第63話 ばっかみたい
(1)
夜を越え、翌日の昼過ぎにナオミとルードは目的地の首都の駅に到着。更に駅から馬車に乗り、郊外のホテルへ到着した。
「長旅で疲れているでしょう。今日は休んでください」
廊下を挟み、向かい合った部屋の扉の前。
ルードから告げられたのは、ナオミには意外な言葉だった。
てっきり、この後はロビーか食堂かを使い、仕事の話を進めるのだと考えていたのに。
「お気遣い感謝します。でも、私なら全然疲れてません。荷物を片付けたら、すぐにでもお仕事の話進めましょう」
唇から飛び出さんばかりだった言葉は、飛び出す直前に気づいたある可能性により思いとどまった。だから実際に口にはしていない。
自分は平気でもルードが疲れているかもしれない。
もちろん彼の言葉はナオミへの善意でしかなく、自分が休みたいからなどの他意は含まれていないだろうけど。
「承知しました」
「今晩の夕食は各自部屋でルームサービスを。朝食は地下の食堂で。食堂は七時から開くので込み合う前に行きましょうか。少し早いですが明日の朝七時過ぎに部屋の前へ呼びに行きます。それから、明日の朝食後、一階ロビーで今回の仕事の話を詰めましょう。何か質問はありますか??」
「いいえ、特にありませんわ」
「分かりました。では、明日七時によろしくお願いします」
明日の予定など事務的なやり取りを交わすと、二人は背中を向け合い、部屋の中へと消えていく。
疲れていないとルードの前で言ってはみたものの、部屋に入ってホッとするなり強烈な眠気に襲われた。
数日かけての船旅に加え、一晩じゅう汽車に揺られてでは眠りも浅く、満足な睡眠が摂れていなかったみたいだ。ひとまず無事にセレーヌ入りと、
鉛のように重い身体、気を抜くと途切れそうな意識を奮い立たせ、シャワーと着替えだけは済ませ。濡れた髪が完全に乾くよりも先にナオミはベッドへ倒れ込む。何日か振りの泥のような深い眠りから目覚めた時には、枕元の置時計は朝六時三十分を示していた。
ナオミの顔からさぁっと血の気が引いていく。眠気は一瞬で吹き飛んだ。
ルードが呼びに来る七時まで残り三十分。
クローゼットから服を出すついでに、扉内側の鏡で自分の
かつてない速さで着替えを済ませ、鏡台の前で躍起になっているとふと我に返る。
誰が見ても分かる寝癖を直すのはともかく、寝痕に必死になる意味がよくわからなくなってきた。
別にちょっと頬に皺がついていたって大して気にすることじゃない。そんなとこ、まじまじと見る人なんて……。脳裏に浮かんだ顔を片手でパッパッと払いのけ、大きくため息ひとつ。
「あー、ばかみたい……」
そうよ。仕事の話が中心なんだし、
やめた、と、鏡台の椅子から立ち上がると、扉越しにルードの声が。
え、もうそんな時間?!と、貴重品など必要な物だけを手に、ナオミは慌てて廊下へ。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
「じゃあ、行きましょうか」
何どもっちゃってるのよ。恥ずかしい。ばかみたい。
いつも通りの固い表情の裏に隠した動揺にルードは気づいてなさそうだ。よ、よかった、と思う反面、人の気も知らないで、と小さな不満が胸の奥で燻ぶる。そんな矛盾が意味不明すぎて、己にも軽い苛立ちを覚えてしまう。
「食堂に着きましたよ。……ナオミさん??」
「え、あぁ、そのようですね??」
「…………」
またどもった。どもるどころかおかしな受け答えをしてしまった。
あと、いつの間に地下までの階段を下りていた??考え事をしていたのに、よく途中で転んだり、つまづいたりしなかったものだ……。
頭一つ分以上高い位置で、暗緑の瞳が不審と心配を込めて見下ろしてくる。
「ひょっとして、まだ疲れてますか??」
寝過ぎなくらい深く寝ていたのだ。疲れている訳がない。
しいて言うなら、寝惚けている……、そうだ!きっと自分はまだ少し寝惚けているのよ!
「し、失礼しました。疲れてはいませんけど、お恥ずかしながら少し寝惚けていたかもしれません」
ルードの目が微妙にジト目に変わり、心配より不審の色が強まっていく。
こういう時は話題を切り替えるのが賢明。
「そんなことよりも早く席に座りますわよ。込み合うのを避けたくて早めに来たのですから」
さりげなく、つんと顔を逸らし、先手を打つがごとく食堂の入り口を潜る。
ナオミの切り替えは成功し、『疲れた・疲れてない』の話題は終わることとなった。
(2)
天井、内壁、柱から各テーブル、椅子に至るまで白を基調にした食堂内。
壁際の各席に金の貝殻や草花模様の壁面パネルが飾られ、脚が華奢で繊細な造りのテーブルや椅子の優美さを好むセレーヌのお国柄が表れている。
係員に案内され、壁面パネルが飾られた壁際のテーブル席に着席後、ほどなくして朝食がカートで運ばれてきた。
二人分のバゲットが一つの籠に収められ、それぞれの席の前には薄切りにしたバゲット、バター、林檎のジャム、蜂蜜の小瓶、カフェボウルをたっぷりと満たすカフェ・オ・レ。
慣れた動きでナオミは薄切りバゲットを更に半分に割る。バターと林檎ジャムを塗り、カフェ・オ・レに浸して口の中へ。ほのかなバゲットの香ばしさ、林檎の酸味とカフェ・オ・レのほろ苦さの絶妙なバランスが、舌の上に沁み込んでいく。
幼い頃親しんだ朝食の味に懐かしさが込み上げる。ナオミの対面ではルードがぎこちなくバターのみを塗った薄切りバゲットをかじり、複雑そうにカフェ・オ・レを一口啜った。
「セレーヌ流の朝食はお嫌い??」
「いえ、嫌いというわけではありませんが……、このカフェ・オ・レの味がなかなか慣れなくて」
朝食が一番豪華で品数も多い本国と違い、セレーヌの朝食は限りなく質素かつ甘い物が目立つ。食事というより本国のティータイムの感覚に近い。戸惑う気持ちは理解できなくもない。
「セレーヌではバゲットをカフェ・オ・レに浸して食べるんですね」
「え、知らなかったのですか??一月近く滞在しているのに??」
「ナオミさんが来るまではルームサービスを利用していたので」
「せっかくだから試してみればいいのに」
ルードはナオミの見様見真似でバターと蜂蜜を塗った一口大のバゲットをカフェ・オ・レに浸し、食べてみせる。
「……意外と悪くない。時期的に難しいでしょうけど、ラズベリーのジャムかマーマレードだともっと良かったかもしれません」
「もしかして酸味が強いジャムがお好みですか??」
「ええ」
「覚えておきます」
え、と声にならないつぶやきと共にルードの目が点になり、ナオミは今さっき口走った言葉に急激に恥ずかしくなった。これじゃまるで一晩共に過ごした恋人か夫婦が迎える朝みたいだ。
「おしゃべりはこの辺りにして。早く食べてしまいましょう。セレーヌの朝食が質素で簡単なのは朝の時間を無駄にしないためですから」
わざと突き放した物言いをしてはみたが、顔が赤くなっていないか心配だ。
「それもそうですね。ロビーの奥の席が埋まっては、この後の肝心の話がしづらいですし」
よかった!今度は特に不審に思われていない!
胸中で拳をぐっと握りしめる自分を浮かべつつ、朝から些末事に懊悩し過ぎだとナオミはひとり猛省したのだった。
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