番外編

第74話 (大遅刻の)キスの日SS

 ※時系列は最終話からしばらくのち。正式に婚約交わした二人。

 ※キスしないと出られない部屋ネタ



 季節は初夏へ移り変わっていた。

 鳥籠の形に似た全面硝子張りのコンサバトリーで柑橘の香り漂う紅茶をいただく。向かいの席には数日前、この国に一時帰国した婚約者ルードの姿。


 談笑混じえて近況報告は自然となにげない雑談へ。

 こんな風にルードと穏やかに時間を過ごすなど、ほぼ一年と少し前だったら信じられない状況である。


「紅茶がなくなりましたね。シュナを呼びましょう」


 席を立ち、屋敷へ繋がる呼び出しベルを鳴らすと、ルードはふと思い出したようにナオミに告げる。


「そう言えば、天井のタペストリーを夏の星図に変えたんです」


 クインシーがルードの母である亡き妻のために作らせた星図タペストリーは、本物の夜空と見紛う美しさだ。夕方以降に眺める方がより美しさは引き出されるが、昼間の明るい陽光に照らされていてもその美しさは損なわれない。

 期待を込め、天井を見上げてみる。しかし、そこにあったのは陽光に煌めく星々ではなく──


『キスをしないとこの部屋から出られません』


 存分に蔑みを込め、じとり、席に戻ってきたルードを睨む。


「あの、何か」

「自分の胸に手を当てて考えてみたら??」


 ついさっきまで柔らかな笑顔だったナオミの冷たい視線と声音に、ルードの端正な顔に疑問符が浮かぶ。


「とぼけないで。あれは何なの??」

「あれとは??」

「あの不埒な言葉は何って訊いているのですっ!!」


 本気で意味が分からない、と言いたげなルードに業を煮やし、天井に指先を突きつける。つられて天井を見上げたルードの黒に近い暗緑の双眸も、ナオミのを視認するなり褪めていく。


「くだらない」

「あ、貴方じゃないの?!」

「僕があんな幼稚な悪戯仕掛けるように見えますか」


 過去のあれこれ思い返したら、と言いたいとこだが、出会った当初の話であり、冷静に考えれば今の彼なら絶対仕掛けないだろう。


「それとも、あの言葉に従ってしますか??」


 再び席を立ったかと思うと、ルードの指先が座ったままのナオミの顎に触れる。


「ちょっと……」

「冗談ですよ」

「ちょっと──?!」

「だいたい鍵もかけていないのに出られない筈ないじゃないですか」


 ナオミの顎から指を離し、ルードはくつくつと小さく笑いながら硝子の扉へ近づいていく。遊ばれた!腹立つったら!!

 唇を引き結び、広い背中を忌々しげに睨んでいるとルードが呆然とナオミを振り返ってきた。


「なに??」

「開かないんです」

「は??悪い冗談はやめてちょうだい」

「悪い冗談であればよかったんですが」

「嘘でしょう?!」


 にわかに信じられなくて席を立ち、扉の前へ。

 ルードに代わって扉を開けようとするも、彼の言う通りぴたりとも動かない。


「シュナが紅茶を運んでくるまで少し待ちますか。外から開けてもらえば問題ない」

「ええ、そうね」


 扉から離れ、元いたテーブルへ戻る。そのうちクリシュナがティーセットを運んできてくれて、扉を開けてくれるだろう。


ところが、二人の希望的観測は見事に外れることとなった。


「おかしい。呼び出してからもう三十分過ぎました」


 もう何度目とも知れない、懐中時計で時間確認する度にルードの苛立ちは募りつつある。ナオミも同様に。


 ナオミは時間の無駄遣いを好まない。

 かと言って、あの不埒な文字に従わせられるのも面白くない。だが、どちらがより不快かと言えば、時間を無駄遣いさせられる方だ。


 別にキスをすること自体が嫌ではない。

 婚約している間柄だし、たまにだがする時だってなくはない。まだ慣れていなくて恥ずかしいのと、強制されるのが嫌なだけであって──


「ナオミさん」

「はい??」


 考え込んでいたせいでうつむきがちだった顔を、ついと上げる。見計らったように、ルードの指が再びナオミの顎を掬う。

 ぎゅっと目を瞑り、今度は逃げずに短いくちづけを受け入れる。

 照れ隠しでぷいと顔を背けた直後、風もないのに、がたん!と扉がひとりでに開いた。

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