第59話 ヤドリギの下に立っていいのは④

(1)


 キャロラインの性格を考えると贈り物を渡すだけでは終わらず、理由をつけて長居をするに決まっている。ナオミも含め、この屋敷で彼女と面識を持った者は誰もが予想していた。

 ところが、キャロラインは同伴した従僕に持たせた数々の贈り物を聖誕祭ツリーの下へ置くと、早々にデクスター邸から去っていった。

 拍子抜けつつ、もし長居された場合、ナオミはティーガウン姿で対面せざるを得なかったので大きく胸を撫でおろす。

 一家庭教師が雇用先で部屋着に近いドレスを着る(正確には着せられたのだが)。

 本来は非常識でありえない事態であり、キャロラインの機嫌を損ねていただろう。


 結局その日は服が乾くまでの間、否が応でもナオミはデクスター邸に滞在。

 翌日の聖誕祭前日は何事もなく、いつも通りセイラとクリシュナの授業を行い、聖誕祭から年明けまでの約一週間を休暇とし、自宅アパートでレッドグレイヴ夫人と静かに過ごした。

 ちなみに実家のガーランド邸には一度も顔を見せなかった。

 聖誕祭も年越しから年明けにかけての家族での晩餐にもナオミには声が掛からなかったし、ナオミが家族で唯一会いたいのはパーシヴァルだけ。

 そのパーシヴァルは大学寮から帰省する度、滞在期間内に最低でも二度はアパートへ自ら会いに来てくれる。なので、わざわざ実家に足を運ばなくとも目的は果たされる。


 休暇が明ければ、またいつも通りの日常が待っている──、そう、いつも通りであればどんなに良かったか。だが、『いつも通り』の日々は確実に失われつつあった。


 理由の一つはクインシーのが常にナオミの頭の片隅に置かれていること。


 もう一つは──、年明け以降、理由をつけてはキャロラインがデクスター邸に度々訪問するようになったことだった。











 真冬の午後の曇り空に黒い霧が薄く立ち込める。

 霧と言えば聞こえはいいが、その正体は家々の煙突から流れる石炭の煙。特に冬場の煙の排出量は他の季節の比ではない。


「あの……、もし」


 帽子、コート、ブーツに至るまで舞い落ちる煤で汚れてもいいよう、全身真っ黒な装いでデクスター邸から自宅アパートへ戻る道すがら、消え入りそうな声で誰かがナオミに呼び掛けて……、きた??


 確証が持てないのはあまりに声が弱々しく、空耳を疑ったから。

 歩みは止めず周囲を見回してみるも、誰が話しかけてきたのかよくわからない。やっぱり空耳??


「あの……!お待ちくださいっ」

「わっ!?」


 強い衝撃が背中を襲い、新手のスリ?!と緊張が走る。

 突然背後にぶつかってくる輩はそうとしか考えられない。不幸中の幸いで財布を始め、金品を持っていない。あ、金品がなくともハンカチーフや釦を盗むつもりかもしれない。いざとなったら逃げなければ。


 身構えたナオミの前へ頼りない動きで回り込んだ輩は、顔を隠すためか、ストールを深くかぶっている。益々持って怪しい。声からして女性なのは明らかだが、女性だからと安心できる筈もなく。


「ご、ごめんなさい、私、怪しい者じゃ……、ないんです」


 いやいや、どう考えても怪しいでしょうよ?!


「あの、あの、覚えてませんか?!私……」

「ちょっと……」

「あの、あそこでお話を」


 ナオミの腕を固く掴みながら、怪しい女性は建物の間の狭い路地へナオミを連れて行こうとする。更なる身の危険を感じ、必死で腕を振りほどく。


「する訳ないでしょう?!いい加減にしなさい!警官を呼ぶわよ!!」

「え、え、それだけは……」

「本当に私の知り合いだと言うなら堂々と顔を見せなさい!」


 ナオミの剣幕にたじろぎ、怪しい輩は二、三歩あとずさった。

 運悪く他の通行人とぶつかり、派手に尻もちをついた弾みでストールから腰のない赤毛とそばかすが目立つ顔が露に。


「貴女……」


 怪しい輩、もとい、キャロラインの姉クラリッサは、尻もちをついたまま、泣きそうな顔で再びストールを目深に被った。

 警戒心は保ちつつ、一向に立ち上がろうとしないクラリッサの消沈振りに罪悪感が膨らみ、ため息つきたいのを堪えて手を差し伸べる。


「乱暴な真似を働いてしまい、申し訳ありませんでした」


 ナオミの手に掴まるクラリッサの手は小刻みに震えている。


「それで、私に一体どのようなご用件ですの??」

「あ、その……、キャロラインが、妹が……、すみません、色々とすみません。本当にごめんなさい……」

「なぜ貴女が謝るのですか??貴女自身が何かした訳じゃないでしょう。まさかと思いますが、ただ謝るためだけに私を探していたの??他に何か伝えたいことがあるのでは??」


 努めて穏やかに訊ねたつもりなのに、クラリッサは譫言のように謝罪を口にするばかりで埒が明かない。

 だんだんうんざりしてきたし、道の往来で突っ立っていては通行人の邪魔になる。現にすれ違う人すれ違う人が二人を振り返って来て、悪目立ちしている。これではクラリッサの変装も意味が成していない。


「いたっ!」


 意味のない謝罪も聞き飽きてきた。追い返そうかと思い始めた矢先、いきなりクラリッサはナオミの腕を強く掴んできた。数瞬前までの弱々し気な態度は一体どこへやら、ナオミは強引に狭い路地へと引っ張りこまれた。

 クラリッサの豹変ぶりに怒りの他、身の危険を大いに感じ、大声を上げようとして──、やめる。正確には声を上げる前にクラリッサが怒りも露に、ナオミが知りたかったことをまくし立てたからだった。


「キャロラインと……、あんな子と結婚したらルードラ様は絶対に不幸になってしまうから私は反対したのよ。ルードラ様がお可哀想だって!お父様はあの子を散々甘やかしたツケを自分じゃなくてルードラ様に代わりに払ってもらおうとしてるのよ!」

「不幸??可哀想??何それ……」


 クラリッサがルードに安直な憐れみの言葉を発したことに正直苛立った。が、彼女がどうしてそう感じたかの方が重要だ。


「キャロライン嬢はMr.エメリッヒの愛娘だって、ご本人も貴女も言ってたじゃない」


 だからこそ、家同士の結びつきのための婚約という重要な役割を担わせているのでは。(クラリッサへの配慮ゆえ、黙っておくけれど)


「そうよ。お父様の愛情はいつもあの子にしか向けられてなかったし、あの子のまで見て見ぬふりし続けてきたの。でもね、家の評判落とし兼ねないとなると……、話は別」

「どういうことなの」

「だって……」


 更に問いつめれば、クラリッサは肝心なところで顔を赤らめ、口を噤んでしまった。

 あの夜会の時と似たような状況にナオミの苛立ちは逆にさーっと引いていく。

 今回もこちらを心配しているように見せかけ、ただ妹や父への鬱屈を晴らしたいだけなんだと。わざわざ変装して街中へ飛び出るほどに──、って、少々異常な気もするが。


 いい加減に解放して欲しい。

 実際に口にしかけた時、髪の色より更に真っ赤な顔、しどろもどろになりながら、クラリッサは言った。


「あの子は見目の良い男性なら誰でも良くて、その……、お恥ずかしながら……、一人の男性じゃ満足できないんです」







(2)


 放っておいたら延々と妹の悪口を言い連ねそうなクラリッサに、『この後予定がありますから』と振り切り、ナオミは自宅アパートへ戻った。

 クラリッサの相手に痺れを切らしていたのもあるが、本当に予定が入っていたのだからしかたない。


「あら、ナオミさん。遅かったですわね」

「ごめんなさい。すぐに支度します」


 慌てて自室へ向かうナオミにレッドグレイヴ夫人は特に何を言うでもなく、放っておいてくれた。夫人のこういうあっさりしたところにはホッとさせられる。


 なるべく質素で目立たない格好で、と、夫人にあらかじめ言われていたので、フリルレースなしのブラウスに退色したスカートに着替え、木綿のネッカチーフを首に巻く。地味な色合いのショールと手袋をはめ、部屋を出ると、居間では似たような格好の夫人が待っていた。あとはそう──


「ちょうどいいわね」


 ナオミが居間に入るのと、玄関のドアノッカーが鳴るのはほぼ同時だった。


「姉さん、ルシンダさん。迎えに参りました」


 仰々しいわねぇ、と夫人と笑みを交わし合い、扉を開ける。そこにはつばのない帽子、ポケットの多いコーデュロイの上着に縦縞のシャツと、労働者階級ワーキングクラスの服装のパーシヴァルの姿が。


『溜まりに溜まっているであろうナオミの憂さを晴らしてあげよう』

 夫人とパーシヴァル二人で計画し、『パブへ行こう』と誘ってくれたのは年始め初日のこと。

 酒は飲める口だし、二人の心遣いが嬉しくて二つ返事で誘いに乗ったはいいけれど──


「またどうして、大衆向けのパブなの」


 二人の案内でナオミが連れて行かれたのは歓楽街で人気が出始めた新しい大衆居酒屋。

『ラカンター』と書かれた立て看板の前に立つと、大騒ぎする声が店外まで響いてきて、入店前からナオミは顔を顰めた。


「お忍び気分で安酒飲むのも悪くないですよ??」

「まったく、大学でこんな遊びを覚えてくるなんて」

「たまには気軽な雰囲気を楽しむのもいいと思わない??」

「ルシンダさんまで……」


 二つ並んだドーリーフェイスがきらきらと目を輝かせている。

 もしや、私、お忍びの口実にされてない??と疑ったのは内緒だ。


 一番先に入店したパーシヴァルが扉に近く、それでいて店内全体を見渡せる角席に二人を案内し、慣れた様子で三人分のエールを注文してくれた。


 一度中へ入ってしまえば騒がしいのを除き、店内の雰囲気自体は悪くない。

 全面板張りのフロアはかなり広く、想像していたより清潔を保たれている。

 正面奥のカウンター席より更に奥、酒棚に並ぶ瓶の種類は豊富そうだし、カウンター上部に吊るされたグラス類もきれいに磨かれている。ナオミたちが座るマホガニー製のテーブルも上等品だ。


 気になっていた騒がしさに少しずつ慣れ、普段より大きな声での会話への抵抗が薄れてきた頃、長身で男性にしては少し長めの髪の店主らしき青年がエールの瓶を運んできた。

 乾杯を交わし、戸惑いながらも瓶に直接口をつける。一口目を喉を流し込んだ瞬間、新たな客が入店した。


「姉さん?!」

「ナオミさんだいじょうぶ?!」


 その客の姿を見た拍子にエールを噴き出しそうになった。

 辛うじて女性としての尊厳は守れたけれど派手に咳き込む羽目に。

 レッドグレイヴ夫人に背中を擦られ、涙目になりつつ、意思に反してその客たちを自然と目で追いかける。


 髪飾りなしのまとめ髪、飾り気のないブラウスにスカートと一見地味な出で立ちであっても、の美貌は否が応でも人目を引く。

 パーシヴァルと似たような服装、でも、衣類のくたびれ加減から本物の労働者階級の若者に挟まれ、両手に花とばかりにカウンターへ進む後ろ姿を、周りの喧騒で気づかれてないのをいいことにナオミは目が離せずにいた。


「ナオミさん、あの方……」


 ナオミのただならぬ様子を察した夫人も、キャロラインを一目見るなり整った眉を潜める。

 二人の不審な視線に気づく由もなく、キャロラインは若者たちにエールの瓶数本を持たせ、なんとナオミたちの席の近くに腰を下ろした。

 別にバレたって全然かまわないのに、反射的にショールを頭から深くかぶり直す。

 ナオミの行動に困惑するパーシヴァルと、それとなく説明してくれる夫人を尻目にやはり彼女から片時も目が離せない。


 ナオミに一挙手一投足見られているとはやはり露ほどにも気づかず。キャロラインは豪快にエールを飲み干していた。一本で飽き足らず、二本、三本と続く。


「キャシー、飲み過ぎだぜ」

「そんなことないわ。私、ちっとも酔ってないもの」

「よく言う。こんなにべろんべろんになっちまってんのに」

「いやぁねぇ!もう!」


 真っ赤に色づいた肌や唇は昼間見たクラリッサと違い、匂い立つ色気に溢れていた。

 十五、六の少女が醸し出しているとは到底考えられない艶っぽさに、若者たちの目の色が変わる。だが、欲情の目を向けられても、彼女はむしろ煽り立てるかのごとくそれぞれの男たちにしなだれかかり始めていた。


「呆れた。見目が良ければどんな男性でもかまわないのね」


 レッドグレイヴ夫人は真顔になり、嫌悪を微塵も隠そうとしない。

 ナオミはあえて反応せず、ため息をつく代わりに何度も頭を振る。

 エールは最初に二口ほど飲んだだけでそれ以上口をつける気にはなれなかった。


「ね、姉さん、ルシンダさん。場所を変えて飲み直しませんか??」

「そうね、そうしましょう」


 悪くなる一方の空気を変えるべく、パーシヴァルが出した提案に夫人と揃って頷く。 精神衛生上、さっさと店を出ることに越したことはない。


「ねーえ、今晩は近くの宿に一緒に泊まりましょう??もちろん三人で!お金??お金なら私が持つから……」


 椅子から腰を浮かせかけたナオミの耳に、甘さといやらしさを含んだ声が突き刺さる。


 絶対に振り返ってはいけない。絶対に見ない方がいい。

 見てしまったら最後、きっと自制心を失ってしまう。


 頭では強く念じていたのに、知らず知らずの内にキャロラインが二人の青年の唇に順番に深くくちづけるのを目の端で捕えていた。


「お、おい、キャシー……」

「いいじゃない。それとも私のキスは嬉しくなぁい??」

「そ、そんなわけないだろ」

「よかった!ちょっと前にヤドリギの下でキスねだった人なんて、あれこれ理由つけてしてくれなくって!」

「ホントかよ。キャシーみたいな美人に??そいつヘタレだなぁ」



 下卑た響きを持つ笑い声が凶器のように鼓膜を突き破ってくる、錯覚を覚えた。



 悪い癖って、そういうこと??

 あんなに惚れ込んでいる素振りを見せていたじゃない。


 ルードは母親の愛も知らず、流れる血筋に傷つき、前世云々とか馬鹿げたことを本気で信じ込んでいた程、唯一無二の愛情を求める人なのに。





「さっ!会計も終わりましたし、早く出ましょう??」

「あ……」


 危うくもう少しでキャロラインのテーブルへ乗り込みそうだった。

 夫人は爆発寸前のナオミの気をさりげなく逸らそうと、呼びかけてくれたのだろう。 お陰で瞬時に冷静さを取り戻し、彼女に気づかれることなく無事退店できた。



 クインシーの計画を一日でも早く実行する機会チャンスを見つけなければ、と。



 店を振り返りつつ、パーシヴァルと夫人とで二軒目の店を探しつつ、ナオミは必死に考えを巡らせていた。

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