第61話 本当の独り
(1)
寒風に乗って潮のにおいが全身にまとわりつく。
甲板の柵よりはるか下、挑むかのように波が船体におどりかかる。
海風に乱されるおくれ毛を押さえ、寄せては返す波の動きを二十数年前もずっと眺めていたことをナオミは思い出していた。
あのときのことはよく覚えている。
生まれた時から慣れ親しんだ土地を離れゆく哀しさ寂しさ。未踏の地での新たな生活への大きすぎる不安と恐怖。
激しい波のしぶきを眺めながら、幼き自分はぼろぼろとひとり大粒の涙を流していた。人前であんなに泣いたのは後にも先にもあれっきり。現在の自分は感傷に耽る一方で、まったく別の想いに馳せている。
『誰かが──、大方の察しはつきますが……、本国の綿製品を取り扱う商会との交渉を裏で妨害しているようです。よって、いっそのこと海外の商会と交渉しようと考えています。例えば、海を隔てたあの国──、セレーヌとか』
『我々も言えたことではありませんが、セレーヌの人々も相当に自国愛が強い。我々の母語でもある共通語よりかの国の母語で話した方が交渉しやすいでしょう』
『ですから、Missガールにあの国──、ことセレーヌへ行き、先に現地へ派遣した商会社員の通訳を、セレーヌ語に堪能な貴女にお願いしたいのです』
ティーバッグに使う
なので、クインシーから休暇と言う名の解雇をあえて言い渡されるため、ナオミはキャロラインを怒らせるきっかけを待っていた。
婦人雑誌の件はまさに待ち続けたきっかけであり、あえてキャロラインの不興を買ってみせたのだ。(もちろんセイラを案じた気持ちは本物だったし、計画関係なく注意したけれど)
その後、ナオミは他の雇用先の家々に自ら一時的な長期休暇を願い出た。
解雇も覚悟の上での休暇願い。家庭教師の代わりなど幾らでもいる。
実際、ナオミが不在の間、代わりを家庭教師協会から派遣してもらうのだれど、そのまま後任の者に据え置かれても文句は言えない。
ありがたいことに『ナオミの帰りを待ち続ける』と、どの家も復職前提で休暇を受け入れてくれた。普通だったらありえない好待遇も好待遇。だからこそ、絶対に計画を成功に導こうと心に誓った。
「あまり身を乗り出しては危険ですよ」
セレーヌ語での見知らぬ誰かの呼びかけで、ナオミは現実へと一気に引き戻された。
若い女性が一人、思いつめた(ように見える)顔で黒々としたさざ波を一定時間見つめていたら、心配にもなってくるだろう。逆の立場ならナオミも気になってしまう。
声を掛けてくれたのは上品なセレーヌ人の初老の夫婦で、柵に手を置いたまま振り返ったナオミの様子を心配げに窺っていた。
「ありがとうございます。私なら大丈夫ですので。お気遣い感謝します」
これ以上心配させないよう、セレーヌ語で返しながらにこりと微笑んだのに、初老夫婦は益々不安そうに表情を曇らせた。無理して笑顔を取り繕っているとでも思われたのだろうか。
しかし、ナオミはまったく自覚していない。その笑顔は例によって、にやぁーと引き攣った笑顔ゆえだと。
「お嬢さん。よければ私たちの客室へおいでなさい」
「私もね、貴女くらいの年の頃はいろいろと思い悩むことが多かったわ。お茶でも飲んでゆっくりお話ししましょう??」
「ほら、そろそろ日も暮れ始めた。甲板にいても身体を冷やすだけだよ??」
なんか盛大に勘違いされっぱなしな気がする。
温和な物腰の中に、『絶対に甲板から部屋へ連れて行かねば』という強い意志を夫婦どちらからも感じられる。それはそれは痛いほどに。
きっとナオミが首を縦に振るまで彼らも甲板から離れそうにない。
「……ありがとうございます。せっかくですし、お言葉に甘えさせていただきます」
遂に根負けすると、初老夫婦は呆れるくらいあからさまに安堵の表情を見せた。
お節介なまでの親切心に呆れながらも、ナオミは決して嫌だとか有難迷惑だとかは思わない。一期一会の出会いも大切にすべきだろう。
(2)
夜も更け、初老夫婦の客室から自分の客室へ戻る。
一つだけある大きな丸窓、差し込む月の光が照らす室内には二人掛けの長椅子、ドレッサー、簡易クローゼット、セミダブルベッド。二人用の客室をひとりで使うには少し、寂しい。寂しい──??
ひとりで夜を過ごすことが寂しいだなんて、どうかしている。
余生はひとりでセレーヌで過ごす気でいる癖に。
気持ちがどうにも落ち着かず、さっさと寝間着に着替えてベッドの中へ潜り込む。
こんな気分の時はさっさと眠ってしまうに限る……、と思えば思う程にちっとも寝つけない。
セレーヌで過ごした幼少期は
寄宿学校でも大学でもそれぞれの寮で先輩から同期、後輩まで複数人が同じ部屋にいた。現在の自宅アパートではレッドグレイヴ夫人と一つ屋根の下にいる。
思い起こせば、自分は本当の意味で独りになったことが一度もないのでは??
愕然とすると同時に寂しさは急激に肥大化していく。
船に乗って一日目でこの有様とは情けないと叱咤する大人の自分と、迷子のように途方に暮れる幼い自分。
さみしい。くだらない。
延々と二つの自分が鬩ぎ合う中、一瞬、ほんの一瞬だけだが、ルードがいてくれたら、などと甘ったれた思いが脳裏を掠め──、否が応でも自覚してしまった。
「……なによ、それ……」
何度も打ち消そう、打ち消そうと必死で寝返りを打つ。
無駄なあがきだと分かりつつ、何度も、何度も、何度も。
しかし、必死に否定するほどに、脳裏に浮かぶ面影は色濃くなり、ナオミは別の意味で眠れぬ夜を過ごす羽根に陥ってしまった。
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