第73話 前世とか運命とかはどうでも良くて
全面硝子張り、鳥籠を思わせる形のコンサバトリーに久しぶりに足を踏み入れる。
まだ日差しが陰る時間でもないのに、気のせいか室内が若干陰って見える。天井を見上げると、まだ夕方じゃないのに例のタペストリーが飾られていた。
ルードに促され、室内中央、タペストリーの真下のテーブルへ座る。
ルードが向かいに座ると、計ったかのようにクリシュナが二人分の紅茶を用意する。
退出間際、クリシュナの戸惑う瞳と目が合う。『授業を遅らせてごめんなさいね』と目線に込めれば、軽くぺこり、頭を下げられた。
お茶の相手をして欲しい。
そう乞われたからついてきたのに、ルードは無言のまま静かに茶を啜るのみ。
話があるのではないのか。込み上げる苛立ちを抑えつつ、ナオミから話の口火を切った。
「セレーヌでのお仕事は順調ですか??」
「ええ、予定よりも仕事が速く進んでいますし、言葉もジャレッドさんシモーヌさん夫妻のお陰で慣れつつあります」
「そう、それはよかった。でも、当分は落ち着かないのでは??」
そしてまた会話が途切れる。
手持無沙汰を紅茶を飲むことでやり過ごすにも、小さなカップでは時間つぶしにもならない。互いのカップが空になるのに大して時間はかからなかった。
「シュナを呼びましょう」
空のカップに気づくと、ルードが呼び出しベルを手にし、つい、ナオミは自らの手を重ねて鳴らそうとするのを止め立てる。
驚いてナオミを見返すルードの黒に近い、でも、昼間の明るい時間ならはっきり濃緑だと分かる双眸をまっすぐ見据える。逸らすことは絶対許さないとばかりに。
「ごまかさないで。言いたいことがあるなら、包み隠さずちゃんと話して」
上から重ねた手に更にぎゅうと、きつく力を込める。
夫でも恋人でもない男性の手に触れ、あまつさえ握りしめるなんて淑女失格。恥ずべき行為なのは重々理解している。
「貴方、本当は忙しいのにわざわざ一時帰国したのでしょう??そこまでして……」
「そこまでして帰国する理由なんて一つしかありません」
そこそこ力を込めていた筈なのに。いともたやすくルードはナオミの手を優しくどかすと、行き場をなくした細い指先を握り返してきた。
振り払おうと思えば振り払えるのにできない。する気にもならない。
「僕と結婚しませんか」
迷いを捨て去った濃緑がナオミの青灰の瞳を射抜く。
「少し前に姫と騎士の夢を見ました」
投げやりとも取れる素っ気ない口調。
やはりルードも同じ夢を見ていた。
悲劇の恋人同士の生まれ変わりだと信じ込んでいた分、落胆は大きかっただろう。
ナオミの同情を感じ取ったのか、ルードの口元が自嘲に歪む。
「心配に及びません。前世だとか運命だとかはもうどうでもよくて。あくまで貴女と関わるきっかけを作った些細な事象でしかない」
ナオミの手を握るルードの手に力が籠る。
さっきと立場がまるで逆。けれど、ナオミよりルードの方がより切迫しているのは火を見るより明らか。
「僕は貴女がいい。貴女じゃなければ絶対嫌だ」
声も目線もいつもの褪めた体を装っているようで、出てくる言葉は正直だ。
表に出さないだけで出自ゆえに諦めること、耐えることも多かっただろう彼がはっきり見せた、子供の駄々に近い本音。
長年培ってきた矜持や価値観が覆されていく。
情に流されてるだけ。気の迷い。惑わされてはいけない。
以前なら一笑に付し、ばっさり切り捨てた。
でも、もう以前の自分には二度と戻れない。
「……参します。ええ、完全に降参です」
大きく息を吐き出し、深く顔を伏せ──、すぐさま勢いよく顔を上げる。
心なしか頬が熱い。目に見えて赤くなっていないといいけれど。
「ということは──」
「……っつ!YESだって言っているの!何度も言わせないでよ!!」
「いえ、再確認しただけですが」
「いちいち確認する必要ないでしょう?!」
激しい羞恥の反動で物凄く腹が立ってきた。
ルードは怒りに駆られるナオミをぽかんと見つめたのち、頬を緩め、吹き出した。
「すみません、まさか
左手はナオミの手を握ったまま、右手を口元に宛がって笑いを堪えるルードに益々腹が立つ。
「この方が緊張が解けて話しやすいかもしれませんね」
「あらそう」
目尻に涙を浮かべ、くつくつ笑ったあと、ルードは再び真面目な顔に戻る。
「冗談はさておき……、結婚後の生活についてですが」
「話の展開が早くないですか」
「この国での家庭教師の仕事はぜひ続けてください。今現在受け持つ生徒はセイラを除いて何人いますか??立ち入ったことを訊きますが、各年齢は??」
「今は四人です。一番上の生徒が十七歳、一番下は十二歳です」
「家庭教師が教えるのは原則十八歳まででしたね。ということは、最低でも六年、か」
「あの、仕事を続けてもいいとの言葉はとてもありがたいのですが……」
それでは、この国とセレーヌとでの別居生活になるのでは。
「もちろん条件はあります。今後受け持つ生徒は現在の五人のみ。その五人が十八歳になるか、他の何らかの理由でナオミさんが教える必要がなくなるまでです。責任感の強い貴女のこと。理由はどうあれ、自分から生徒の教育を途中放棄するなんて耐え難い筈。そうでしょう??」
「……参ったわ。すっかり見透かされてる。まったくもってその通りです」
何しろ、クインシーの申し出を断った最もたる理由でもある。
「でも、貴方はそれでかまわないのですか??長い間別居生活になるのに」
「ときどきはこうして帰国します。そうでなくとも、万が一貴女が寂しくなった時にも」
セレーヌへ向かう船で感じた孤独感を思い出す。あんな言い様のない寂しさ、人恋しさを感じた時に真っ先に浮かんだ顔が今、目の前に。
「セレーヌで共に暮らすようになった後も、あちらで家庭教師……に限らずですが、仕事をしたかったらぜひしてください」
「ちょっと……、ううん、だいぶ私にとって都合が良すぎる話ばかりね」
「いいんですよ。僕は貴女の仕事に対する熱意を尊敬しています……、というのが半分。あと半分は貴女を確実に妻にするために、貴女の退路全て断ちたいので」
にこやかに結構な執着心を聞かされ、うわぁ……とドン引きしつつ。
考え直す気にならない自分も相当だと頭を抱えたくなりつつ。
握られたままの手の温もりに、ナオミは確かな愛おしさを感じていた。
(了)
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