第65話 嘘から出るのは方便か真実か①
ナオミの肩から、華奢で小さく、黄味を帯びた肌色の掌がするり、離れていく。
しばし唖然とするナオミとルードを尻目に、マダム・ドラゴンは向かいの長椅子に当然の如く座った。
「ちょっと、なに勝手に座っているのよ」
抗議の言葉も平然と聞き流す厚顔振りが益々腹立たしいったら!
腰を浮かせ、今にも飛びかかりかねないナオミを抑え、ルードは平静を装い、訊ねた。
「マダム。重ねて問いますが、なぜこのホテルにいるのですか。何の目的で僕たちの前に現れたんですか」
「…………」
「答えてください」
無造作に高く結ったマダムの黒髪がはらり、額から滑り落ちる。
それを鬱陶しげに耳にかけながら、マダム・ドラゴンは気だるげに語り始めた。
「元を正せば、そもそもの原因はあんたたちなんだけど」
「はあ?!」
「あんたたちの
マダム・ドラゴンのとんでもない告白にナオミは頭を抱えて蹲りたくなった。心なしかめまいと胃痛を感じる。それらをぐっ、と堪え、おそるおそるルードへ向き直る。知っていたか、と視線に込めて。ルードは困惑ゆえの渋面を浮かべ、大きく頭を振る。彼も初耳のようだ。
「……いい加減にして。ガーランド家だけじゃなくてデクスター家にまで迷惑かけないでちょうだい。あと、あの醜聞はでっちあげられたもので私たちは潔白」
「の割りに、この坊ちゃんのためにわざわざセレーヌまで来てるんじゃない??怪しいねぇ」
怒りを必死で押し殺すナオミを面白がってか、マダムは挑発してくる。とてもじゃないが、血を分けた母娘の会話ではない。
「話を続けるよ。で、この坊ちゃんのお父様が随分と話のわかる男でねぇ。セレーヌへの渡航費に、しばらく生活に困らないだけの支度金、このホテルの滞在金を少なく見積もっても半年分支払ってくれたのさ」
もうクインシーには絶対に頭が上がらなければ、足を向けて寝られない。
マダムへの怒り呆れより、クインシーへの申し訳なさの方がはるかに勝り、居たたまれなくなってきた。ルードも呆れて物が言えないらしく無言で褪めた目線をマダム・ドラゴンに向けていたが、気を取り直し、再び問いを重ねる。
「
「あんたのお父様に頼まれたのさ。『年明け後間もなく息子と、もしかしたらあとからセレーヌ入りするであろう貴女の娘が商会の仕事の関係でこのホテルに滞在します。詳しくは伏せますが、セレーヌの綿工場との契約の為です。それで、もしも二人が契約に難航しているようでしたらご協力いただきたいのです』ってね」
ルードの端正な顔が一瞬、くしゃりと歪む。
父に己の手腕を不安視されていたことが彼の
マダムは悔しさが滲んだその表情を見逃さなかった。
「別に坊ちゃんが力不足とかじゃないよ。だってそれ以前の問題があるからね。正直、他国の商会からの
「いい加減にしなさいよ」
声が普段よりずっと低まり、肩が小刻みに震える。
彼の肌の色や顔立ちに言及するなら──、やめた。マダムと同じ
「その様子じゃあんたたちも気づいてるって見なすよ。だったら、馬鹿の一つ覚えみたいな正攻法の取引はやめたら??」
「余計なお世話です」
激しい怒りに燃え立つ青灰の双眸を、吸い込まれそうな深淵の黒い瞳がふん、とせせら笑い、マダム・ドラゴンは席を立つ。何が協力だ。引っ掻き回しにきただけじゃないか。
「余計な世話ついでにひとつ教えてあげる」
なに、問う前に、席を立ったマダムから強引に一枚のメモ書きの紙を押しつけられた。去っていく肉付きの薄い背中を見送りもせず、苛立ちも手伝って破り捨ててやろうかと過ぎった。しかし、ひょっとしたら有益な情報が書いてあるかも、と思い直す。もし書いてなければただじゃ置かないんだからと、雑にメモ紙を開く。
記されていたのは、ナオミの
呑気に乳母の元へ立ち寄り、昔を懐かしむ暇など今のナオミにあるとでも??
「結局何がしたかったのよ!あの人は!」
「ナオミさん。その紙、少しお借りしていいですか??」
「ええ、どうぞ。お役に立てそうにないと思いますが」
不貞腐れながら手渡したメモをじっと数秒見入ったのち、ルードが口を開く。
「ナオミさん。近々、貴女の
「は??なにを──」
「貴女の乳母と次回訪問する商会の会長の姓が同じなんです」
「あぁ、偶然にも夫婦かもしれないってこと??でも、あの地域じゃ左程珍しい姓でもないわ」
「ですが、片田舎の外れで同姓となると、夫婦ではないにしろどこかで繋がりある親戚かもしれない」
「Mr.デクスターJr.は何が仰りたいのですか??」
「もし貴女の乳母と件の商会の会長が家族、もしくは親戚関係だった場合、伝手を利用しない手はない。乳母を通して会長と個人的な繋がりを持った上で取引に臨みたいと。同じ外国人相手でもまったく見も知らない者より、多少の縁ある者の方が敷居が下がると思うんです。貴女はあまり好まざる手かもしれませんが……」
たしかにナオミだったら裏を含むやり口は正直好まない。だが。
「個人的には賛成しかねますけど、……そうも言っていられる状況ではありません。
「ご協力感謝します」
「ああ、でも一点気になることが」
眉目を顰め、ナオミは小さく唸る。
「私たちの関係をどう説明するか、です。紅茶商と通訳という関係で貴方を乳母に紹介するのも……、少し変ではないでしょうか。明らかに仕事の匂いを感じさせ、不信感を持たせるかもしれません」
「簡単じゃないですか。僕をナオミさんの夫か婚約者とでも紹介すればいいのでは??」
さらりと告げたルードに、ナオミの全身がぴしり、固まった。
それはそれは面白いくらいの固まりようは、「……貴方が嫌でなければ、ですが」と、ルードが遠慮がちに付け加える程だった。
「べ、別に、嫌、とかではありませんけどっ」
激しくどもるわ、口籠るわしつつ、辛うじて否定すると、意外に感じたのか、おや、とルードが目を瞠る。
まずい。勘づかれそう。
自分の顔が赤くなっていないことを祈る。
「わかりました。婚約者を伴って懐かしい土地へ訪れた、ということで口裏合わせましょう。事は早ければ早い方がいいですから、今すぐ乳母に連絡してきます」
物凄い早口でまくしたてると、ルードが口を挟む隙も与えずナオミは先に席を立った。
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