第49話 閑話休題⑤

 開かれたカーテンの向こう側の一面は銀世界。

 更に曇天から羽根に似た無数の銀がふわふわ舞い降りる。

 幼い頃なら一目散にベッドを飛び出し、窓に張りついただろう。

 張りつくだけでなく、窓を開けようとして父によく止められたものだ。


 ベッドの上、枕を抱えたままルードは横目で窓越しに雪を見る。

 子供の頃みたいにはしゃぎもしないし、熱と激しい倦怠感で寝返りすらも億劫で打つ気になれない。

 窓辺から離れたセバスチャンが氷水を張った金盥を手にベッドへ近づいてくる。


「ありがとう、あとは自分でやるよ」


 水で絞ったタオルを受け取り、自ら額へ宛がう。

 ひんやりした感触に、ほんのわずかだが身体が楽になったような気がする。

 緩慢に寝返りを打つルードの傍ら、セバスチャンは透明ガラスの水差しからグラスに水を注いでいた。


「食欲はなくともせめて水分だけは摂ってください」

「あとで飲む」

「昨夜もそう仰ってましたが全く飲んでませんね」


 喉が痛むので言い返すのも面倒臭い。節々が痛む身体を起こすのはもっと面倒臭い。

 だんまりを決め込めば、セバスチャンはため息交じりにこう告げた。


「ガーランド先生に言いますよ。予定ではあと一時間ほどでお越しになられます。それまでに水を飲んでくださらなければ……」

「彼女は関係ないだろう……」


 セバスチャンに背を向ける形でのろのろと再び寝返りを打つ。全身が軋んだように痛み、小さく呻くが彼の説教が聞きたくない。子供返りもいいとこだ。

 そして、関係ないと言いつつ、ルードが熱で寝込む原因──、三日前のあのエメリッヒ家の夜会が端を発していてる。


 寒風吹きすさぶ粉雪舞う真冬の夜。

 防寒着も着用せず、一定の時間屋外で過ごしていたためか、翌朝少し喉に違和感を覚えていた。けれど、喉の痛み程度で仕事を休むわけにはいかない。平時より仕事を早く切り上げればいいだろう、と軽く考えていた。


 午後になり、夕方になり、気温が急激に下がり出すと共に、喉はどんどん腫れ上がり。帰宅する頃には唾を飲み込むのも少し辛い状態になり、鼻の奥までつんとした痛みが生じていた。


 まずい。

 ここしばらくの過労もあり、夜中か朝方に熱が出る予感がする。


 その予感は、大事を取って早めに就寝したにも拘らず的中。

 二日近くベッドの住人と化していた。


「部屋の空気を入れ替えます。寒いですが、少しの間我慢してください」


 セバスチャンの呼びかけ、窓を開く音。冷たい風が室内に吹き込んでくる。暖炉で暖まっていた室温はぐっと下がり、寒風は窓から離れたベッドまで届く。


 毛布から出た顔を冷気が撫でる。熱で火照った身体には心地良い。

 一応香を焚いてはいても、部屋中に籠る病人特有の臭いも流れていく。


 空気の入れ替えで多少なりとも気分がマシになったからか、急激に強い眠気が押し寄せてきた。瞼が上下ともに鉛のように重たくなっていく。

 セバスチャンが換気を終わらせる頃にはルードはうとうとと微睡み始めていた──




 どれほどの時間が経過したのか。

 寝込んでから枕元の時計での時間確認はしていない。濃い文字盤を見ると目が疲れるような気がして。

 定期的に現れるセバスチャンが窓の換気をする際、窓越しの外の様子で朝か昼か、夕方か夜かを判断、または薬の時間で大体何時かを推し量る。

 ノックと、扉が開く音で目を覚ましたルードは茫洋としながらも思考を巡らせた。


 あの時、セバスチャンはたしかに言った。

『あと一時間ほどでガーランド先生が来る』と。

 多少の時間の前後はあれど、ナオミは大抵は昼の一時近くにデクスター邸に訪問する。

 空は変わらず曇天の雪模様だが、太陽は雲の向こうにうっすら垣間見えるような──、となると、今は昼過ぎか。


 再び換気のため、窓を開く気配に、冷たい風が吹き込む。

 目は瞑ったままでいると、温かいミルクにカルダモン、レーズン、アーモンドの香りが漂ってきた。少し鼻詰まり気味でも感じ取れるほどの甘い香り。キールを用意してくれたらしい。


 ここでルードはうまく頭が働かないなりに違和感を覚えた。


 窓を開けたのはセバスチャンで間違いない。

 それならば、キールは誰がベッド脇、サイドテーブルへ置いた??

 セバスチャンがクリシュナを伴ってきたと考えるのが妥当だが、彼女は今セイラと共にナオミの授業を受けている筈。ハリッシュは雪かきなど外仕事がメインだ。


「食欲ないのでしょうけど、ひと口でも食べた方がいいですよ」


 普段の体力が残っていたら、ベッドから転がり落ちていたかもしれない。


 セバスチャンめ、まさか本当に彼女に話すとは。

 しかも話すだけならともかく、主の部屋にまで引き入れるとは執事の領分を超え過ぎている!相手は女性だし、換気をしているとはいえ、万が一風邪をうつしたらどうする気なんだ!


 いくらデクスター家の家風が(主にクインシーのせいで)自由過ぎるとはいえ、常識の最低ラインは越えないでもらいたい……。


「……セバスチャン。僕の許可なく、勝手な行動は慎み」

「申し訳ありません、Mr.デクスターJr. 。私が無理を言ってお願いしたのです」


 もしかして、これは夢なのでは??

 ナオミが、わざわざ寝込む自分を見舞う。つまり、(執事同伴ではあるものの)独身男性の私室へ赴くなどという常識破りの行動を取る。

 生真面目で倫理観の強い彼女が??到底信じられない。


「実は……」


 夢の中のナオミ曰く、風邪で寝込むルードの見舞いに行きたいとセイラが激しく駄々を捏ね、授業が危ぶまれるほどだった。

 そこで自分が代わりに見舞いに行って様子を見るから、とクリシュナと二人掛かりで何とか宥めすかしたとか。


 ずっと目は閉じたまま、話の内容が現実的でやけに信憑性が高い気がしてきた。

 なるほど。納得……、なわけがない!


「セバスチャン……」

「承知しております。後日お叱りはたっぷり受けますし、ガーランド先生にもすぐに退室していただきますのでご安心を」

「だから、そういう問題じゃ」


 堪忍袋の緒が切れそうだ。

 パッと目を開け、最初に目にしたのは枕元で心配そうに見下ろすナオミだった。


 夢じゃない。

 はっきり確信すると、開けたばかりの目をまた固く瞑る。


「Mr.デクスターJr.。セイラさんがとても心配していましたし、その……」


『私も心配なので早く治してください』


 ルードにのみ、聞こえるか聞こえないかの声でぼそっとつぶやくと、ナオミは急に素っ気ない口調で「私はもう退出しますわ。失礼します。どうかお大事に」と足早に部屋を出て行ってしまった。


「ルードラ様??」

「……何でもない」

「やっと、お食事を摂る気になられましたか」


 全身を蝕む倦怠感も痛みも堪え、ルードは半身を起こす。

 銀縁眼鏡の奥で、セバスチャンの真っ黒な瞳に静かに喜色が浮かぶ。


 その時、再びノックの音がした。


「ハリッシュか」

「兄さん、ちょっと」


 いつも飄々としたハリッシュが珍しく切羽詰まった様子で、セバスチャンを廊下へ連れ出した。

 込み入った雰囲気に、食事に手をつけようにも気になってできない。


 数分後、セバスチャンは部屋に戻ってきたが、先程のハリッシュ同様浮かない顔をしていた。


「何か問題でもあったのか??」

「いえ、大したことではありません。それよりも……、食べる前にキールが冷めてしまいますよ」


 セバスチャンの厳しい表情は平常通り。平常通りだが、少し不自然さが感じられた。


 ルードの勘は的中しており、セバスチャンの執事服のポケットにはハリッシュから渡された、とあるカストリ新聞の記事が握りつぶされていた。


 その記事の内容とは──、先日のエメリッヒ家の夜会にて、バルコニーでのルードとナオミの密会現場を報じるものであった。







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