第47話 見えない棘は誰のせい

 固く閉ざされた扉を開き、バルコニーへ一歩出た途端、ナオミは激しく後悔した。


「さっむ!」


 よく考えれば、いや、よく考えなくたって、真冬に薄いドレス一枚で屋外に出るなんて愚の極み。乾燥した夜風が勢いよく吹き抜け、ナオミの肌を冷たく刺してくる。かと言って、すぐに中へ戻るのも癪だ。

 どうせルードはキャロラインを休憩室まで連れて行く。レッドグレイヴ夫人とクインシーもまだエメリッヒ氏に捉まっているに違いない。


 剥き出しの二の腕をしきりに擦り、手摺の前まで進み出る。

 秋までなら階下の庭園にも明かりが灯り、ぽつぽつと人気ひとけもあっただろうが、今は明かりも人の気配も一切感じられない。ただ強く吹きすさぶ寒風に、庭園の草木が頼りなく揺れているだけ。


 酔いなんてすでに醒めてしまった。

 つんと鼻の奥が冷気で痛み、涙が滲まないよう顔を顰める。

 化粧が崩れたって知ったことじゃない。どうせ誰も見ていない。


「あの……」

「ひゃっ?!」


 今、扉が開く音なんかしなかったわよね?!

 相手に聞こえそうなくらい、ばくばくと心臓の鼓動が煩い。

 間抜けな悲鳴を上げてしまったのも悔しいし恥ずかしい。


 声を掛けてきた人物の姿を見ようと振り返るも、暗闇に紛れていてよくわからない。

 せめて中のカーテンから漏れる光の下に立っていてくれれば、と思いながら、「どなたですか??」と呼びかける。

 呼びかけた直後、くっしゅん!と大きなくしゃみ。は、恥ずかしすぎる……!


「お、驚かせて申し訳ありません……、あの……、その」


 遠慮がちなか細い声は若い女性のもの。

 声と同じく態度も遠慮がちで、なかなか話を切り出せずにいる。


「私に何か御用??はっ……、くしゅん!」

「あ、あの……!あのあの!これ、お貸しします!よろしければ着てください!!」


 女性が腕を伸ばし、拡げた何かはちょうど中から漏れた光のお陰で何なのか判明した。


「……ケープ??」

「え、えぇ、何も羽織らずお外にいらっしゃるのがあんまりにも忍びなくて……」


 女性はようやく、ゆっくりとナオミの側へと歩み寄ってきた。

 おずおずと差し出されたケープを受け取る頃には、同じケープを纏う女性の姿がはっきりとわかるようになった。


 ごわついた赤毛を高く結い、そばかすが目立つ十代後半、少女と大人の女性との境目であろう年頃の彼女は、ナオミがケープを着る一連の動作をおどおどとした目で眺めていた。


「お貸しいただき、ありがとうございます」

「と、とんでもないです……」


 気軽(?)に貸すにしてはケープは上質な毛皮で作られている。

 ありがたく借りつつ、内心恐縮するナオミよりもずっと赤毛の少女の方がなぜか恐縮している。

 不必要なまでにおどおどするのか不思議だったが、若さにそぐわない高い襟に七分袖と控えめな露出、茶褐色の地味なドレスから、自分への自信のなさが伺い知れた。。


「後日、必ず改めてお礼をしたいので、貴女のお名前を訊ねても??」

「お、お気になさらず、です。貴女が中に入ったら、こっそり私に返していただければそれでいいのです」

「いえ、そういう訳には」

「本当にいいんです!」


 突然の強い口調に驚き、思わず押し黙る。


「ご、ごめんなさい……」

「いえ……。貴女がそうまで仰るならその通りに致します」

「ごめんなさい」

「大丈夫ですよ」

「本当にごめんなさい……、あ、ごめんなさい。申し遅れました。私、主催の娘のクラリッサと申します」


 そう言えば、キャロラインは『姉』の存在をちらりと窺わせていた。

 口振りから察するに、姉を見下していたように思う。確かに容姿も性格も対極的だが、クラリッサ単体なら素朴な雰囲気の令嬢と思えなくもない。


「あの、ごめんなさい」

「何がでしょうか??」

「い、妹が、貴女のパートナーに目を付けてしまって」

「……は??」


 無意識に剣呑な声が出てしまった。目つきも相応のものになっていただろう。

 クラリッサはナオミを怒らせたと勘違いしたのか、泣きそうな顔で訴えるようにまくしたてた。


「キャロラインには気をつけてください。あの子は気に入った男性はどんな手を使ってでも手に入れようと躍起になるから……。まだ子供だからと決して油断なさらないで!そうよ、まだ子供なのに、あの子はもう、その……、とっくに男性を知っているの!酷く淫蕩な質だと思いません??」

「は、はぁ……」

「いいです?!あの手この手で掴まえた男性でもあの子はすぐに飽きてしまうんです!この夜会で男性がパートナー必須なのは特定の女性つきの方ならあの子も早々食指を動かさないからなんです。お父様もお父様よ。いくらあの子を気に入ってるからってお仕事関係の夜会にまで連れてこなければいいいのに」

「あの、そのようなお話……」


 私にぶちまけられても困るんですけども?!

 さっきまでの虫一匹殺せなさそうな、おとなしげな姿はどこいった?!

 この娘、たぶん妹がものすごく嫌いなのだろうな……。


 ナオミにケープを渡しに来たのは単純な親切ではなく、忠告と言う名の愚痴を言えそうな相手だと判断されたのかも、と勘繰りたくなってしまう。


「ご、ご忠告どうもありがとうございます。……助かりました??」

「ご理解の早い方で良かったです……。では、私はこれで」


 言いたいだけ言い切って、すっきりしたら自分はさっさと行ってしまうんかい。

 殊勝に会釈しつつ、クラリッサの表情は声を掛けてきた当初より晴れがましいものに変わっていた。


 いそいそと去っていくクラリッサの後ろ姿を見送ると、白い石の柵に両腕を乗せ、更にその上で顎を置く。氷のような冷たさに全身が震えたが、すぐに慣れた。


 夜空を覆う黒い霧と雲の間で冬の星々が輝く。

 黒い霧さえなければ満天の星空だろう。生憎、石炭を大量使用するこの国の都市部じゃ煌めく星々の全容が見れない。

 あの時、コンサバトリーで見た星図タペストリーのように見事な夜空を見たいなら、田園地帯か、もしくはあの国の田舎へ移り住む。


 それでいいじゃない。

 恥も外聞も気にせず色恋にうつつを抜かすのも、決められた相手の側で貞淑で従順な妻を演じるのも、どちらも望む道とは違う。

 後ろ暗い出自を隠し通すだけでも充分煩わしいのだ。不必要な煩わしさに悩まされたくな──


 悩む??

 一体何について??



 風の音に混じって、背後でまた硝子扉が開く音がした。

 足音は一人。いつかの夜会のように、二人きりで抜け出した男女ではなさそうで少しホッとするが、これで独りの時間は終わる。

 もしも出てきたのが男性で、声を掛けられたりしたら面倒。その前に……。


「もう中へ戻ります。どうぞごゆっくり……」

「こんなところにいたんですか」


 なぜ、いつも。いつもいつも。

 いつもいつも、いつも都合タイミングがいいのよ!


 夜風に晒され、闇よりも濃い黒髪が乱れる。

 乱れた髪が一筋、はらり。顔にかかると色気が滲み出る。

 本人はただただ鬱陶しそうに、しきりに指先で髪を払いのけているが、その仕草さえも様になってしまう。


 他の女性なら、それこそキャロラインなら見惚れたかも。

 相変わらずナオミは客観目線で色っぽいと感じただけで、逆に腹立たしくて仕方なかった。腹立ちまぎれに、向き直りかけた身体を再びバルコニーの柵の方へと戻す。


「何しに来たの」


 暖かい室内から身も凍る屋外へ迎えに来てくれた人に対する言葉、ではない。

 普段のナオミならある程度気安い間柄でも、ここまで失礼極まる態度を取ったりしない。自分が最も厭うみっともない対応じゃないか。

 失礼な対応にも拘らず、ルードは嫌な顔を微塵も見せずにナオミの隣に並んだ。


「キャロライン嬢は??随分と貴方にご執心だったのに、置いていってしまってよかったの??」

「問題ないです。休憩室に送る途中でエメリッヒ家の従僕に後を任せましたから」

「でも、わざわざ貴方をご指名したのよ??ご機嫌損ねてないといいけど」

「従僕の中で一番見目麗しい若者に任せたら、今度はそちらに気が移ったようで大丈夫でしょう」

「……そう」


 ここで会話が途切れ、夜の静寂のみが二人の間を流れていく。

 沈黙は冷静さを呼び起すこともなく、気まずさばかりが膨らみに膨らんでいく。


「彼女が……、気になるんですか」


 声につられてナオミが顔を上げると、ルードは真剣な目で覗き込む。


「気になる訳じゃ……、ただ、私は」

「ただ??」


 居たたまれなくなり、徐に視線を逸らすがルードは尚も問い重ねてくる。


「彼女は、夢の姫騎士……、キャサリン姫とよく似ているじゃない」

「似ている??どこが??」

「金髪に薄い色の瞳も華やかな美しさも、性格だって自分の気持ちに嘘偽りなく、いっそ強引なくらい正直だし」


 キャロラインとキャサリン姫との共通(とおぼしき)点を上げれば上げるほどに、胸の奥に小さな棘が突き刺さる。一つだけなら怪我に繋がらないのに、いくつも突き刺さるせいで薄っすら血が滲み、鋭い痛みが拡がっていく。

 口にすればする程、自分も彼も傷つけるだけの言葉なんて、本当は言いたくないのに。みっともない。最低過ぎる。


「僕は全然似ていると思いません」


 顔は伏せたままなので、ルードがどんな表情なのかはわからない。だが、少なくとも声音は穏やかで、怒りや呆れは感じない。


「例え、キャロライン嬢がキャサリン姫の生まれ変わりだとして……、それでも僕は彼女に心惹かれることはないでしょう」

「だけど、貴方は姫の生まれ変わりを探していたじゃない」

「たしかに。姫の生まれ変わりこそ、きっと生涯添い遂げる相手に間違いないと信じてきました。馬鹿げた妄想に思えるでしょうが、僕にとって真剣な願いでした。でも」


 穏やかだった声に静かな熱情が籠る。

 顔を上げてはいけない。顔を上げたら最後、深い森の奥のような瞳から目が離せなくなる。絶対に目を合わせてもいけない。


 心とは裏腹に、身体が勝手に動く。吸い寄せられるように顔を上げ、黒に近い深緑の双眸を見つめてしまう。


「貴女が姫の生まれ変わりかどうかなど、もうどうだっていい。僕が求めているのはナオミ・ガーランドという女性、唯一人です」

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