第56話 ヤドリギの下に立っていいのは①

(1)


 清潔なクロスが敷かれたテーブル。並ぶのは星を象ったジンジャークッキー、そして、白磁のカップから漂うのは、クッキーと同じジンジャーに加え、シナモンなど数種類のスパイスの香り──


「もしやチャヤは苦手ですか??」


 テーブルを挟んだ向かいの席、声と同じく涼やかな瞳が笑んでいる。

 この青年はナオミより少しばかり年下らしいが、さわやかな童顔ゆえもっと若く見える。パーシヴァルと同年代の学生と言われても違和感がまったく湧かない。

 そんな彼もまたナオミの雇用主の一人。失礼にも取れる感想は心の裡に留めておくとして、「いえ、そんなことはありませんわ」とカップを口元へ運ぶ。


 この家へ訪問すると時々お茶に誘われていたものの、次の仕事があるからとずっと固辞し続けてきた。しかし、例のカストリ記事のせいで仕事が激減した今、皮肉にも時間の余裕ができてしまった。

 苦境に立たされている現在、雇用主との関係にヒビを入れたくない。時間の余裕から交流に時間も割けるので、初めて誘いに応じてみたのだが、まさかチャヤが振舞われるとは思ってもみなかった。


「それは良かった!寒さが一段と厳しくなってきましたし、チャヤで身体を温められてはと思いまして」

「お気遣い痛み入ります」


 さわやかでもあり余裕たっぷりでもある笑顔にあえて畏まった態度で返す。

 以前にも感じたことだが、女性慣れした雰囲気はなんとなくルードと似通っているような。こちらの方が人好きする印象は強いけれど。

 彼の隣では、ナオミの生徒であるアッシュブロンドの小柄な美少女がチャヤの液面にふうふうと何度も息を吹きかけている。


 限られた内輪のみのお茶の時間、多少の無作法は目を瞑ろう。

 青年も特に咎める様子もないし、淹れたてのチャヤは熱くて舌が焼けそうだ。猫舌の少女が慎重に熱を冷ましたい気持ちもよく理解できるし。


「実を言うとグレッチェンはスパイス類が苦手でしてね。ミルクと砂糖を少し多めに足してあります。お口に合うといいのですが」


 だからデクスター家や自宅アパートで飲んだ時よりも甘みが強く、スパイスの辛味が薄れたように感じたのか。

 ジンジャークッキーで口直ししつつ、青年のカップがほとんど手つかずになっているのに気づく。皿の上のジンジャークッキーもほとんど減っていない。


「あの、シャロンさん。どうしてチャヤを飲まないのですか??私に合わせて甘くしたから……、ですか??」


 人に苦手か訊ねておいて彼の方こそチャヤが苦手なのでは……?と疑いかけた時、少女が青年に遠慮がちに問うてきた。青年はやや気まずげに少女に向き直り、困ったように微笑む。


「違うよ。君と同じで、少し冷ましてから飲もうと思ったんだよ」


 上手く取り繕ったわね、と、感心半分呆れ半分なナオミだったが、不安に揺れていた少女の瞳が明らかに安堵に変わったのでこれも心の裡に留めておいた。

 それにしても、同じ養女と義理の家族と言う点ではセイラとルードと似た境遇なのに、この二人の方が距離感が近く、親密な関係に見えてくる。年齢差がセイラとルードより近いからそう見えてしまうだけかもしれないが。


「そう言えば、チャヤを売り出したデクスター商会に昔の知り合いがいましてね」


 少女の指摘を気にしてかチャヤを一口啜った後、青年が切り出した話にぎくりとする。


「知り合いと言っても、寄宿学校に通っていた頃の同室の先輩というだけで特別親しかった訳でもありませんが」


 彼の言う知り合いとはまさか。

 ナオミの中で警戒心が一気に跳ね上がっていく。

 動揺を悟られぬよう、表情は一切崩さずにチャヤをもうひと口含む。

 通常のより甘ったるい筈なのに、スパイスの辛味ばかりが舌にまとわりついてくる。


「私の身分は本来寄宿学校に通うには少し低く、特に上級生からの風当たりが強い中、彼だけはごく普通に接してくれていました。時には上級生によるからさりげなく庇ってくれたことも何度かありましたかね」


 彼は一体何を言わんとしているのか。

『そんな先輩となら幸せになれるし、家庭教師の仕事なんて辞めてさっさと結婚でもしろ』という遠回しな解雇通告だろか。さすがに考えすぎと思いたいけれど。

 じっと話に耳を傾けつつ、警戒心は益々持って膨れ上がっていく。


「私はこう見えて割とひねくれた質ですが、そんな私ですら彼に対して悪い感情を持っていません。信じていい人間だと思いますよ」


 独り言のような、己に言い聞かせるような振りでその実、ナオミに言い聞かせている。かと言って解雇の意図も見当たらない。何かしらの意図があるとすれば、彼なりの応援、と言ったところか。


「……でしょうね。私もそう信じています」


 ルードとの仲を応援されることに反発がない訳じゃない。

 しかし、反発するのも失礼なので殊勝に頷いておくことにした。

 首肯の理由の中には確かな本心も混ざっていると、不本意ながらナオミもいい加減自覚しつつあった。





(2)


 次の訪問先へ向かうべく、少女と青年の邸宅を後にすると、ぽっぽ、ぽっぽと雪が降りしきっていた。


 北国でありながら、この国は雪は降っても意外に積もることが少ない。積もったとしても次の日には溶けて消えてしまう。しかしながら、今年は例年と違い、珍しく大雪が続いている。

 

 ウエスト地区内では専属の雪かき人を雇い、ある程度除雪してある。とはいえ、足取りはどうしても遅くなってしまう。せっかくチャヤを飲んで温まった筈の身体も歩く内にどんどん冷めていく。

 訪問先の屋敷──、デクスター邸へ到着した頃にはすっかり身体は冷え切ってしまっていた。


 通用口の扉の前で、帽子や外套の雪を払い落としながら、ふと、今日はカストリ記者を一人も見かけなかったことに思い至る。きっと聖誕祭の前々日となれば休暇に入る者も少なくないからだろう。あと単純にこの雪空の下、何時間も外で張り込んでいたら凍死しかねない。


 何にせよ、久しぶりに人目を気にせずにいられる。

 ブーツの爪先をトントン、煉瓦のポーチに軽く蹴立て、雪を払い落とし屋敷の中へ。通用口から廊下へ来た瞬間、真っ白な塊が視界に飛び込んできた。


「ぶっ!」


 顔面に白い塊が直撃。塊の質量、身も凍る冷たさは間違いない。雪玉だ。

 ナオミに雪玉を投げつけてくる人物が誰かなんて、だいたい想像がつく。


「きゃははは!成功せーこー!!」

「……セイラさん」


 きゃっきゃっと大喜びするセイラに何の邪気も見当たらないし、純粋に楽しそうな分叱りづらい。床に転がった雪玉を拾い上げ、ナオミはやれやれと掌の上で転がし、弄ぶ。


「私だからいいですけども、他の人には絶対に雪玉を投げてはいけません」

「はあい。じゃねぇ、せんせー、みんなで雪だるまつくるのはー??」

「その前に授業です」

「ええー……、授業おわったころにはお外うす暗くなってきちゃうかもー」

「授業の方が大事です」

「えええー、やだぁー。セイラあそびたぁい」


 近頃は鳴りを潜めていたセイラの駄々が始まった。

 寒さも手伝って軽い頭痛がしてきたが、知らんふりして「いけません。早くお部屋に戻りますよ」と授業を受けるよう促す。が、セイラはぷー!とふくれっ面を見せ、微動だにしない。


「今日だけ、今日だけおねがいぃ、せんせぇ……」

「セイラさん」

「いつもお勉強がんばってるんだもん。たまにはお外で遊びたいよぉ!」


 セイラの気持ちも分からなくもない。

 ナオミも彼女と同じ年頃なら雪の中を駆け回っていただろう。

 でも、そうかと言ってナオミの独断で勝手に授業を取り止め、外で遊ばせる訳にもいかない。


「ナオミさん。今日は遊ばせてやってもいいですか」


 背後から近づいてくるルードに、困惑とわずかな非難の眼差しを送るナオミの足元でセイラの表情が見る見るうちに喜色に満ち溢れていく。


「ただし、本当に今日だけ、と約束するなら」

「うん!やくそくするっ、ちゃんとするよっ!!」

「じゃあ、シュナに防寒着を出してもらうよう頼むんだよ」

「はぁい!」


 返事するやいなや、セイラは嬉しそうに廊下を駆け……、そうになって、慌てて速足に切り替えて自室へ戻っていく。


「すみません、横から出過ぎた真似をしました」


 まったくだ、と言い返してやろうとしたが、ルードの様子がやけに神妙だったのでやめておいた。


「カストリ記者が屋敷周りをうろついていたせいで、ここのところセイラを庭で遊ばせてやれなかったので」

「……いえ、そういった理由でしたら」


 迂闊に言い返さなくてよかった。

 あの忌々しい記事の影響が幼いセイラにまで少なからず及んでいたなんて、むしろいたたまれない。

 ナオミの沈みかけた気持ちを察したのか、ルードは無理矢理な笑みを顔に張りつけ、声のトーンを上げた。


「今日は誰も張り込んでないみたいですし、何か起きないよう僕もセイラと一緒に外に出ますから」


 気遣ってくれたのはいいが、明るい声音も引き攣った笑顔も随分とわざとらしいし、似合わなさすぎる。普段の彼を知る分、なんだか可笑しくなってきてナオミの表情は自然と緩んでいく。


「そしたら私も一緒に……、あ、いえ……、このまま何もせずにいる訳にはいかないでしょう??それに」


 ずい、と、一歩詰め寄り、詰め寄った分だけ引き下がったルードを軽く睨む。


「この間治った風邪がぶり返してはいけませんからね。交代でセイラさんを見ていましょう」

「面目もありませんね……」


 折よく、「お嬢様、お待ちくださいっ」とクリシュナの焦った声と、駆け足気味の足音が上階から響いてきた。


「あんなにはしゃがなくてもいいのに」

「子供にとって雪遊びは格別ですから」


 天井を見上げて呆れるルードについ、くすっと笑みが漏れる。

 その間にもセイラは階段を勢いよく駆け下り、二人の前に再び戻ってきた。

 ムートン素材のコート、手袋、ブーツ、耳まですっぽり隠す帽子とまさに換毛期の子羊よろしく全身もこもこなセイラの姿にまた笑いを誘われてしまう。


「せんせー!おにーさま!!雪合戦しよーよ!!」

「ええ、いいですよ」

「やったあ!」

「僕は着替えてくるので先に外へ行っててください」


 すっかり張りきるセイラに手を引かれ、表玄関から外へ向かうナオミと入れ違いにセバスチャンが中へ入ってきた。

 セバスチャンはナオミを認めると一瞬表情を強張らせ……、かけたが、すぐに「お気をつけて」と生真面目な顔で送り出してくれた。

 だから、閉ざされた扉の中、一旦自室に戻ろうとしたルードに一枚の訪問カードを差し出していたことに気づく由もなかった。


 カードに記されていたのはエメリッヒ氏の妻の名。

 この場合、訪問者は彼の妻自身か──、もしくは娘のどちらかだ。(未婚の娘は訪問カードに自分の名を使えないので母親の名を使う)


「……どちらだった」


 表情を曇らせたルードの問いに、セバスチャンはそっと目を逸らし、答えた。


「訪問者はご息女のキャロライン嬢の方でした」

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