第72話 運命なんてくだらないから③

 長く厳しい冬が終わり、春が訪れた。


 デクスター商会が一月ひとつきほど前に販売開始したティーバッグ紅茶は、中産階級以下を中心に初動から売れ行き好調だ。

 セレーヌ支社発足準備で本国不在のルードに代わり、ほぼ退任状態だったクインシーが本社の仕事に忙殺され。デクスター邸はあるじ不在の日もあり、執事のセバスチャン始め使用人たちが責任を持って留守を預かっていた。


 ナオミは今も尚、家庭教師を続けている。

 昨年末の醜聞が尾を引き、未だに新しく受け持つ生徒はいなかったが、贅沢しなければ生活に困ることもない。もう少しほとぼりが冷めるまでは、最低でも夏くらいまでなら現状維持でも特に問題ない。

 昨年の初夏から今冬にかけては色々とめまぐるしかったが、これからは例年通りの落ち着いた日々を送れるだろう。


 そう信じていたのに。










「セイラお嬢様っ、危ないので下りてください!」


 この国では珍しいうららかな日差しが降り注ぐ午後。

 デクスター邸の庭園の一角で悲鳴混りのクリシュナと、淡々としつつ焦りを含むセバスチャンの叫びが響く。

 必死に呼びかけてくる二人にかまうことなく、オリーブの樹の枝に腰かけたセイラは「だあいじょうぶだもん」と呑気に足をぷらぷら揺らす。


「こんな時に限ってハリッシュさんがお使いに出ているなんて」

「仕方ない。梯子を持ってくるから、シュナは見張りを頼む」

「はいっ、承知しました」


 急ぎ、屋敷へ駆け戻っていくセバスチャンの足音が遠ざかっていく。

 ひとり残され、不安でそわそわと落ち着きなく頭上を見上げるクリシュナに「どうされましたか??」と救いの声が。


「せ、先生」

「……って、あぁ、そういうこと」


 クリシュナの視線の先を追い、頭上を見上げてナオミは瞬時に状況を理解した。


「セイラさん!またですか!すぐに下りてきてください!!」

「えー、やだぁ」

「嫌じゃありません!危ないですし、みなさん心配していますし、お仕事でお忙しいのですよ?!お手を煩わせてはいけません!!」


 セイラは、ぷん!と頬を膨らませ、そっぽを向く。


「セイラさん!」

「……せんせーがセイラのとこまできてくれたら一緒におりる」


 昨年もセイラを捕まえるために樹に登った結果、落木したのだけど?!

 皮肉なことに今回もまったく同じ樹で、おまけにセイラが腰かけた枝は昨年の時より更に高い場所。登ろうと思えば登れるが、少しだけ身構えてしまう自分がいるのも事実。


「ガーランド先生。その……、無理しないでください、ね??セバスチャンさんがもうすぐ梯子持ってきてくれますし」


 落木事故を思い出したのか、クリシュナが気遣ってくる。

 その気遣いが逆にナオミを奮い立たせた。


「先生?!」

「安心して。充分気をつけますから」


 おろおろと樹の周りを右往左往するクリシュナが眼下から離れていく。

 袖やスカートの裾が枝葉にひっかかり、絶対どこかしらの糸がほつれた気がする。アパートに帰ったら直さなきゃ。

 髪にも小枝がひっかかり、いたっ、と思わず声が出る。引っ張られた弾みできつくシニヨンにした髪が乱れ、あちこちからおくれ毛が飛び出てぼさぼさ。落木しなくてもすでに散々である。


「さあ、ここまで登りましたし、一緒に下りますよ」

「えっとねぇ、せんせー。あれ見て」


 話聞いてます??と叱ろうとして、セイラが小さな指で指し示す先──、デクスター邸含めた屋敷群の屋根屋根を越え、少し離れた東側の大通りへと、視線を向ける。


「あの通りがなにか??」

「あそこの桜、きれいでしょ!」


 大通り沿いに咲く桜並木は満開に咲き誇り、遠目であっても淡く儚い美しさが存分に伝わってくる。たしか、この国と実母マダム・ドラゴンの祖国との友好記念にと贈られ、植樹されたのだったか。

 ナオミは普段通らない道ゆえに、ほんのたまに通ったとしても桜をじっくりと眺めたことなどなかった。近くで見たならより一層美しく感じただろう。


「ここから見てもきれいだから!せんせーに教えたかったの!」

「そう、でしたか。教えてくださってありがとうございます。……でも。もう戻りますよ??」

「はあい、わかりました」


 ごねるかと思いきや、素直に頷くセイラにホッとした直後。


「シュナ。あれはいったい……」


 樹の下で困惑気味にクリシュナに問いかける、よく耳馴染みのある、凛とした低い声。え、と動揺と共に、大きく身体がかしぐ。二本の腕が宙を掻く。


 上からはセイラ、下からはクリシュナの盛大な悲鳴が耳をつんざく。

 けれど、いつかのように頭を打ちつけ、意識を飛ばすこともなく、全身を地面に叩きつけられることもなく。多少の落下の衝撃は受けるも、身体のどこも痛めなかった。


「怪我は??」

「た、たぶん、ないと思います……」


 すぐ耳元で乱れた呼気混じりに先程の声がささやく。

 呆然としたままささやきに答えれば、頭上で安堵の溜息が漏れる。


「お二人共、何をなさっているのですか」


 我に返ったのは梯子を抱えて戻ってきたセバスチャンの、眼鏡越しに向けられた冷たい視線と厳しい声音のお陰だった。


 え、なに。

 今どういう状況なの。


「あ、あの、違うんです。セバスチャンさん」

「わかっている、シュナ。なんとなくどうしてこうなったのかの想像はつく。きっと不可抗力だったと。それでも」


 浅黒い頬を真っ赤に染め、ナオミたちを庇うクリシュナを制し、セバスチャンは主にルードへ向けて更に厳しく言い放つ。


「ルードラ様。いつまでガーランド先生を離さないおつもりですか。セイラお嬢様の教育にもよろしくありません」


 ナオミは恐るおそる、改めて自ら置かれた状況を顧みる。


 背中全体と下半身に服越しながら人肌の温もりを感じていたのは、ルードの胸に背を預け、伸ばした膝の上に座っていたから。つまり、背後から抱きしめられていたのだ。


 おそらく落木したナオミを抱き留めたはいいが、完全には受け止めきれず尻もちをつき、現在の状態に至ったに違いない。

 だが、正確な状況を把握するなり、よろめきながらもナオミは即座に立ち上がった。


「あ、あの!助けていただいてありがとうございます!!」


 まだ座り込んでいるルードを振り返れなくて。

 失礼は承知で背中を向けたまま礼を述べる。


「すみません、もうすぐ授業の時間ですし準備をするので失礼します!セイラさんも!遅れないよう、すぐに樹から下りてください!」


 この場にいるのが恥ずかしくて気まずくて。

 逃げるようにナオミは屋敷の通用口へひとり向かう。

 玄関ポーチとは違い、簡素な木戸の扉の黒ずんだドアノブを掴み……、でも、開くことまではできなかった。


「授業があります。離してください」

「授業なら遅らせればいい。この後、別の家での仕事はないですよね??」


 ドアノブを掴むナオミの手に、更に重ねられた大きくやや浅黒い手を睨む。

 反論しようと口を開く前に「雇用主として命じます」と告げられれば、家庭教師としてのナオミは逆らえない。


 ドアノブから指先を外すとルードの手も離れていく。

 平静を装い、初めてルードの顔を見、目を合わせる。

 前より痩せた気がする。慣れない異国の地、頼れる者が少ない中での支社立ち上げの苦労は想像に容易い。


「帰国後最初のお茶の相手をしてください。三十分、いえ、十五分だけでもかまいません」


 普段と変わりないようでいて懇願する響きを持つ声。

 雇用主云々の言葉がなかったとしても逆らえそうになかった。

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