第53話 波乱の幕が開ける①
(1)
ナオミの心の叫びは声に出さずとも伝わったらしく、ルードはややバツが悪そうに続けた。
「自主謹慎です」
「なぜに」
「商会本部にまでカストリ記者が張りつくので、社員に迷惑かけないために、です」
そんなところにまで……、と再び暗い気持ちが押し寄せ、絶句する。
どうりで仕事時の三つ揃えではなく、シャツに防寒用のガウンを着込んだ楽な私服姿なわけだ。
ナオミの心中が再び伝わったのか、「もちろん貴女は何も悪くありません」と付け加えられたが、二度目に沈みゆく心を引き上げるにまでは至らない。
しかし、ナオミより少しだけ高い位置から、ぽんぽんと、叩くというより撫でるような掌の動きを感じた。大きさはナオミと変わらないけれど、厚みは倍ある……、カイラの掌が。
その掌が優しく温かいので、心までじんと温かくなっていく。すると心は再びゆっくりと浮上していく。浮上したことで頭も感情も落ち着き──、落ち着いたことで、忘れていた羞恥心がぶわわ、と一気に込み上げてきた。
流すまでには至ってないけれど、人前で涙を見せるなんて一生の不覚。
しかも、よりにもよってルードに見られるなんて!
「じ、授業の時間に遅れますから。失礼します!」
自分を囲んでいた輪から、あっ、という声が上がるも、聞こえない振りで急ぎ大階段を上っていく。気持ち的には一気に駆け上がりたかったが、はしたないのでそこは我慢した。
ルードは追いかけてくるだろうか。
一抹の懸念が沸き上がるも、自分以外に階段を上る足音はしなかっため、杞憂に終わった。が──
「せんせー、おめめ赤いよ??どうしたのぉ??」
セイラの部屋で授業の準備を進めていると、セイラから無邪気かつ容赦ない(?)指摘を早々に受けてしまった。
いつもであれば、さらりと違和感なき返事ができるのに。今回ばかりは何と返したものか。
「セイラお嬢様。寒いときにお鼻がツンと痛くなって、涙が出ちゃうことありますよね??」
ナオミが返答に詰まっていると、クリシュナがさりげなく会話の間に入ってきてくれた。
「うん、そだねぇ」
「きっとお屋敷まで来る間が寒くて、先生のお鼻がツンときてしまったかもしれませんよ??そうですよね、先生」
同意を求めるクリシュナに目線で感謝を伝えながら、「え、えぇ」と答える。
助かったと思いつつ、一回り近く年下の少女の助け舟に乗るなんて益々不覚。情けない。
「さ、おしゃべりはこの辺りにして。お二人共。授業を始めますよ」
気まずさと気恥ずかしさをごまかすため、こほんと軽く咳払いをひとつ。
表情を引き締め、教科書を開く。
うん、やっといつもの調子が戻ってきた。
いつも通り、落ち着いて授業に臨める。
ところが、授業が終わると同時に飛び込んだノックによって、ナオミは再び動揺させられることに。
「はい」
努めて平静を保ち、落ち着いて返事をしつつ、また何か問題が起きたのかと胸が騒ぎ始める。
「ガーランド先生。授業が終わったばかりのところ申し訳ありません」
「いえ、おかまいなく。ご用件は??」
「旦那様がお呼びです。後片付けが終わり次第、応接室へお越しください」
胸騒ぎが更に音量を増していく。
あまりに大きくなりすぎて自分以外、セイラやクリシュナにまで漏れ聞こえていないか。
当然そんなことは絶対にありえない。分かりきっていて尚、心配になる騒がしさではち切れそうな胸をそっと何度か撫でさする。
ナオミにデクスター家の家庭教師を辞める気がなくとも。
ルードや使用人たちが庇い、励ましてくれていても。
クインシーに解雇を告げられれば辞めざるを得なくなる。
「せんせぇ??」
ナオミの大きな不安を感じ取ったのか、セイラまで不安を湛えた大きな碧眼で顔を覗き込んでくる。クリシュナもセイラ程露骨ではないが、同様に心配そうだ。
「せんせぇ、セイラとシュナのおべんきょう、ずっと教えてくれるよねぇ??」
大人が考える程子供は愚かでも鈍感でもない。
むしろ大人よりずっと感受性が強く、敏感に周囲の状況を感じ取るもの。
「ねぇ、せんせ……」
「えぇ、私もずっとそうしたいと思っています」
我ながら狡い返答だと思う。でも決して嘘をついている訳じゃない。
クリシュナはナオミの曖昧な返答の意味と、現実の状況を理解しているからか、黙って複雑そうに笑んでいた。
(2)
寒色系で統一された応接室は夏を除き、いつ入ってみても寒々しく感じる。特に真冬のこの時期は背筋に寒気を覚えてしまう。
最もこの寒気に関しては、雪景色が見える窓を背に、対面に座すクインシーの存在にこそ覚えている、気がする。
なぜなら、今の彼は平素の穏やかな笑みの代わりに厳しい表情を端正な顔に張りつかせていた。彼の隣に座るルードも父の様子に緊張しているように見える。
「Miss.ガール。急に呼び出してすまないね」
「いえ。お話とは一体何でしょうか」
クインシーは一呼吸間を置き、口を開く。
妙な一瞬の間にナオミの不安と緊張はいよいよ高まっていく。
「単刀直入に話しましょう。デクスター家専属の家庭教師になりませんか」
解雇されるものかと身構えていた分、安堵よりも激しい脱力感に襲われた。
そのせいで即座に返答できなかったことを(なんだか今日はそんなことばかり起きる……)迷いとみなしたのだろう。
ここでようやくクインシーはいつも通りの艶然たる笑みを浮かべた。
「ルードとも話し合ったことですが……、カストリ記者たちから貴女の身を守るためです」
「私を??」
「ええ。私もかつてカストリ新聞に何度か記事を書かれましたが、今回の彼らの行動は少々行き過ぎているように思いましてね。ルードも身の危険を感じるほどですし、いずれ貴女の身に何か起きては取り返しがつきません。この屋敷に住み込みで入っていただければ、二人共々守ることができる。カストリたちへの情報統制も警察介入もさせられる。貴女の性格上、あまり好まぬ方法なのは重々承知しています。が、ほとぼりが冷めるまで外国へ逃避させられるよりはまだ悪くない、とは思います」
「……っつ!なぜその話を!」
声を荒げ、立ち上がりかけそうになるも押しとどめる。
つい二、三時間前に話していたことをなぜクインシーが知っているのか
「……取り乱して申し訳ありません。どこでそのお話を」
「エブニゼルから電話が架かってきたのです。『娘を解雇して欲しい。それと
「それは……、重ね重ね大変申し訳ありませんでした」
自分で説得できなかったからと言って、クインシーたちを当てにするなんて。
情けなさ過ぎてため息が止まらない。
「話を本題に戻しましょう。返事は今すぐでなくても結構ですが、なるべく早い方がいいでしょう。僕はナオミさんを危険な目に遭わせたくない。ただそれだけです」
ずっと黙っていたルードが真摯な口調でナオミに告げてくる。
以前のナオミなら『結構です』『余計なお世話』と跳ねつけた。
なのに、今は少しだけ、ほんの少しだけ、揺れている自分がいる。
「……まだ、デクスター家以外で私を必要としてくれる家庭教師先の家があります、から」
やっとのことで絞り出した答えはやはり
仕事への責任感の前では自分の事情など二の次に決まっていた。
「承知しました。ですが、覚えておいてください。我が家はいつでも貴女を迎え入れますから」
「……ありがとうございます」
再び熱くなる目頭に力を入れ、涙がにじむのを防ぐ。
目敏いルードに見つからないよう彼から目線を外し、「そろそろ失礼します」と席を立つ。ナオミが立ち上がるのに続き、クインシーとルードも席を立った時だった。
「危ない!」
クインシーが叫んだ直後、窓硝子めがけて
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