第31話 めまぐるしき日②
(1)
次の瞬間、ルードは玄関ホールの絨毯に爪先を取られ、前のめりに倒れかけた。
寸でで転倒は避けたものの、平素の彼らしからぬ、また尋常でない様子に一同は唖然となった。
「ルードラ坊ちゃま、おかえりなさい」
「……ハリッシュ、坊ちゃまはやめてくれといつも言っている」
「口開くなり文句ですか。そういうところがまだまだ『坊ちゃま』すよ??」
「ハリッシュ」
「あと乱暴な扉の開け方やめてもらえませんかねぇ。壊れたら誰が修理すると思ってるんです??」
「……そうだな。僕が悪かった」
あのルードが、だ。
あのルードが、すんなり素直に謝った、ですって……?!
しかも同じ立場である富裕層の者ではなく、(便宜上あえてそう呼ばせてもらうが)一介の使用人相手に、だ。
姿勢を正し、息を整えるルードを、信じられない想いで凝視していると、ハリッシュは何かを察してにやっと笑う。
「さては坊ちゃま、ガーランド先生に一目会いたくて急いで帰ってきたんですか??いいすねぇ、若いすねぇ」
いや、そう言う貴方も見た感じ自分たちと同世代に見えるんですが。
あとは勝手にひとりで盛り上がらないで??
「ち、違う!そんなつもりで……、いや、まったくないとも言い切れない……」
「ほら、やっぱりじゃないすか」
「では、私は失礼させていただきます」
今日は気分的に疲れているし、つまらない茶番になんか付き合ってられない。
「待ってください、ナオミさん!」
「はい??なんですか」
「たしか、この後お仕事は入ってないですよね??」
「ええ。入ってませんが」
『早く帰って早く休みたいのよ』と返しかけて、ルードのかなり真剣な面持ちに口を噤む。
「一時間……、いえ、三十分でもかまいません。少しの時間だけ僕の仕事を手伝っていただけませんか」
まったく想定外の言葉に面食らい、返答に窮してしまった。
なので、閉ざした口を再び開くのに少々時間を要した。
「私じゃないと務まらないようなこと、なんですか??」
今度はルードが返答に詰まる番だったが、ナオミと違って彼の方が返答する時間は早かった。
「絶対……、というわけではないかもしれませんが、貴女だからこそお願いしたいと思っています」
褪めた雰囲気は変わらずながら、ルードの固く真摯な表情に下心……、もとい、誠意の度合いを推し量ってみる。たぶん、きっと、本心からナオミへの協力を仰いでいるのだろう。ルードの真剣さを汲んでか、ハリッシュもセイラも話の腰を折ってこない。
「わかりました。……少しだけ、ですよ。本当に少しでしたら」
「本当ですか??ありがとうございます」
頬を綻ばせるでもなく、表情は固いまま胸を撫でおろす辺りがとても彼らしい、気がする。
「それで、私は何をすれば??」
「まずは僕と一緒にコンサバトリーへ来てくれませんか。詳しい話はそちらで話しましょう」
(2)
正面玄関、ポーチを出て石畳を一分程歩くと左手に、白い骨組みの全面硝子張りの一室──、コンサバトリーがある。ガーランドの邸宅にも似た造りの建物、イヴリンの温室があるけれど、こちらの部屋には観葉植物以外の鉢植えは置かれていない。
くしゃみを我慢しなくてもいいことにホッとし、部屋の中心にある白い猫脚の三人掛けダイニングテーブルの一席へ、ルードに促されるまま腰を下ろす。
テーブルと同じく華奢な猫脚の椅子に、六フィート近いであろう長身のルードが座ってもだいじょうぶかしら、と余計な心配しつつ、向かいに座ったルードの説明に耳を傾ける。
「ナオミさんはチャヤという飲み物をご存じですか??」
「いえ。今初めて聞きました」
「でしょうね。僕も最近知ったばかりでして。
いくら自分が美味しく感じたからとはいえ、手放しで勧めにくいのだろう。
ダストティーはまともに飲むことができないくらい苦みが強い。レシピで味が変わるとしても本来は不味い粗悪品。粗悪品と知りながら勧めるのは充分失礼に当たる。人によっては怒り出しかねない。
だからだろう。自信家の彼にしては珍しく、説明中もルードはちらちらとナオミの様子を窺っていた。
当のナオミ本人は別段気分を害さなかったが、同時に他に試飲を依頼できる人はいなかったのかが気になった。それこそ失礼なので口が裂けても尋ねはしないけれど。
自分に近づく口実か、と疑いかけるもそれこそ失礼な発想だと打ち消す。
次に浮かんだ発想も相当失礼だが、実は正解に近い気がした。
ルードには身近に頼み事ができる友人がいないのかもしれない。
「お話は理解しました。私でよければ協力します」
「本当ですか?!ありがとうございます……!そうと決まれば、早速チャヤを用意しましょう」
「あぁ、Mr.デクスターJr.、待ってください!」
コンサバトリーと隣り合う厨房へ向き直り、腰を浮かせたルードを呼び止める。
「試飲の前に、チャヤが具体的にどんな紅茶……、紅茶、なんですよね……??あぁ、細かいことはさておき、チャヤはどのような紅茶で、レシピなのか簡単に教えてくれますか??」
ルードはあからさまにしまった、と顔を軽く歪めると、「僕としたことが説明が足りませんでした。すみません」と謝罪し、続けた。
「基本的な味は濃いミルクティーみたいなものです。粉末状のダストを水を沸騰させながら煮出すんです」
「え?!熱湯に蒸らすのではなく??」
「はい。数分掛けて茶葉を蒸らすより直接煮出した方が効率的だとか。煮出した紅茶にミルク、砂糖を加えてもう一度軽く煮出す。そうすると甘味とコクが濃くなるんです。地域によってはシナモンやクローブ、ジンジャーなんかをスパイスに加えるそうですよ」
「思っていたよりも飲みやすそうですね。スパイス入りなら寒い時期に身体が温まるかも」
「今回はスパイスなしを試飲してもらうつもりでしたが、ナオミさんがよければスパイス入れも試してみますか??」
「そうね。こう言うと語弊があるかもしれませんが……、少し興味があります」
「わかりました。じゃあ、両方用意しましょう」
立ち上がったルードは今度こそ隣の厨房へ消えていく。
なんだか浮足立っているように見えるが、ナオミもまた、口にしたことのない珍しい、けれど美味しい(らしい)飲み物を口にするのが楽しみだった。
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