスチャンが呼びかけてくる。にしても、かつては同じ使用人の立場だった厳格なインダス人執事に、女主人として振舞うことは未だ慣れない。鏡台の前に座り、クリシュナに髪を整えさせるのも気が引けてしまう。


「今日は横の髪だけ結って、残りは降ろしてもらえますか??」

「はいっ」


 若い娘でもないのに、ハーフアップなんて子どもっぽいとは思う。が、どうやらルードはナオミの、癖のない真っ直ぐな髪が好きらしい。髪を下ろしているとさりげなく触れてくることもしばしば。

 以前のナオミなら、誰かのために髪を下ろすなんて絶対しなかった。

 別に媚びているとかではないが、こんな些細なことで彼が喜ぶなら、と思うだけ。


「セバスチャンさん。支度が整いました」

「私に敬称は必要ありませんよ」


 部屋から出てくるなり、セバスチャンにやんわりと指摘を受けてしまった。


「すみません、今までの癖でつい」

「この屋敷ではともかく、外出先では充分気をつけてください。ガーランドせんせ……、大変失礼いたしました」


 軽い咳払いでごまかし、目線を逸らすセバスチャンを、クリシュナと顔を見合わせてくすっと笑う。ナオミたちの反応を見ない振りをし、セバスチャンは玄関ホールへ下りていくよう、促した。


 カーブのゆるやかな大階段を下り、鏡台などの家具が一体化した壁に囲まれた玄関ホールへ立つ。ほどなくして、正面玄関の大扉がゆっくりと開かれる。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 前回の帰国からおよそ一ヶ月。

 艶のある、凛とした低い声に、静かに胸が高揚する。

 いつも引き結びがちな唇が自然と綻んでいく。

 ナオミの姿を認めた途端、ルードの褪めた目にほんのりと喜色が浮かぶ。


「船旅でおつかれでしょ……、ちょっと!」


 皆まで言う前に、大きな身体に、力強い腕にすっぽり包まれていた。


「とても疲れたので英気を養わせてください」

「あのねぇ!」


 引き剥がそうにも体格差がありすぎてもがくことすらできない。

 なんとか目線だけを後方へ向け、セバスチャンに助けを求めようとして……、したけれど、肝心の有能執事はクリシュナ共々二人に背を向けていた。う、裏切者っっ!


「ほ、本気で怒るわよっ?!」


 しかし、ルードは微動だにしない。

 恥ずかしいし、苦しいし、重いし、いい加減に……、重い??

 お互いに自分の足で立っているのになぜ重さを感じる??

 というか、ナオミの姿勢が少しのけぞっているような気がしないでもない。

 ルードの腕から逃れようとしたからかもしれないが、にしてはやたら身体に重さを感じる。


 冷静に状況を確認してみる。

 相変わらずルードに抱きしめられているこっずかしい状況のようで、逆に寄りかかられている気がする……。


「セバスチャン。すぐに引き剥がしてください。様子がおかしい気がします。いえ、様子がおかしいのはよくあることですけど、おそらく体調が」

「承知しました」


 ナオミが言わんとする意味を察した瞬間、セバスチャンは眉ひとつ動かさず、ルードの背後に回る。失礼いたします、と一声かけ、広い肩に腕を回せば、いともあっさりとルードの身体が引き剥がされる。


「ああ、これは……、いつもの知恵熱ですね。平熱より若干高い程度でしょうが」

「また無理をして仕事を片付けてきたのね……」


 額にセバスチャンの浅黒い手を宛がわれるルードを、心配と呆れを交えてしげしげと眺める。


「別に無理なんてしていません。この程度の熱なら慣れています」

「熱を出すこと自体が問題なのっっ!セバスチャン、クリシュナ。早急にルードラさんの寝室の支度をお願いします」

「大袈裟な。休むほどの……」

「い・い・か・ら・お・と・な・し・く・寝・る・の!!」


 びしり、指先を突き出し、ナオミはルードをきつくきつく睨み据える。

 そんなナオミをルードは大層不服げに見下ろしていたが、最終的には「……わかりました」と大人しく従ったのだった。





(2)


「ルードラ坊ちゃまはねぇ、昔から意地っ張りでねぇ。無理や我慢の反動なのか知らないけど、小さい頃からよくお熱を出すんだよ。まっ、大抵は半日か一日休めば元気になるし、そんなに心配しなくてもだいじょうぶさね!若奥様!」

「はあ……」


 まだ奥様ではないのだけど……、と、指摘はあえて心中にとどめておく。

 そんなことよりも明日の食事についての打ち合わせが大事だ。

 就寝前、毎日の献立を厨房係のカイラと決めるのも、女主人の役目の一つ。安息日であろうと、家庭教師の仕事に勤しむ平日であろうと決して欠かしてはならない。


「朝食にはマトン肉にベイクドビーンズ、ブロッコリー、マッシュポテトを付け合わせましょう。芽キャベツの酢漬けとケジャリーも。それから、ルードラさんには滋養をつけていただきたいので、ボイルドエッグゆで玉子も……、また少し痩せた気がしますから」


 ルードは仕事に集中し出すと寝食を忘れる質だと、最近になって分かってきた。


「まったくだよ!あとひと月もしない内にご結婚されるってのに、何を考えてるんだか!!坊ちゃまのボイルドエッグは二個にしてやろうかねぇ??」

「カイラさ……、カイラに任せます」

「よしきた!若奥様の言質取ったよ!!」

「よろしくお願いします」

「任せときなぁ!あっ、打ち合わせ終わったし、もうお部屋にお戻りだろ??ついでに、こいつを坊ちゃまのお部屋へ持っていってくださいな!アタシやシュナが持っていくより、若奥様が持って行ってやった方が喜ぶと思いますよっ」


 なるほど。甘ったるくもあり、ほろ苦くもある香りが厨房中に漂っていたのは、今し方トレイごと突き出されたのせいか。


も滋養があるって聞くからねぇ。よろしくお願いしますよ!」

「ええ、わかったわ」


 ホットチョコレートの深い琥珀の液面を見つめながら、ナオミは快くトレイを受け取った。






 ※収まらなかったので、もう一話続きます……!

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