第39話 閑話休題④
(1)
亡き母の出自はデクスター家公然の秘密だ。
どれほど親しく深い関係になろうとも、過去の女性たちにも伝えてこなかった。
差別や偏見に負けず、人種や身分の壁を越え、父との結婚を成就させた母の強さは尊敬すれど決して軽蔑したりはしない。
しかし、それはルードが血を分けた者だからこその想い。ナオミにとって母ネハはまったくの赤の他人である。
ナオミは基本的に人種や身分等への差別偏見を持たないが、春をひさぐ者に対しても同様かはわからない。彼女は人一倍(以上に)自立にこだわる質だし、同じ女性として生理的嫌悪を抱くかもしれない──、きっと抱く。おそらくナオミは否定的な反応を見せる。
結果なんて見え透いているのに、なぜ公然の秘密を自ら漏らしてしまったのか。
心の裡の片隅で、彼女だけは受け止めてくれるのではないか、否、受け止めて欲しい。つい、そう願ってしまった。
けれど、伝えたあと即座にルードは激しく後悔した。言わなければよかったと。
予想通り、知性を湛える青灰の双眸は衝撃に揺らぎ……、ところが、動揺は本当に一瞬のみ。すぐにいつもの少し怒ったような、固い表情に戻った。いつもの顔過ぎて不自然さを感じるほどに。
「すみません、今のは忘れていただけま……」
「それで??」
普段から吊り上がり気味の目尻が一段と跳ね上がった。
「貴方自身はお母様を汚らわしいとお思いなのですか??」
「まさか!尊敬や感謝こそすれ……」
「でしたら、お母様を卑下する発言は慎むべきと思います」
「卑下ではなく事実、ですが……。貴女だって本当は」
「私、汚らわしいなどと一言も申し上げていませんが」
「申し上げていない、と言いましたね??では、思ってもいない、と判断しても??」
「私はそのつもりで申し上げましたけれど??」
相変わらず目つきと言葉自体はきついものの、聞き分けのない生徒を根気よく諭すかのように、ナオミの口調はあくまでも穏やかだった。
「貴方のお父様がどれだけ多くの女性と浮名を流そうと頑なに再婚されないのは、それだけ亡き奥様が素晴らしい女性だったからでしょう??そこに人種は元より出自の貴賤なんて関係ないのでは??」
「ナオミさん……」
「もうひとつ。一番大事なことですけど……、お母様を卑下するのは貴方自身への卑下にも繋がりますよ」
ここでナオミはニヤッと微笑んでみせた。
本人は笑ったつもりだろうが、先ほど窓辺で見せた笑顔と比べて不自然かつ下手な笑顔で、きっぱりこう言い切った。
「自信家の貴方が自己卑下するなんて全然似合いませんわ」
「違います??」と、念押しするように上目遣いで見上げられ(彼女らしく媚は一切含まれていない)、ルードは反論の余地を失う。満足したのか、ナオミはくるっとルードに背中を向け、先を歩き始めた。
「厨房まで送ってくださるんでしょう??」
「え、えぇ……」
「早く行きましょう。あぁ、そうですね……、セイラさんも厨房へお連れしてもよろしくて??気分を落ち着かせるためにお集りの皆さんから少し距離を置いた方がいいと思うのです」
今更ながら抱き上げたセイラの様子を窺う。
セイラはルードの首にぎゅっとしがみつき、まだすすり泣いていた。もう一度、頭をポンポン撫でれば、更にぎゅっとしがみつく。とても健気でいじらしいが、少し首が苦しい……。
「ナオミさんの仰る通りにしましょう。カイラは何かと人の世話を焼いてくれますからセイラもよく懐いている。セイラ、ガーランド先生と一緒に厨房へ行くかい??」
セイラは首にしがみついたまま、こっくん、と大きく頷く。
ナオミもこちらを振り返って頷くと、すぐにまた前を向き、歩き出す。ルードも後に続く。
厨房へ着くと、案の定カイラは嫌な顔せずセイラを迎え入れてくれた。
ルードとナオミの神妙な様子から察するものあったのか、何も訊かず、ただセイラに「ほらほら、クッキーでも食べてご機嫌直してくださいよ」とクッキーの皿を差し出してきた。
「クッキー……??たべるっっ!!」
すっかりしょげていたのが嘘みたいに、セイラは元気よくクッキーの皿に手を伸ばす。いつもなら『あまり食べ過ぎないように』と注意するけれど、今日は大目に見よう。ナオミも同様なのか、勢いよくクッキーを貪るセイラを窘めようとしない。
「ほらほら!お嬢様ならアタシと先生に任せてさぁ、ルードラ
「あぁ、セイラが顔を押しつけてたからかな」
「呑気なこと言ってる場合じゃないよ!まさか、そんな恰好で戻るつもりじゃないだろうねぇ?!早く着替えてきな!!」
「わかったわかったよ」
カイラは世話焼きで面倒見が良い分、とにかく口うるさい。
母と同じ寺院所有のデーヴァ・ダーシであり親友でもあったためか、このような母親じみた態度になることもしばしばだ。決して嫌でも迷惑でもないが、うんざりしないわけでもない。
「あぁ、そうだ」
「はい??」
厨房から出て行く直前、ナオミにだけ聴こえるよう、こっそり耳打ちする。
「試飲会が終わったあとで少しお時間ありますか??客人が引けたらコンサバトリーに来ていただけませんか??来るか来ないかは貴女の自由です。来なくとも貴女への待遇は何一つ変わることはありません。では」
(2)
件の子供爆弾を除き、試飲会は無事終了した。
チャヤは来客たちに概ね好評。彼ら彼女らの意見を元にスパイスや砂糖の比率を調整し、最も一般受けしそうな味に近づけ、父や商会の社員たちと相談、販売化を進めていく。
これから忙しくなってくるし、仕事に集中する前に心の憂いはなくさなければ──、というのは言い訳に過ぎない。別に憂いがあろうとなかろうと仕事と私事の区別はつけられる。
来客は全員帰宅した。
しかし、その頃にはもう夜の帳が訪れようとしていた。
空が昏い方が実は好都合だが、明日の仕事を考えナオミは来ないかもしれない。
それでも往生際悪く自然と足はコンサバトリーの方へ向かう。
全面硝子張りなので建屋に近づけば、中の様子……、ナオミがいるかどうかは一目でわかる。だが、扉を開ける前にいないことを知るのはせつないので、なるべく見ないように努める。少し強めに扉を引くと、中央のテーブルにナオミが着席していた。
「お疲れ様です」
「なぜ、いるんですか」
「なぜって……、貴方が呼び出したのでしょう??」
「失礼。いえ、遅くなってしまったのでてっきり来ないものかと」
「私はできない約束なんてしません」
ムッとした顔での出迎えなのに、正直ホッとした。
顔つきはともかく、コンサバトリーに来てくれたこと、待っていてくれたことへの嬉しさがじわじわと胸へ湧き上がってくる。思わず緩みそうな頬に力を入れ、何でもない素振りでナオミの対面の椅子を引く。
室内が薄暗いのは、断りもなく他家の照明を点けることを遠慮したためだろう。
「お待たせしました。……ここのランプを点ければよかったのに」
「勝手に点けるのは気が引けましたので」
だろうな、と思い、机上の灯油ランプの芯の出方を小さくなるよう調整し、点火。細長いマントルの中で小さな炎が頼りなく揺れる。
「ナオミさん。天井を見上げてもらっていいですか」
ルードは席を立つと、天井に向けてランプを掲げた。
訝しげにしながらもルードに従い、ナオミは天井を見上げた。
「まぁ……」
小さく漏れた感嘆の声に満足感が芽生える。
天井にはちょうどテーブルと同じ位置、天板の一回りほどの大きさのタペストリーが飾られていた。
濃紺のオーガンジーは夜空、銀糸の精緻な刺繍は星座の数々──、中心に天馬の胴体を示す四辺形、その左側に神話の王女の星座、下側には水瓶と水瓶から飛び出した魚の星座など……。
「秋の星図です。母は生前星を眺めるのが好きだったみたいですが、この国の夜空は田舎以外年中黒い霧に覆われています。この国で暮らすことで少しでも母の楽しみを奪わないよう春夏秋冬の星図を作ったそうです。今は毎日午後四時を過ぎた頃にここの天井に飾り、早朝に片付けています」
ランプのほのかな光を浴び、星図の星々は控えめな輝きを放つ。強すぎない控えめな光が本物の星の光とよく似ている。
「こんな美しいタペストリーなのに全然気づきませんでした」
「薄暗い中で高い天井を見上げることなんて、そうすることではありませんよ」
「これを見せるためにわざわざ私を……??」
「はい」
ルードは目を伏せ、大きく頷くとランプを掲げたままで再び着席した。
「貴女に母を、両親のことを理解していただけたことがとても嬉しかったので」
「理解も何も出自に関しては私と貴方は似通っている点があります。特に母に関しては……、と言っても私の母と貴方のお母様では比較に値しません。当然私の母の方が……」
ナオミは徐に眉を顰め、口を噤んだ。細い指先でこめかみを押さえつけ、苦笑する。
「出自を公にできないのは私も同じです。悩み苦しむ程若くはありませんが、不用意に他人に知られることへの不安はやはり捨てきれていません」
「だから、いずれあの国でひとりのんびり暮らしたいと願うのですか」
ナオミはまたしても黙ってしまった。
完全に失言だった。本日二度目の後悔をしたが時すでに遅し。
ナオミの顔から表情が消えていく。
「……余計なことを言いました」
「……そうね、なきにしもあらずかもね。あ、貴方の発言が余計という意味じゃないわ。まぁ、結婚に頼らず、女一人でも自立していたい気持ちが一番強いけど……」
「けど??」
おそるおそる再び問う。
ナオミはルードに答えるというより、独りごちるように続ける。
「本当は怖いのかもしれない。貴方が子供たちに大した理由もなく責められる姿に物凄く強い怒りが湧きました。同時に自分にも起こり得る事態でもあります。絶対ないとは言えないでしょう??」
「ナオミさん」
「厨房でカイラさんを手伝いながらずっとそう考えていたんです。私の出自が広く知られてしまったら……、私自身だけじゃない、家族や父の会社にまで影響してしまうことを改めて突きつけられた気がして」
『そんなことはない。大丈夫だ』と気休めの言葉などかけられる筈がない。
彼女が抱く不安はルードが抱くものと同じだから。きっと二人とも普段は心の片隅に追いやり、見ないようにしている不安。その不安が互いに共鳴してしまったのかもしれない。
「ごめんなさい。つまらない話をしました」
重たい空気を払拭するように、ナオミはぎこちなく口元を緩めた。
ぎこちなさすぎてちっとも笑えていない。下手くそすぎる。彼女のごく自然な笑顔を知るだけにやりきれなさが込み上げてくる。
無意識に掌が伸び、肉付きの薄い頬全体を包み込む。
気付いた時には彼女の唇に自らの重ねていた。
掌の中の皮膚が徐々に強張っていくのを感じ取った瞬間、急いでナオミに触れるのをやめた。
どんな罵倒も受け入れ、必要なら平手打ちを何発でも食らう覚悟で、世にも恐ろしいものを確認するように、そっとナオミを見返す。
「何ですか??」
「いえ、その……」
「ところで、そろそろお暇してもよろしいでしょうか??明日の仕事に障ってはいけないので」
てっきり罵倒と一緒に平手打ちが飛んでくるかと思ったのに、ナオミはすでに平素の鉄壁顔と堅い口調に戻っていた。落ち着きすぎているのが逆に怖い……、怖いが、こちらも下手なことは言わず、彼女に倣い何事もなかったかのように振舞った方がいい、のかも……。
「……わかりました。真っ暗になるまで引き止めてしまいましたので、また馬車で送らせてください」
「こちらもまたお言葉に甘えてしまいますが、よろしくお願いします」
ルードを真っ直ぐ見据えるナオミの瞳を探っても、彼女の本音はちっとも透けて見えてこない。平静を取り繕いながら、とんでもないことをしでかしてしまった、と青褪める一方のルードであった。
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