第66話 閑話休題⑦

 あの後──、マダム・ドラゴンの乱入ののち、ナオミはメモを元に乳母ナニーに連絡を取ってくれた。


 彼女曰く乳母とは六歳で別れて以来、数年間は年に何度か手紙を送っていたが、ある時期から返事が来なくなったとか。

 二十年近く音信が途絶えていたナオミを覚えているのか。覚えていたとして快く訪問を受け入れてくれるかどうか。不安は尽きないが、一か八か当たってみないとわからない。


 結果はすぐに出た。


 ナオミの乳母は彼女のことをちゃんと覚えていた。それだけでなく、なんと、こちらから言い出す前に『時間がもしあればぜひお会いしたい』とさえ口にしてきたのだ!


 これは僥倖。渡りに船ときた。

 ナオミが早速訪問の約束を取りつけたのは言うまでもない。

 更に幸運なことに、家族総出で出迎えてくれるとのこと。


 幸運すぎる申し出に便乗、ティーバッグに詰めた紅茶を持参し、利便性をそれとなく伝えられたら……、これが最低限果たすべき目的。

 そのため、今現在、ルードの部屋でナオミと二人、ティーバッグに茶葉を詰めるという地味ながら大事な作業に勤しんでいた。


 窓辺のサイドテーブルに厨房で借りてきた計量器を置き、小皿に乗せたカップ一杯分の茶葉の重さを量る。量り終えた茶葉を小皿ごと机上へ戻すと、ナオミがティーバッグへ袋綴じし、銀製の丸い缶へ詰めていく、

 繰り返される単純作業。ふいに茶葉の小皿を置くルードの指先と、小皿を取ろうと伸ばしたナオミの指が触れ合う。


「おっと、失礼」

「いえ、こちらこそ……」


 即座に手を引っ込めて謝罪すると、ナオミはルードが触れた指先を握りしめ、目を逸らす──、も、すぐに平素の淡々とした態度で小皿を手に取った。


 まただ。気まずさが完全には消えていない横顔に違和感が生じる。

 気まずさも嫌悪というより、そわそわと落ち着かないと言った方が近い、ような。


 茶葉を量る手は休めることなく、ナオミがセレーヌ入りして以降、もう何度目か知れない『まさか』を考え、頭を振る。思い過ごしかもしれない。でも、そうじゃなかったら──??


 出会った頃なら確実に押しに押し切っただろう。しかし、昨年末、エメリッヒ家の夜会で『ナオミの口から何かしらの答えが出されるまで待つ』と宣言したのは、何を隠そうルード自身。内心焦れるのは勝手だが、決して表には出さないようにしなければ。


 だが、今現在、固い筈の決意が少し揺らぎかけている。


 作業を終え、計量器の返却ついでにティーセットを持ってきてくれるよう、従業員に伝える。ただし、『茶葉はこちらで用意している。熱湯の入ったティーポットとカップ二客、あればでいいけれど砂時計を持ってきて欲しい』と付け加えて。

 従業員が怪訝な顔しつつ、承知しました、と答え、去ってから約二十分。

 ルードの言った通り、熱湯入りのティーポット、カップ二客が運ばれてきた。


 沸かして間もない湯を、ルード自らが二つのカップへ注ぎ入れる。

 砂時計の砂が半分程落ちると、カップの湯を洗面室で流し、もう一度新たに湯を注ぎ直す。


「いいですか。今からティーバッグで紅茶を淹れます」


 着席するナオミの青灰の瞳に強い好奇心が宿り、わずかに身を乗り出す。

 ナオミの静かな好奇心につい口元が緩みそうになりながら、砂時計をひっくり返し、ルードはティーバッグをカップへ浸す。ちなみにこのティーバッグは(ナオミの乳母の親族かもしれない)件の商会が扱う綿で作った物である。


 砂時計の砂が完全に落ち切った。カップのティーバッグを引き上げる。


「飲んでみてください」


 早速ナオミに勧めると、少し緊張した面持ちでナオミはカップに口をつける。

 緊張が移ったのか、ナオミの喉がこくり、嚥下するのをルードも固唾を飲んで見守っていた。


「どうですか」

「ええ、美味しいですよ。ティーポットで茶葉を蒸らして飲むのとさして大差ないかと」

「それはよかった」


 ホッとしつつナオミの向かいに座り、一息入れるように自らのカップに口をつける。


「これなら差し入れに持参しても喜んでもらえると思います」

「だといいですが」

「合理性と食へのこだわりを持つセレーヌの人々に、時間短縮しながら味も損なわないティーバッグの紅茶は強い関心を引く筈です。そうなったらきっと……、Mr.デクスターJr??」


 出会った当初では考えられない、柔らかく微笑んで話すナオミに不覚にもどきりとさせられた。


 不意打ちはやめて欲しい。心臓に悪い。

 危うくカップを落としそうになったじゃないか。


「いえ、なんでもありません」

「でしたらいいのですけど」


 普段は吊り上がり気味の眉目を下げ、本気で心配する穏やかな顔。

 ごく一部の身内にしか向けないであろう顔を自分にも向けられている。

 思い上がりだとしても、自覚すればする程に気持ちがそわそわと落ち着かなくなってしまう。


 否、駄目だ。浮足立っている場合なんかじゃない。

 落ち着け。とにかく落ち着け。

 とりあえず話題を変えよう。例えば、彼女の乳母を訪問する際の打ち合わせをしよう。


「そうだ、話題は変わりますが。振りでも婚約者を演じる以上、僕への呼び方も変えていただいた方がいいかもしれません」

「言われてみれば……、仰る通りです。Mr.デクスターJr.では少々他人行儀すぎますものね」


 紅茶を一口、二口啜り、ナオミは普段通りの理知的な顔つきで考える素振りを見せる。が、眉根の皺がどんどん深くなっていき、かと思うと、困ったようにちらとルードを見上げてきた。

 いつもはあざとさとは無縁なのに、こういう時に限って無自覚に煽ってこないでほしい……。


「そんなに考え込まなくても……、無難に名前ファーストネームで呼んでいただければ結構ですよ」

「わかりました。では……」


 ルードの名を呼ぼうとして、ナオミはなぜか口を半開きにさせたまま固まってしまった。ティーバッグ紅茶の感想を待つ時とは種類の違う緊張により、ルードも彼女と同じくカップを持ち上げたままで固まってしまう。なんだこれ。


「ル、ルードラ、さん……」


 目線を激しく泳がせ、やっとのことでルードの名を口にした途端、ナオミの顔が一瞬だけ赤く染まったのをたしかにこの目で見てしまった。

 思わずガン!と音を立て、ソーサーにカップを叩き置き(傷やヒビ、欠けがなくて何よりだ……)カップから伝った紅茶がソーサーの中心に拡がっていく。


「だいじょうぶですか?!Mr.デクス……、ル、ルードラさん」

「ええ、なんとか」


 褪めた体で平静を取り繕うのは得意な筈だった。


 ただ名前を呼んだけであの彼女が赤面するなんてありえない。

 ただ名前を呼ばれただけでこれほどまでに動揺するなんてありえない。


 なのに、ありえない筈のことがありえてしまうなんて。


 婚約者のだけで終わらせる自信??

 少なくとも自分は限りなく零に近くなってしまった。

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