五章

第40話 移ろう季節と女心

(1)


 ジャック・フロスト冬の悪魔が到来し、ナオミの住むこの街にも初霜が降りてから幾日か過ぎた。

 冷たい雨が二日に一度は降り、屋外を歩くと乾いた空気で顔がひりひり痛む。白夜も先月末に終わり、午後五時前には日没となる。来月下旬には聖誕祭が、聖誕祭が終わり、一週間過ぎると新年を迎える。


 世間はそろそろ聖誕祭への準備を始める。

 例えば、玄関に飾るクリスマスリースを作ったり、プラムプティングの仕込みを始めたり。来月になればミンスパイが店頭に並び始めるだろう。

 あの星の形に似たかわいらしいミートパイはナオミも好きだ。聖誕祭の時期限定でしか食べられないので、余計に毎年食べたくなってしまう。『期間限定』という言葉に人は、特に女性は弱い傾向にある。ナオミも例に漏れず。


 しかし、クリスマスリースはともかく、プラムプティングやミンスパイが食べられるのは裕福な家庭のみ。

 今、ナオミと一緒に地面にしゃがみ込む幼い姉妹はどちらの食べ物も口にしたことがない気がする。


 ナオミの下宿アパート近くは、主にイースト地区で小売商店を開く低位中流ロウワ―・ミドル、職人や製造業など肉体労働に従事する労働階級ワーキングクラスが暮らしている。

 労働者の中にはまだ成人である十五に満たないながら、すでに働く子供たちも大勢いる。霜が溶けた車道に小枝で文字らしきモノを書く姉妹も、姉は近くの商店で売り子として働き、妹は病気の母に代わって家事労働の一手を引き受けているという。


「センセー、できたー!みてみて!!」


 くるんくるんの栗色の太い巻き毛を一つにくくった姉が、得意そうに道に書いた文字を小枝で指し示す。地面には『snow』とたどたどしく書かれている。


「正解よ。つづりもあってるし、きれいに書けてるわ」

「本当?!」

「うん、本当。じゃあ、今度は『ホワイト』って書いてみて」


 姉は大袈裟に頷くと、真剣な面持ちで再び地面に文字を刻み始めた。

 その傍らで一回り小さいくるんくるんの栗毛のおかっぱ頭……、妹は我関せずと地面に犬だか猫だかをラクガキしている。


「センセー、センセー!」

「うん、これも正解。ちなみにスノウホワイトはね、おとぎ話の白雪姫を指すの」

「お姫さま!お姫さまなんてかくの!!」


 白雪姫と言った瞬間、関心なさそうだった妹がくるっと前のめりでナオミを振り返ってきた。「お姉ちゃんの書いた文字見て、真似して書いてごらん??」と言えば、「おねえちゃん!お姫さまのなまえなんてかくの!?」と鼻息荒く姉に飛びつく。


 文字同様、たどたどしく文字を教える姉と意気込む妹、二人の後ろ姿を微笑ましく眺めながら、溜息をつきたくもなった。


 労働者の家に生まれた子供たちは学校に通えず、自分の名前以外識字できない子がなんと多いことか。

 身分に拘らず、誰もが最低限の教育を受けるべく、無償の学校機関はあるにはある。一応は。だが、通う者の数は少ない。なぜか??

 勉強よりも家計のために労働を望む親が多いからだ。特に女の子に教育は必要なしだと。


 ミンスパイも教育もこの国では贅沢な嗜好品でしかない。


 でも、ミンスパイはともかく最低限文字の読み書き、計算くらいは身分に関係なく女の子にだって必要な筈だ。最終的に家事労働や子育てに人生捧げるとしても。

 だからナオミはときどき、イースト地区の女の子(もちろん男の子も大歓迎)たちに簡単な文字を教えている。


「あっ!センセー!今何時?!」

「ちょっと待ってね」


 腰にぶら下げた懐中時計を手に取り、時間を確認する。


「十時十二分」

「わーっ!休憩あと三分しかないっ!店に戻らなきゃっ!センセーありがとー!また今度よろしくー!!」


 姉は飛び上がらんばかりの勢いで立ち上がり、物凄い速さで石畳の歩道を駆け抜けていく。


「あー、いっちゃったぁー」

「間に合うかしら……」

「おねえちゃん、足はやいからたぶんだいじょーぶ」

「だったらいいけど」


 ナオミの個人レッスンが原因で仕事に遅れ、怒られでもしたら申し訳ない。


「だいじょーぶ、だいじょーぶ!店のおじさん、そこまでいやなひとじゃないし」

「そ、そう??」


 んしょ!と立ち上がると、まだしゃんだままのナオミに妹がへへ、と笑いかける。


「あたいもおうちかえる!おねえちゃんねぇ、聖誕祭せーたんさいにおかあさんやあたいにチャヤを買ってあげたいっておしごとがんばってるんだー」


 チャヤ、という単語に一瞬どきりとしつつ、平静を装う。


「……そうなの。おねえちゃん、偉いわねぇ。でも、貴女だっておうちのこと頑張ってて充分偉いと思うわ」


 ナオミが褒めると、妹はえへへ……と小さくはにかみ、もじもじと全身をくねらせる。


「チャヤってすごくあまくておいしいんだって!あたい、聖誕祭がたのしみなんだぁ。じゃあね、センセー。またねー」

「ええ、さようなら」


 妹はナオミを何度も振り返り振り返り、姉が戻ったのとは逆方向へ向かって駆け去っていった。


「……私も行かなきゃね」


 しゃがみっぱなしで重くなった腰をゆっくり上げ、ナオミも立ち上がる。

 立ち上がった途端、それまで感じていなかった寒さに身を震わせる。それだけ姉妹といた時間をナオミも楽しんでいたのかもしれない。


 厚地の重たいケープの前を掻き合わせ、手袋をはめた両手をこすり合わせる。


 時刻はまだ十時半にもなっていない。

 アパートに戻って仕事の準備をして出かけたとしても、どんなに遅くても正午には到着してしまう。遅れるよりマシとはいえ、約束の時間の二時間以上早い訪問はさすがに非常識だ。


 今日の家庭訪問は午前がマクレガー家、午後がデクスター家の二件だった。

 しかし、今朝方、マクレガー家から『グレッチェン生徒の名前が風邪を引いてしまったので今日はお休みさせて欲しい』と連絡が入り、急遽訪問が取り止めに。


「あぁ、そっか」


 マクレガー家がナオミに電話を架けてきたように、ナオミもデクスター家に電話すればいいのだ。

 本来、家庭教師が雇用主に電話を架けるなどもっての他だが──、今回ばかりは大目に見て欲しい。


 一旦アパートへ戻り、居間の奥にある電話台の前に立つ。

 台に鎮座する本体の中央にあるダイヤルボタン、受話器と送話器の縁が銀で装飾された、真っ白な電話機を手に取る。

 電話交換局からデクスター家への取次を待つこと数分。


『ハロー??』


 凛とした、艶を持つ低い声に、危うく受話器を滑り落としそうになった。





(2)


 なんで!安息日休日でもないのに!

 屋敷にいるのよっっ!!

 そもそも最初に電話を取るのは使用人の筈でしょうに!


『……ハロー??』


 受話器の向こう側の声が剣呑な響きを含み始めた。

 非常に気まずいけれど、悪戯と勘違いされて電話を切られるのはもっと困る。


『本当にMiss.ガーランドガーランド先生ですか??彼女を騙っての悪戯でしたら切ります』


 あぁ!ほらやっぱり!

 切り捨てるような物言いに、受話器に齧りつくようにナオミは声を張り上げる。


「待ってください!Mr.デクスターJr.!!」


 受話器越しにたっぷり五秒は沈黙が降りた。

 しまった、声がちょっとうるさかったかも……。


『あぁ、ちゃんと本物のナオミさんで良かった』

「いえ、私こそ大変失礼しました。まさか、使用人の方じゃなくて貴方が電話に出るとは思わなくて……」

『驚かせてすみません。貴女もご存じのように、我が屋敷は最低人数の使用人で回していますので、電話は取れる者が取るようにしているんです。それから、今日は商談が午前のみで、思いの外かなり早く終わってしまって』

「それでお屋敷にいらっしゃるのですね」

『本当は先月末に立ち上げたばかりの作業所へ足を運ぼうと思ったのですが……』


 ここでルードは一旦言葉を切り、人には話し辛い秘密を漏らすように声を潜めた。


「作業所の手伝いで三日徹夜が続いてまして、父に一回寝てこいと……」

「さっさとベッドで寝てきてください!!!!」


 先程の叫びより更に大きな声で叱責すると、小さく『……そうします』と返ってきた。


 まったく。

 仕事大事なのはよくわかるが、若いからと言って無理はいけない。


 思いの外素直な返事に満足し、受話器を下ろしかけ──


『寝る前にひとつだけ。電話の用件は何でしたか??』

「あ」


 自分としたことがなんてこと!肝心の用件を言わずして電話を切ろうとするなんて!!


「実は……」


 一人赤面しながら用件を伝えれば、ルードは『授業の時間を早めることはまったくかまいません。セイラと父にも伝えておきます』と快諾してくれた。

 一時間後には屋敷を訪問すると伝え、ナオミは今度こそ受話器を下ろし──、下ろすと同時にその場に座り込み、うずくまる。

 顔を両手で覆いながら、「うん、は事故。事故なの。ただの事故に過ぎないから」とぶつぶつとつぶやく。掌の中で顔は自然と無表情になる。


 時刻は夜に近い夕暮れ時。コンサバトリーの天井に輝くは精巧な美しさを誇る星図。

 そういう状況シチュエーションに陥ってしまったのはまぁ、うん……、仕方ないと言えば、仕方ない。


 加えてあの日チャヤの試飲会の日の彼は酷く傷つき、打ちのめされ、少なからず弱っていた。

 怒りがなかったと言えば嘘になるけれど、弱っている者を罵倒するなど、ましてや平手打ちなどもっての外だと思った。


『私、初めてだったのに……』と悲嘆に暮れるほど若くないし、まったく傷つきもしていない──、嫌がっているのに無理矢理された訳でもないのだから(最も、完全なる不意打ち過ぎて嫌がるのも何もなかったが)、何事もなかったかのように水に流すと決めたのだ。


 しかし、いざ顔を合わせるとなるとどうしたって気まずさは残る。

 幸い、ルードはチャヤの本格商品化に向けての仕事で多忙になり、あれから一か月半以上経ったが一度も顔を合わせていない。なので、先程の電話は本当に驚いたと共に、ほんの少しホッとしている自分がいる──、訳がない!


「あー!もう!!バカッッ!!」


 ルードに対してなのか、自分に対してなのかはわからない謎の罵倒を、立ち上がりざま叫ぶ。

 レッドグレイヴ夫人が外出中で良かった。おかげでこんな醜態を彼女の前で晒さず済む。そもそも夫人にもあの日の話は厨房での出来事以外話していない。話せる訳がない!


「まあ、このあと寝るって言っていたし、今日も顔を合わせることないでしょ……」


 何度も自らに固く言い聞かせつつ、ナオミはのろのろと出掛ける支度を始めた。

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