最終章

第60話 まずは前哨戦

(1)


 複数の剣が突き刺さった腹部から、鉄臭く生温かいものがじわじわと寝間着を赤く染め上げていく。

 胃の腑からせり上がり、口の中を満たす血の味に不快と吐き気をもよおす。

 込み上げてくる多量の血は唇の端から滴り落ちていく。ぐふぅうう、と、己の声とは思えぬ醜い声での吐血に嫌悪感が沸く。


 急激に下がりゆく体温。手足の先は氷のように冷たくなり、痺れを通り越し感覚を失いつつある。視界も白くかすんでいく。拾える筈の音もほとんど聞こえない。


『首を刎ねろ』


 冷徹な響きを持つ声だけは辛うじて聞き取れた。

 頭上より降ってきたということは、きっと今の自分は膝から床に崩れ落ちてしまったかもしれない。


 私はどうすればよかったんだろう。

 私は愛する人と幸せになりたかっただけなのに。愛する人を守りたかっただけなのに。


 姫なんかに生まれたくなかった。

 姫なんかに生まれなければ。彼も騎士なんかに生まれなければ。


 いいえ、どんな立場であれ、私がもっと上手くやれていたなら──、後悔してももう遅い。ひっくり返った盆の水は元に戻らない。


 だからこれは最後のあがき。厳密には一縷の望み。


 もしも、もしも、ふたりが神のごとく復活できるとしたら。



 今度こそ愛する人を守る。

 今度こそ幸せになってみせる。










「……普通、逆じゃないの??」



 目を覚ますなり、ベッドの中でナオミはひとりツッコんだ。

 真夜中の木枯らしが窓をガタガタ大きく揺らす。その音だけで寒気が全身を襲い、毛布を頭からかぶり直す。そんな些細な動作だけで頭にずきり、痛みが走り、小さく呻く。


 あの後──、キャロラインの実態を目の当たりにした後、二軒目の店で飲み直したはいいが、酔いが回っても顔に出ないのをいいことに少々飲み過ぎてしまった。

 介抱されるほどの酔い方でもなく、平衡感覚も正常に保っていたので徒歩で無事帰宅したものの、軽い頭痛に苛まれ、なかなか寝付けずにいた。やっと入眠できた途端、キャサリン姫の夢ときた!


 己の身体から流れていくおびただしい血の臭い、徐々に生命が失われていく感覚。

 いつにも増して生々しさが感じられたが、キャサリン姫が斃れた今、もう二度と夢に出てこない筈。


 お花畑な色恋と血生臭さが同居した、混沌カオスな夢を見なくて済むと安心すると、急激に眠気が押し寄せてきた。

 三秒寝とまではいかないが、徐々に眠りに落ちていくナオミの脳裏でほんのかすかに姫の声がこだます。


 だが、翌朝起床した時には、ナオミは姫が訴えていたことをきれいさっぱり忘れ去っていた。








(2)


 最後の夢から数日後のことだった。




「では、今から私が言う文章の綴りスペルを口頭で答えてください。『私は猫を飼っています』」

「「I・h・a・v・a・c・a・t!」」

「『彼はアヒルを二羽飼っていました』」

「「H・e・h・a・d・t・w・o・d・u・c・k・s!」」

「『この女性は赤いドレスを着ています』」

「T・h・i・s……」「T・h・a・t……、あっ!」


 セイラは頭から机に突っ伏し、「まちがえたぁ、やぁだぁー!」と机上で手をじたばたさせ、頬を膨らませる。


「セイラさん、悔しいのは分かりますけどもう一度」

「う~……、T・h・i・s・w・o・m・e……」

「残念ですけど、単数の女性の綴りは『woman』でaがeだと女性と複数形に変わってしまいます」

「むむー!!」


 セイラはがばっと身を起こし、両手でバンバン!と机を叩いた。

 悔しい気持ちは理解できるが、物に当たるのは良くない。窘めなければ。


「決めたっ!今度の授業までにおぼえるっっ!先生にもシュナにも負けないもん!」

「ええ。ぜひその調子で頑張ってください」


 以前は脱走するくらいの勉強嫌いだったのに。

 胸の前で拳を握りしめて奮起するセイラに感慨深くなり、注意ではなく励ましの言葉が口をつく。


「勉強なんてがむしゃらにする必要なくってよ、セイラさん」


 セイラの決心に水を差す言葉が場の空気を大いに乱す。

 横目で睨みつけ、口を慎めと注意できたらどんなにいいか。

 しかし、雇用主と同等の身分の客人相手にいち家庭教師が何も言える筈もなく。


 本日もデクスター邸を訪問したキャロラインが、『いずれデクスター家に嫁ぐかもしれないから、今の内に使用人の質を見定めようかと思って。家庭教師も本当に有能な人なのかも気になる』などと無理難題を言い、あろうことかその難題をクインシーが許可したため(彼なりに考えてのことに違いないが)、彼女はセイラとクリシュナの背後に用意された、上等なウィンザーチェアに座ってナオミの授業を見学しているのだが……、はっきり言って邪マ……、もとい、場違い感半端ない。セイラとクリシュナも彼女の存在によって変な緊張を強いられている。


 そもそもルードは平日昼間のこの時間帯、屋敷に不在だと分かっているだろうに。

 クッキーを焼いたから、刺繡入りハンカチーフを贈りたいから、インダス風料理を使用人に習いたいから等々、キャロラインは些細な理由を作ってはほぼ日参している。


 事情を何も知らなければ、ルードに熱烈な逆求婚アプローチを仕掛け、更には外堀を埋めにかかっている風に見受けられる。

 だが、彼女のふしだらな一面を目撃して以降、ナオミは早く計画を開始しなければと焦りを覚えていた。


「ねえ、根詰めて勉強勉強ってやるんじゃなくて、もっと楽しく学べる方法のが良くないかしらぁ??」


 退屈そうにおくれ毛を弄りながら、キャロラインがナオミに訊ねてくる。目線はナオミではなく、指先に挟んだ毛先。質問する時はちゃんと人の目見て質問しなさいよ……。


「楽しく、ですか??では私からもお訊ねしますけど、Miss.エメリッヒはどんな授業なら楽しいと感じるのでしょうか??今後の参考にしますので、ぜひともご教授願えますか??」

「そうね、例えば……」


 ナオミの値踏みするかのような視線も、不安げなセイラとクリシュナも気に留めることなく、キャロラインは自らの机上に広げた婦人雑誌を指で指し示す。


「教科書じゃなくたって文字は学べるわ。ほら見て。この雑誌には少女向けの小説や随筆が載っているし、流行服装ファッションの解説文ならドレスのイラスト楽しみながら文字を覚えられる」


 キャロラインは雑誌を手に取ると、セイラとクリシュナに見せつけるように二人の顔の側まで近づける。遠慮も手伝ってか、やや引け腰のクリシュナに対し、セイラは興味津々で雑誌にかじりつく。


「うふふ、セイラさんも小さくても歴としたレディだもの。きれいなドレス好きでしょう??」

「う、うん!」

「きれいなドレスを着るには似合うだけの美しさが大事。美しくなければ豚に真珠同然。まぁ、セイラさんの金髪とみどりの目はとっても魅力的だし、そんな心配しなくていいけど!」

「ほ、ほんと??」

「ええ!でもね、美しさは磨けば磨くほど増すし、自分磨きはレディにとって一番大切で重要!いくら賢くたって美しくなければレディの価値なんてないわ。労働者階級のくたびれたおばさんと変わらないんだから」


『あの、そろそろ止めなくていいんですか??』とクリシュナがナオミを振り返り、無言で懇願してくる。『だいじょうぶ、わかってます』とナオミも表情のない顔で深く頷く。会話を止める機会タイミングをはかる二人の物々しさとは対照的に、キャロラインの気分テンションはどんどん上がっていく。


「ほら!ここの頁見てごらんなさいな。この色鮮やかなドレスたち!」


 甲高い声まで上げ、喜々としてキャロラインが捲った頁にはエメラルドグリーンとモーヴのファッションプレート。

 目が覚めるような美しい色に幼いなりに心惹かれ、小さな手を伸ばすセイラにナオミの顔色が変わる。


「触ってはいけません!」


 肩を思いきり跳ね上げ、セイラは怯えた顔でナオミを振り返る。驚きすぎて言葉を失うセイラに代わり、キャロラインの顔は不快に歪む。


「なんなの??小さな子をいきなり怒鳴りつけるなんて……」

「その頁を閉じてください」

「どうして??」

「エメラルドグリーンの別名は砒素グリーン。モーヴはアニリン。どちらも皮膚が爛れたり等の中毒症状をもたらします。その絵の着色にも間違いなく使われていますね」


 表情、声と共に厳しさを増すナオミに、キャロラインは渋々雑誌を閉じ、雑に机上へ放った。


「大袈裟ね。ファッションプレートの大きさ程度で」

「絵本に使われた砒素グリーンとアニリンが原因で、手の皮膚の一部が壊死した子供を知っています。過剰かもしれませんが、触れさせないことが大事かと」

「あらそう」


 キャロラインは雑誌を抱えると、大仰な動きで席を立つ。


「失礼するわ。貴女は随分と生徒想いでお仕事熱心で……、素晴らしい方ねぇ」


 文字通りの誉め言葉、でないのは確かだろう。

 何かしらの報復される可能性も高い。

 事実、ナオミの悪い予感は的中した。








 数日後、クインシーから『しばらく休暇を取ってみてはどうかな??』との提案を持ち掛けられた。提案、と言えば聞こえはいいが、事実上の解雇通告である。






 しかし、これはあくまでクインシーとナオミの計画の一環に過ぎなかった。

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