六章

第50話 人の噂も七十五日……よりも前に消えるべき①

 壁際に二人追いつめられ、それでも私は諦めきれなかった。

 囲い込む兵士たちへの注意は逸らさず、彼を背中側の窓へさりげなく庇う。


 この窓から落ちたとて、下はバルコニーになっているから最悪死ぬことはない。

 だが、窓から二人一緒に脱出は不可能。どうする??


 額に、背中に、冷や汗が流れていく。

 自分の焦燥を感じ取った兵たちの剣先がじりじり近づいてくる。

 あと二、三歩詰められたら一巻の終わり。


 奥歯をぎゅっと噛みしめる。剣の柄を握る指先がじんと痺れる程強く握り込む。

 剣をすばやく突き出す──、振りをした。


『逃げて!!』


 力いっぱい彼を、後方へ押し出すように体当たりする。


『姫っ!』

『早くっ!!』

『私もすぐ後を追う!!』


 さすが長年私に付き従ってきただけある。

 彼は瞬時に意図を汲み取ると窓辺に乗り出し、飛び降りた。


 これでいい。


 唇の端から血を流し、私は薄く微笑んでみせる。

 儚い笑顔の下、いくつもの剣が。私の胸から腹にかけて貫いていた。









 昼下がりの午後。

 普段なら生徒の家を訪問している時間帯だったが、ナオミは自宅アパートのリビングにいた。


 暖気に包まれた室内。長椅子に座り、ブランデー入り紅茶を飲みながらの読書。

 一見すると、まったりと好きに過ごしているように見えるだろう。しかし、心は全然落ち着かず、本の頁をめくる手は進まず。紅茶の中身も一向に減らない。顔色もいまいち冴えていない。


 隣で刺繍しながらレッドグレイヴ夫人は時折、気遣わしげな視線でナオミの様子を窺うも特に何を言うでもない。あえて無言でいてくれることにナオミは却ってホッとしていた。


 不自然に静まり返ったリビングで突如、電話のベルが鳴り響いた。ナオミの肩がびくり、震える。夫人の針を動かす手も止まる。


 通いの家政婦がこれまたぎこちなく受話器を取り、応対する。

 揃って動きを止めたまま部屋の隅、電話台の前に立つ家政婦の背中を注視し、会話に耳をそばだてる。


「あの、奥様」

「誰なの??」

「リトスカ新聞社の」

「すぐ切って。今すぐ」


 夫人らしからぬ端的で強い口調に家政婦は慌てて頷き、しどろもどろで電話口で適当な断り文句を伝える。


「これで三度目……、しつこい」

「……すみません」

「いいえ、ナオミさんは何も悪くないのです。悪いのは」


 そのあとに続くと予想される言葉に身構える。


「真剣な恋路に水を差す無作法者……、品性の欠片も持たない、無粋で下劣な五流新聞社もどきの似非記者たちですわ」


 恋路、という言葉には反論したい。が、ルードを悪し様に言われなかっただけ良かったと思おう。

 笑顔を消したレッドグレイヴ夫人に戦々恐々としつつ、ナオミはため息をつきたい気持ちを抑える。


 夜会から数日はまったく知りもしなかった。

 そもそもカストリ紙など読むことがないので知る訳がなくて当然。

 しかし、セイラの授業のついでに体調崩したルードを見舞った翌日辺りから、ナオミの周囲で不審な出来事が相次ぎ始めた。


 仕事の訪問先で門前払いを食らう、訪問早々、家の主から理由なくを告げられる……等々。


 ナオミの落ち度のせいか、他に事情があってかはともかくとして、門前払いも突然の解雇も過去に何度か経験している。けれど、続けざまに解雇される事態は初めてで、衝撃ショック以上に戸惑いの念が強い。

 解雇理由を訊ねても、皆一様に『理由は貴女自身が一番よく分かっているのでは??』と冷たく言い捨てられるのみ。


 なぜ、どうして。


 何軒目かに訪問を拒否され、仕事を失った日の帰り道。

 さすがのナオミも肩を落とし、意気消沈で自宅アパートへ向かう途中。


『せ、せんせー!ガーランドせんせー!!』


 黒い霧が発生しだし、薄暗くなり始めたイースト地区の街中。

 警戒しながら歩道を歩いていると、聞き覚えのある少女の声に立ち止まり、振り返る。

 振り返った先には、ときどき道端で文字を教えている癖の強い栗毛の少女が息を切らし、後を追ってきていた。


 どうしたのか、と問えば、少女は『せ、せんせー、なんか、大変なことになってるみたいだよ……』と、ひどく青褪めた顔でナオミにある物を差し出した。


『新聞??』


 寒さのせいだけじゃなさそうな少女の顔色に、体調が悪いのだろうかと心配しつつ、怪訝な顔で新聞を受け取る。パッと見た感じ大衆向けの──、少々品性を疑いたくなる内容を集めたカストリ紙みたいだ。


 カストリ紙は品位に欠ける上に記事の真偽も曖昧適当。

 社交場の淑女のサロンや労働者層の主婦の井戸端会議めいた噂話も多いと聞く。

 字を覚えるためかもしれないが、この手の低俗なものは読まない方がいい。

 そう少女に忠告しようとした矢先、偶然目に触れた記事にナオミは言葉を失う羽目に陥った。


 エメリッヒ家夜会にて。

 ルードとのバルコニーでのひとときを、大変運悪くカストリ新聞記事に書かれてしまったのである。

 熱愛疑惑の記事に加えて、ルードはえらく鼻の下を伸ばし、厭らしい手つきで物欲しげな顔のナオミを後ろ抱きするという、下品極まる挿絵付きでその場で破り捨てたくなった。少女がいなければ、地面に叩きつけるくらいはしていたかもしれない。


 成金富裕層が開く自由な雰囲気の夜会。

 招待客の醜聞スキャンダル目当てにカストリ記者が紛れ込んでいた可能性もなきにしもあらず。


 一応は頭の片隅で気に留めていたし、だからこそ会場内では猫を三枚は被って控えめを装っていたつもりだった。

 何たってパートナーはいろいろな意味で注目を浴びがちな、あのルード。クインシーも含め、社交場で浮名の絶えない二人が揃い、あの晩は一層の注目を集めていたかもしれない。


 だが、幸か不幸か。

 ここ数年のルードは社交場にパートナーを同伴する際、毎回相手が変わっていたらしく、『またか』とばかりにカストリ紙もいちいち書き立てなかったとか。

 ころころ相手が変わる云々は腹が立たないでもないが、だからこそ自分がパートナーを務めてもさしたる支障はない。そう思っていたのに。



「私の認識が甘かったわ」


 ただ文字を追うだけ、内容がちっとも頭に入らない読書に何の意味がある。

 栞を挟む気にもなれず、そのまま本を閉じる。


「ナオミさんもデクスターJr.も悪くありません。悪いのはカストリ記者ですし、不逞の輩を紛れ込ませてしまったエメリッヒ家の不手際のせいですわ」


 子犬のようなつぶらな茶目を珍しく吊り上げ、レッドグレイヴ夫人ははっきりと言い切った。


「悪いとか悪くないとかの話ではなく……、ただ私は」


 ナオミの仕事に支障をきたしているように、ルードの仕事にも悪い影響が出ていないか。チャヤの売れ行きが好調だった分とても気がかりである。


 あとは──、もしもカストリ紙がナオミやルードの出自まで調べ上げたりしたら。

 それこそ一大醜聞としてこぞってカストリ紙が書き立てるだろう。そしたら、デクスター、ガーランド双方の商会にも多大な影響を及ぼしてしまう。

 想像するだけで目の前が真っ暗になり、気丈なナオミでも卒倒しそうだ。


 最悪の展開を避けるためにも、ナオミは一刻も早くセイラの家庭教師を自主的に辞めるべきだと、充分承知している──、が、承知の上で、ナオミはそれだけは絶対する気はなかった。少なくとも自分から言い出すつもりはない。


 だって、セイラはやっと彼女の年頃で覚えるべき文字を全部覚えてくれた。

 算数とピアノは同年齢の子より得意でもっと伸ばしてあげたい。

 クリシュナにももっともっと教えたい言葉がたくさんある。


 受け持った生徒一人一人が皆大切だが、この二人への思い入れは格別だからこそ、成長を見届けていきたい。


 それに、だ。

 カストリ紙の記事ごときなんかに屈したくない。


 きっと大丈夫。

 富裕層の噂や醜聞なんて日替わりだ。

 今は少し辛い状況に陥っていても、また別の話題が持ち上がればすぐ忘れ去られてしまう。


 そうなることをナオミは願っていたのに。


 事態は更なる混乱を招いていった。

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