第52話 (心理的に)遠くの家族より近くの他人

 中位中流ミドル・ミドルから上位中流アッパー・ミドルが集うウエスト地区内でも、特にウエスト・エンドと呼ばれる区域は上流に匹敵する家々が集う。ガーランド邸とデクスター邸の所在もそこにある。

 目と鼻の先とはお世辞にも言えないが、普段仕事で生徒の家々を巡るよりも格段に歩く距離は少ない。


 ナオミが暮らすアパート付近と比べ車道も歩道も補正されている。前々日に降った雪の残りを掃除夫が歩道の端へとかき寄せているのを横目にデクスター家へ急ぐ。

 各屋敷を囲う背の高い鉄柵にも雪が積もり、家々の区別がパッとみただけじゃ間違えい兼ねない。気をつけないとうっかり他家の敷地へ入ってしまいそうだ。

 だが、しばらくしてナオミはデクスター邸ではない屋敷の鉄門の陰へと身を寄せていった。


 その屋敷とデクスター邸こそ目と鼻の先といっていい距離にある。

 だからこそ目につきやすかった。


 雪で白く塗り替えられた背の高い鉄門を境に、門の外と内とで口論している者達がいた。

 一人は門の内側。真っ白な敷地内の私道や広い庭園を背に、セバスチャンが寒気よりも冷たい物言いで鉄門の向こう側へ喋り続けている。

 対する門の外側、がたむろするせいでナオミは隣家の門の前から一歩も動けなかった。


 鉄門を挟んでセバスチャンと睨み合うのはくたびれたキャスケットにコート姿、薄汚れた大きな手帳、安物の万年筆を手にする無精髭の男たち。

 上流に近い家々の区域じゃ否が応でも悪目立ちしてしまう彼らはカストリ記者の類だろう。でなければ、セバスチャンが露骨に嫌悪感を示すなどありえない。


 双方が言い合う内容はナオミの元にまでは聞こえてこない。が、彼らが立ち去る気がないのは明白。


 ナオミは元々、表の正面口からは出入りしていない。裏の通用口を利用している。

 しかし、裏の通用口へ回るにしても表に集う人の目を避けるのは難しい。

 かと言ってすごすごと踵を返すなんて問題外。授業の時間も刻々と迫っている。


「ガーランド先生」

「ひゃっ」


 カストリ記者たちの目をどう搔い潜ろうかと逡巡していると、いつの間にか眼前に背の高い影が立っていた。一瞬の警戒ののち、ホッと胸を撫でおろす。


「ハリッシュさん」

「驚かせてすんません。たぶん立ち往生してるから迎えに来たっす」


 ハリッシュは被っていた清潔なキャスケットを一度脱ぎ、ナオミに軽く頭を下げると。まだ正門前で言い合うセバスチャンとカストリ記者たちをそっと振り返った。


「兄さんがカストリ連中の気を逸らしてくれてます。今の内に中へ」


 誘導するハリッシュの大きな身体で姿を隠しながら、ナオミは足早に裏口へと向かう。正門前からはまだ諍う声が聴こえてくる。


 普段のセバスチャンなら、あの手の招かれざる客たちは問答無用で早急に門前払いする筈。なのに、長々と相手にしていることが腑には落ちていなかった。

 ナオミの訪問時間とカストリ記者の急訪が重なったため、鉢合わせないよう配慮してくれのだ。


「気を遣わせてしまって申し訳ありません」


 カストリ記者たちに見つかることなく無事邸内に着く。

 通用口から廊下に抜け、二階へ続く大階段の前で去ろうとしたハリッシュにナオミは謝罪した。


「いいんすよ。先生に帰られちまう方がよっぽど困りますんで。先生の授業をセイラお嬢様もシュナも楽しみにしてますからねぇ」

「そう??」


 クリシュナはわかるが、セイラはそうでもないような。


「ホントですって!特に最近のお嬢様は『つぎまでに、~ができるようにがんばって、せんせーをびっくりさせたいの!シュナにも負けたくないしっ!』とかって毎回張りきってますよ」

「そう、なの」


 驚きと同時に胸が詰まり、喘ぐように相槌を打つ。

 どうりでここしばらくのセイラは急激に学力が向上しだしたのか。

 思わず感慨に耽りそうになりかけたところで、正面玄関の扉が開く音が聞こえた。


「ハリッシュ。用が済んだら本来の仕事に戻るんだ」


 中へ戻ってきたセバスチャンはハリッシュとナオミの姿を確認すると、淡々と弟に注意した。


「わかったよっと」

「わかりました、だ。俺は」


 身内を前につい『俺』と言いかけ、セバスチャンはナオミを横目でちらっと見て咳払いする。真面目一辺倒な執事の貴重な失態にナオミは小さく吹きだす。


「……失礼しました。ハリッシュ。ガーランド先生はお忙しい。早く持ち場に戻りなさい」

「わかりましたー。じゃあ先生、またー」


 ハリッシュは白い歯を見せ、ナオミににっこり笑いかけるとこの場から去っていく。


「弟が大変失礼しました」

「いいえ、私は何も気にしていませんよ。それよりも……、私のために色々とありがとうございました」

「旦那様に『カストリ記者からガーランド先生を守ってほしい』と命じられていますし、個人的に貴女はデクスター家に必要な方だと常々感じていますから」


 執事の銀縁眼鏡の奥、髪と同じ黒い瞳は温かみがあり、嘘偽りなき言葉だと伺い知れる。


「貴女の前に雇った教師は皆、救貧院育ちの孤児だったお嬢様をどこか軽んじている節がありましたが、貴女はとても真摯に向き合ってくれています」

「当然です」

「セイラお嬢様だけではありません。使用人であるクリシュナに字を教えてくれています」

「学びに身分も人種も、もっと言えば年齢も性別も関係ありませんもの」

「デクスター家に仕える我々全員がインダス人であっても、貴女は本国人と我々を同等に接してくれます」

「私もここではいち使用人に過ぎませんし、対等な立場じゃないですか」


 セバスチャンが連ねる言葉たちは、ナオミの中ではどれも常識、考えるまでもないことばかり。けれど、セバスチャンはなぜか眩しいものを見る目でナオミを見つめてきた。


「ガーランド先生。そういうところです」

「何がです??」


 セバスチャンは、ふふ、と軽く笑う。今、彼の瞳にはほんのりと喜色が浮かんでいる。


「申し訳ありません、聞き流してもらえますか。私もお喋りが過ぎました。ハリッシュのこと言えませんね」

「いえ。物静かな貴方の饒舌さに少し驚いただけですわ」

「お気遣い感謝します。あぁ、最後に一つだけ言わせてください」

「ええ、どうぞ」

「旦那様のめいと貴女の人柄を含め、ルードラ様の大事な方を守るのは我々の役目です。たとえ、この屋敷に訪問された時だけでも」


 再び胸の奥が詰まる。でも、それは決して息苦しいとか嫌な感じではない。

 どちらかと言えば──


「あらぁ、先生!無事に中に入れて良かったねぇ!」


 玄関ホールから廊下まで。余すことなく響き渡る大声の主をくまなく見渡し、セバスチャンと共に正体を探る。

 すると、廊下の奥からカイラがワゴンを押して大階段へ近づいてくる。


「こんな雪の日までご苦労様だねぇ、先生。そうそう、お茶の時間用にジンジャークッキー焼いたんだけどさっ、先生も味見してみないかい??」

「カイラさん。先生はこれから授業です」

「クッキーの一枚や二枚くらい、この場ですぐ食べられるじゃない。固いことばっか言ってんじゃないよっ。ねぇ」

「は、はぁ……」


 ずずい、と問答無用に差し出された皿へ、遠慮がちに手を伸ばす。

 満月のように、少し凹凸が目立つクッキーをそっと齧れば、ぴりり、ジンジャーとシナモンの刺激が口の中で広がっていく。


「カストリどものせいで神経使って気疲れしただろう??だいじょうぶ!ここのお屋敷の者はみーんな、先生の味方だからね!……ん??」


 バターの甘味とジンジャー、シナモンの辛みに加え、新たに強い塩気を感じ始める。

 クッキーの味じゃない。これは──、涙の味。

 カイラの暖かな眼差しと言葉で三度目に胸が詰まり、とうとう限界を迎えてしまったみたいだ。


 自分が感じている以上にここ数日の出来事、さきほどのガーランド邸での両親との応酬が身に堪えていたのか。目尻に浮かんだ涙がこぼれないよう、指先で拭いとる。


「ごめんなさい。大丈夫です」

「どこがなんですか」


 なんで今日も屋敷に居るのよ?!


 ナオミの涙は瞬く間に引っ込んだ。

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