第48話 正直さは美徳、それとも
二人の間を一段と強い夜風が吹き抜けていく。
その風に乗ってちらちら、粉雪が舞う。冷え切ったバルコニーの手摺に置く腕から体温が奪われていく。
二の句を継ぐこともできず、静かな熱と、かすかな不安に揺れるルードの暗緑の双眸からも目が離せない。
ルードの黒髪に白い粉雪がかかる。寒いのはルードだって同じ。自分から何か言葉を発しなければ。それでもナオミは言葉を紡げずにいた。
「あまり深く受け止めないでください」
長い沈黙ののち、先に言葉を発したのはルードだった。
「貴女にとっての僕は、弟のような友人でもある雇用主の一人に過ぎない。そうでしょう??」
「それは」
「いいんです、わかってますから。あくまで僕にとっては貴女がかけがえのない女性だというだけの話です。つい口に出してしまいましたが、これまで通りの関係でかまいませんし、もし不快に思われたなら」
「……違う、そうじゃない。そうじゃなくって!」
指先がしびれるほどの力が手摺を握る両手に加わる。
ナオミにとってのルードとはまさにたった今彼が口にした通り、『友人兼雇用主』でしかない。なのに、だ。
いざ彼の口から改めて告げられると、心臓を直に鷲掴みされたかのような息苦しさに襲われ。また、置き去りにされた子供のような言い知れぬ不安に苛まれてもいた。
未だかつて感じたことのない、不可解な感情。
己ですら把握しきれない感情について、説明する言葉をナオミは持てずにいる。
教科書の内容ならいくらでも説明できるのに、自分の心の裡の説明ができないだなんて!
自分へのもどかしさと情けなさのあまり、ナオミはルードから思いきり目を逸らしてしまった。
ナオミ自身ですら訳がわからず混乱しているのだ。ルードはもっと訳がわからないだろう。もういっそのこと、呆れて屋内へ戻ってくれればいいのに……。
「はっ……、くしゅん!」
この状況でくしゃみが出るなんて!
恥の上塗りもいいところ。いっそ消え入りたい。
こんな弱気な自分なんて嫌だ。耐え難い。見られたくなんかない。
『もう一人にしてもらえませんか』
喉元まで出かかったけれど、口に出すまでには至らなかった。
ナオミが口を開くより先に、ルードが慎重に口を開いたからだ。
「一応先に断っておきます。他意はありません。嫌だと思ったら突き飛ばしてください」
なにが、と問うより先に背中から抱きすくめられた。
完全に予想だになかったルードの行動に、ナオミの懊悩は一気に吹き飛ばされるどころか、頭が真っ白になった。突き飛ばすも何もない。混乱しきりで手も足も出ない。
次から次へと何なの?!
「あの……」
「寒そうな貴女を見ていられなかったんです」
などと言う割には、ディナージャケットを通して伝わってくるルードの体温は冷え切っている。心なしか身体も声も微妙に震えているし、自分だって凍えてるじゃない。
「……いい格好しい」
思わずぼそっとつぶやくと、わざとらしく咳払いされた。
「これまで通りの関係でかまわないだなんて本当は嘘でしょ」
今度はルードの方が口を噤む番だった。
あえて肯定も否定もしないのは図星の証拠、な気がする。
「私は……」
さっきと立場が逆転した途端、いつもの冷静さが戻ってきた、かもしれない。
説明し難い不可解な感情については変わりがなくても、出来る限りの範囲で伝えた方がいい。理解してもらえるか定かじゃないが、何の言葉も返さないのは不誠実過ぎやしないだろうか。
「私は……、自分や貴方が考えているよりは、貴方のことを憎からず思っている、のかもしれません。たぶんですけど。先程いただいた言葉も、その……、今のこの状態も決して嫌ではない、気がします。」
頭上で大きく息を飲む音がした。
小柄な身体を包む両腕にも若干だが力が籠ったような。
でも、本題はここからだ。
「ただ……、貴方が私に向ける気持ちと同じかまでは……、正直よくわからないのです。誰かを想い、想われる経験が一度もないですし、むしろ避けて通ってきました。ですから、自分でもよくわかっていない状態で貴方の気持ちを受け入れることも断ることも、私にはできません。元より私には夢がありますし、余計に考えてしまいそうで」
腕に込められた力が抜けていく。
このまま離れていくかもしれない。
でも、話は終わっていない。話が終わるまでは離れないで欲しい。
意思表示するように、ルードを見上げ、腕をきゅっと掴んで引き止める。
お陰で離れようとするのはやめてくれたが、代わりに困惑した目で見返された。
「とてつもなく自分都合の勝手なことを言います。どういう結果であれ、私の気持ちが定まるまで……、待ってもらえないでしょうか」
「……つまり、貴女が答えを聴かせてくれるときまでは、お互い特に変わらないままでいた方がいい、と??」
改めて口に出されると、とんでもなく傲慢で我が儘な申し出である。
果たしてナオミにルードを待たせるだけの価値なんてあるだろうか。
案の定、ルードの身体は再びナオミから離れかけている。
ナオミも今度は引き止めはしなかった。
ルードの身体が完全に離れると身も心も急速に冷えていく。
さすがに愛想を尽かれてしまったか。後悔の念がじわじわと胸中に影を落とし──
「それが今の貴女の精一杯の答えなら、これまでと変わらずな関係でいましょう。貴女の最終的に下す決断を僕はおとなしく待ちます」
微苦笑を浮かべつつ、ルードの声や表情自体に憂いも陰りも感じられなかった。むしろ吹っ切れたようにさえ見える。
「そんな顔しないでください。僕なら平気です。こう見えて気は長い方なので」
「……」
「さぁ、酔いも充分醒めたでしょうし、いい加減戻りませんか。父とレッドグレイヴ夫人も待っているかもしれません」
下手な言い訳は口にすればする程、ルードを傷つけるのみ。
己の狡さに申し訳なく思う反面、現状維持に安堵してもいた。
しかし、お互い、すぐにそのような悠長なことをやっている場合ではなくなるのであった。
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