第32話 予想外のお願い事①

 コンサバトリーの透明な天井と壁を包む空が陰り、庭園を美しく彩るサルビアの紫とアスターの白にも深い陰影を落とす。

 どの家の庭園にも女王然と君臨するバラはデクスター家の庭には咲いていない。また、紫や白、青など寒色系統の花々が目立つのはクインシーの趣味なのかもしれない。夏は涼しげに思えたものだが、秋に差し掛かった今の時期はやや寒々しく思う。


「お待たせしました」


 ルードと、もう一人──、いつかの落木事故の翌朝、食事を運んできたインダス人の若いメイドが厨房から出てきた。メイドが持つトレイにはカップが二つ。


「白無地のカップがスパイスなし、花柄のカップがスパイス入りのチャヤです」


 テーブルに並んだカップを数秒見つめ、立ち上る湯気の向こう側、再び元の席に座ったルードをそっと見返す。ナオミの視線を受け、ルードは軽く頷く。


 先に刺激の少ない方、白無地カップを口元へ運ぶ。

 中途半端に溶けた茶葉の粉が液面に浮かんでいるのが気になったが、香りは普段飲むミルクティーと変わらない。ひと口、ふた口含み、後味を舌で堪能したのち、カップをテーブルに戻した。


「たしかに……、この国のミルクティーより甘くて濃厚ですけど、想像していたよりもずっと美味しい、と思います」


 素直に感想を伝えるとルードは安堵の表情を見せつつ、「感想ありがとうございます。ですが、もしも気になった点……ほんの些細なことでもかまいません。どうぞ遠慮なく、忌憚なき意見を聞かせてもらえますか」と食い下がってきた。

 気軽に請け負ってはみたが、あくまでこれは彼にとって仕事の一環。

 気を引き締め、ナオミはもう一度カップに口をつける。


「しいて気になる点をあげるとしたら……、粉っぽさが口に残るような気がしないでもないですし、ひょっとしたら人によっては濃厚な味わいが却って諄く感じるかもしれません。特に上流の方は強い甘味を品がないと受けつけない可能性も」

「……なるほど」

「私個人は嫌いな味わいじゃないのですけど」

「ご意見ありがとうございます」

「いえ。次はこちらを頂いてみますね」


 甘ったるさと数種類のスパイスが入り混じった香りを放つ花柄のカップを手に取り、ひと口含んだ瞬間、ナオミは眉を顰めた。


「口に合わないようでしたら無理はなさらず」

「いえ、平気です」


 気遣うルードを制し、数秒ほど時間を置いて再びカップに口をつける。

 うん、今度は大丈夫。


「……正直に伝えますね。初めに飲んだときはその……、スパイスの辛みに吃驚してしまって」

「すみません。なるべく飲みやすいようスパイスの分量は控えめに調整したのですが……」

「でも最初のひと口を越えれば、スパイスが逆に癖になってきました。身体が温まる気がしますし。ただやはり、スパイス入りはなし以上に好みに差が出るでしょうね。スパイスを刺激の少ないハーブに変えてみたりなど本国流にするともう少し飲みやすくなるかもしれません。素人意見になりますが」

「素人意見なんてとんでもない!大変参考になりました。ありがとうございます。口直しにミルクティーを」

「口直しだなんて……、何度も言いますが、私自身はチャヤの味が嫌いではありませんからどうかお気になさらず。それよりもそろそろ時間ですので」


 言いながら天井をさりげなく見上げる。完全に薄暮に包まれた空にルードは慌てて立ち上がった。


「時間は取らせないと言ったのにすみません。馬車でアパートまで送りましょう」


『その必要はありません』と断りを入れかけ──、しかし、ナオミの口から実際に出てきた言葉は「ではお言葉に甘えますが……、よろしくお願いします」だった。


「それから、私もひとつお願いがあります。貴方に同乗してもらいたいのですが」

「え……??」


 口をぽかんと開け、面食らったのち、ルードの目がかすかな期待(何の)で光った、ような。


「あぁ、違います。チャヤの試飲の件で新たに思いついたことがありましたから。それについてお話したいだけです」

「あ、あぁ……。そういう、ことですか」


 ちょっと……、だいぶ反応が分かりやすすぎでは??

 以前なら気分を害したけれど、今は可笑しさが込み上げてくる。


「何か別の期待でも??」

「……いえ、別に。馬車の手配をしますから、少し待っていてください」


 揶揄い口調で問えば、ルードは徐に視線を逸らし、そそくさとコンサバトリーを後にする。

 案外子供なのかしら。更に可笑しさが込み上げ、頬が緩みそうになっていると、チャヤを運んだあと隅に控えていた、若いメイドが呼びかけてきた。


「あの」

「どうされました、えぇと……、お名前は??」


 名前を訊かれてメイドは目を丸くしたが、すぐに「クリシュナです。シュナとお呼びください」と答える。


 貴族、または貴族に近しい主人の屋敷で働く使用人は個々の本名でなど呼ばれない。

 数が多すぎるし、主がいちいち下々の名前を覚える必要が一切ないからだ。(デクスター家は屋敷の規模と比べてかなり使用人の人数を絞っているが)

 執事など自分と直接関わる上級使用人ですら、本名ではなく「エドワード」「ジョージ」など『執事につける渾名』的な名前テンプレ・ネームで呼ばれる。(ちなみにメイドなら「メアリー」「エマ」がよく使用される)


 ところが、デクスター家は使用人全員をほぼ本名で呼ぶ。

 執事のセバスチャンに限っては本人の希望でこの国風の名だが、ハリッシュもクリシュナも典型的なインダス人名。

 クインシーとルードは彼らの本名を奪いもせず、ひとりひとりの名をきちんと覚えている。


「あの、ハリッシュから話を聞いたかもしれませんが」


 あぁ、そう言えば、あのときハリッシュはナオミに『話したいことがある。自分の事じゃないけど』と話を振ってきた。本題に入る前に色々あって立ち消えてしまったが。


「ごめんなさいね。ハリッシュさんは伝えようとしてくれたんだけど、ちょっと取り込んでてお話聴けなかったんです。」

「あ、いえ!やっぱり自分のことはちゃんと自分の口から伝えますっ……!」

「私にお話って何かしら??」


 別段怒って言った訳じゃないが、シュナは怯えたように黙ってしまった、のも束の間。思い直した顔で続けた。

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