第54話 波乱の幕が開ける②
(1)
悲鳴に似た高い音を立て、窓硝子が砕け散っていく。
窓を越えても石礫は勢いを失うことなく、中途半端に立ち上がったまま硬直したナオミへと向かってくる。ナオミを庇おうとルードとクインシーが動くも、咄嗟に石礫を躱し、事なきを得る。
クリケットが得意だけあって、我ながら反射神経や動体視力、運動神経が優れていて助かった。と、ホッとしたのも束の間、頬にじんと鈍い痛みを一瞬感じた。
嫌な予感を覚え、頬に触れると指先に薄く血が。
躱したつもりでごくごくわずかに頬を掠めたか。
目で見て確認しなくても、痕に残るような傷(と言えるほどの傷)じゃないので、特段気にもならない。
それよりずっと気になるのは、誰が、何のために投石という暴挙に出たのか。
仮にカストリ記者が新たに記事を書き立てるためとして、度を越しすぎている。
デクスター家は貴族でないにしろ、限りなく貴族に近しい家柄。
犯人は逮捕されれば、事と次第によって終身刑を下される可能性だってある。
ルードとナオミの醜聞(便宜上あえて以下略)のために人生賭ける意味も価値もないのに──、などと雪の女王の息吹のごとき冷気を室内へ送り込む窓を振り返る。
床から天井までの高さ、一部が無残に割れた窓から見えるのは降り続ける雪と、その雪がうず高く積もった
「は??」
思わず間抜けな声が漏れる。
聞こえていなかったか、聞ける状態にないのか、ナオミの声にかまうことなくクインシーはそのまま裏庭へと飛び出していった。
いやいやいや、ちょっと待って。
まさかと思うけど投石の犯人追いかけるつもりなんですか??
たしかに応接室は一階にあり、裏庭の門扉も近い位置にある。
でも今から追いかけても遅い。表の庭と違い、裏庭の雪は積もったまま放置されていて、移動に足を取られる。絶対追いつける訳がない。
そもそも、投石した犯人はすでに消えているし、クインシーが確実に姿を捉えていたのかもあやしい。
しかしながら、止める間もなく飛び出していったクインシーの勢いに完全にナオミは飲まれ、唖然としてしまっていた。
「ナオミさん、別室に移動しましょう」
移動も何も話自体は終わっている。と言いかけて、ルードの真剣な眼差しに口を噤む。
無言の気迫に怯むナオミの頬へ、ルードの指先が触れるか触れないかの微妙な位置で止まる。その顔は怒っているようにも悲しんでいるようにも見えた。
「貴女を守りたいと言った端から……、情けない。よりによって顔に」
「数日すれば治るほんのかすり傷です」
「ですが、もし諸に当たっていたら……、取り返しのつかない怪我を負わせていました」
「間一髪避けられたましたし、ちっとも気にしていません」
「そういう問題じゃありません」
今度こそルードはナオミの頬の傷に触れてきた。
壊れ物を扱うかのごとく、おそるおそる、慎重に。
「痛みは」
「ほとんどないですわ」
「よかった。でも、せめて別室で手当てさせてください」
結構です、と断りかけて、やめる。
自分の傷よりルードの表情の方がずっと痛々しく、その顔を見ているだけでナオミの胸もどんどん苦しくなってくる。
彼のこんな顔は全然らしくない。
達観した風な褪めた顔か、自信ありげな笑顔の方が彼には似合うのに。
「……わかりました。お言葉に甘えさせていただきます」
ナオミの返事を聞くやいなや、ルードは扉の側の呼び出しベルを鳴らす。
自分の傷など正直どうでもいい。
ただ、彼の辛そうな顔を見ていたくなかった。
(2)
ルードの呼び出しから間もなく、救急箱と掃除道具を手にクリシュナがやってきた。
ルードに救急箱を手渡したあと、窓辺に散らばる硝子片を箒で拾い集めるクリシュナを背に退室する。
別室移動と言いつつ、実際は隣の図書室と呼ばれる二つ目の応接室へ移っただけだった。木目調の壁紙と、壁紙よりも濃い茶色の本棚に囲まれた室内の中央に二人掛けのテーブルセットが置かれているのみの簡素な部屋。
「そのまま少し待っていてください」
扉の前でナオミに待機させ、先に入室したルードは真っ先に窓辺へ向かい、すばやくカーテンを閉めた。
「もう入ってきても大丈夫ですよ」
テーブルのオイルランプを点けながら、ルードはナオミを呼ぶ。
閉め切った部屋を明るく照らす光に導かれるように、ナオミがテーブルへ着席すると、ルードは傷薬を取り出し、消毒液で湿らせた脱脂綿を
「少し沁みます」
「かまいません」
言いながら薄く目を閉じる。ツンと鼻をつく消毒の臭いにも慣れている。
子供の頃にしょっちゅう怪我していただけに、痛みには強い。
だから目を閉じたのは痛みのせいでも臭いでもない。
間近に迫ったルードの顔を正面から見るのが少し気恥ずかしいせいだ。
なので、傷薬を塗り、ガーゼをあてがわれ、「終わりましたよ」との言葉が降ってくるまでナオミはずっと目を閉じていた。
「……ありがとうございます」
「いえ。クリケットの試合の時と立場が逆になりましたね」
「あ。言われてみれば……」
数か月前の出来事を思い出し、苦笑が漏れる。
あの時は彼のことが嫌で嫌で仕方なかったくせに。たった数か月でこうも彼への印象や関係性が変わるなんて想像できただろうか。当時の自分が知ったら、『正気の沙汰とは思えない。目を覚ましなさいよ!』と自らへ向けて懇々と諭してきそうだ。
「Mr.デクスターJr.」
「はい」
「私も謝らなければなりません」
「何を、ですか」
「何って……、醜聞の相手が私でなく、他の女性であればここまで大事にならなかっ」
「くだらない」
底冷えしきった声で吐き捨てられ、背筋に怖気が走るが、ナオミは更に切り込んでいく。
「別に自分を卑下しているわけではありません。社交の場にほとんど現れない『ガーランド氏があの国の救貧院から養子縁組した娘で秘蔵っ子』で曖昧な存在の私だからこそ、彼らは行き過ぎた興味を注ぐのかもしれま」
「でしたら、僕だって同じです」
「それは……、そう、なんだけど」
再び、短くとも撥ねつけるような物言いに、今度こそ何も言葉が返せなかった。
「すみません。馬鹿なことを言いました。忘れてください」
「ナオミさん」
「傷の手当ありがとうございました。今日はもうお暇します」
「待ってください」
立ち上がりかけたナオミの腕を、ルードは反射的に掴む。
「まだカストリたちが居残っているかもしれない。今日はここに泊まってください」
「でも」
「これは雇用主としての命令です。自覚ないみたいですが、さっきから顔色が真っ青なんですよ」
「…………」
「あと、今から続ける言葉は一人の男として言わせてもらいます。そんな状態の貴女を僕は帰したくありません」
『何をバカなことを。意地でも一人で帰らせてもらう』
気持ち的には一蹴したかったのに、身体は素直にすとんと再び席に腰を下ろしてしまった。彼の言う通り、自分で思う以上に
ほら、意思に反して唇から『
室内は怖いくらい静まり返り、色々な物音がよく響く。
同じ一階にありながら、少し離れた場所の居間からは電話のベルが勢いよく鳴り響いてくる。
誰も取る気配がないため、ルードは億劫そうに立ち上がると「まだここにいてください」と言い残し、退室していく。
廊下からルードの足音が消えると共に、ベルの音も消える。
残された音は降りしきる雪の音だけしか聞こえなくなった。
気味が悪い程の静かな室内で、クインシーは投石の犯人を捕縛できたのだろうか、などととふと気に懸かってきた時、ルードのかつてなく悲痛な叫び声が聴こえてきた。
「ダストを積んだ船が海賊船に襲われた……?!」
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