第26話 幽霊の正体②

 二階から一階へ、更に地下へと続く階段を降りていく。

 地下には厨房の他、執事や家政婦長を始めとする使用人たちの部屋や使用人が食事等で集まるダイニングがある。


 寝酒が欲しいなら自室の呼び出しベルを使い、メイドに持ってこさせればいい。わざわざナオミ自ら厨房へ出向く必要なんてないが、使用人たちの就寝は遅く起床は早い。少ない睡眠時間を削らせてまで呼び出すのはどうにも気が引ける。

 しかし、ナオミが厨房に足を踏み入れるのもまた彼らの領分を侵すことになり、あまり良い顔はされない。なので使用人の誰にも気付かれないよう、抜き足差し足で地下階段をゆっくり降りていく。


 年季の入った木製の地下階段は気を抜くと大きく軋んだ音を立てそうになる。その度に心臓は跳ね上がり、次の段を下りかけた爪先は中途半端に宙で止まる。

 使用人たちを起こさないよう、些細な物音ひとつにも細心の注意を払うせいで段差を一段下るごとに変な緊張感が増していく。同時に、厨房に忍び込んではこっそり菓子をつまみ食いしていた幼少期を思い出し、わくわくと心が浮き立ってもいた。


 最後の段を下りると、どっと全身に汗が噴き出した。

 湿り気を帯びたキャンドルランプの持ち手に少し不快を感じながら、階段同様に古い木製の廊下を、階段以上に気を回しながら静かにゆっくり歩く。


 ナオミの背後、廊下の突き当りにあるダイニングがしんと静まり返っているので今夜は酒盛りはしてなさそう。

 起きている者はたぶんいない。ホッとする反面、ダイニングで騒いでくれていれば喧騒に紛れられるし、些細な物音を気にする度合いも多少は減るのに。

 なんて、勝手な思いに自分自身呆れつつ、ようやく厨房の扉の前に辿り着くと錆が目立つ扉に手を掛ける。


「何をしにいらっしゃったんですか」


 声量は控えめだが威圧感が籠った声に、心臓が口から飛び出すかと本気で思った。

 悲鳴はどうにか飲み込めたけれど、代わりに言葉がうまく出てこない。


「ナオミお嬢様ですよね??こんな時間に何の御用でしょうか??」

「…………」

「ここはお嬢様が来ていい場所ではありませんが??」


 返答に窮していると、背後に佇む家政婦長は容赦なく詰問を繰り返してくる。


「起こしてしまって、わ、悪かったわ」

「そんなことはどうでもいいです。厨房にいらした理由を教えてもらえませんか」

「今夜はどうも寝つきが悪くて……、寝酒が欲しかったのよ」

「呼び出しベルを使ってください。勝手に厨房に入られては困ります」


 ですよねー。


 家政婦長の言い分は最もだ。

 幼い頃なら「子供だから」でお目溢しされても、いい歳した大人の女性にされては気分を害すのは当然。使用人にだって矜持プライドがある。


「すぐにブランデーを用意します。お部屋へ戻ってくださいませ」


 振り返ったナオミに笑みのひとつも向けず、寝間着姿の家政婦長は淡々と告げた。

 上階よりも暗闇深い地下室、キャンドルランプの頼りない光が照らしだすのは白髪交じりのくすんだ栗毛、剣呑な目つき。歳を経た分だけ刻まれた皺が落とす陰影が表情をより険しく見せる。これは素直に従った方がいい。


「わ、わかったわ。じゃあ、寝酒を部屋に持ってきてちょうだい」

「かしこまりました」


 と言っても、家政婦長自身ではなく、婦長より下の家政メイドの誰かが叩き起こされ用意するんだけどね……。

 ナオミは出来るだけ身の回りのことは自分自身でやりたいし、下宿アパートではそうしている。しかし、実家ガーランド家だとそうはいかない。

 上位中流アッパー・ミドルの家の女性なら身の回りの世話はすべて使用人任せが常識。むしろ自分で身の回りのことをするのは恥ずかしいとすら考えられているから。なんて窮屈でくだらない。と、苛立ってみたところで旧態依然な家の体質を変えられはしない。今のナオミにできるのは、おとなしく部屋へ戻ること。


 元来た階段を上っていく。足音に気をつけるのは変わらずとも、今度は最低限の注意を払うだけ。些細な物音程度ならいちいち気にしなくてもいいし、行きよりも進みは速い。


 だが、一階の廊下から二階へ続く階段を上がる途中でナオミは足を止めた。正確には止めざるを得なくなった。

 階段から二階の廊下の一部が見えてきたとき、かすかに人の気配を感じ取ったからだ。


 最初は気のせいだと思い、二段ほど足を進めて踊り場まできた。そしてなにげなく気配を感じた方向へ視線を向けると──、ナオミの足は今度こそ完全に止まってしまった。


 二階の廊下から階段へと続く、ターニングレッグ式の柵越しからは確かに見えた。見えた瞬間、ナオミは思わず階段の柵の影に隠れ、キャンドルランプを足元へ置き光を目立たなくさせた。


 ただの見間違いではないのか??

 否、はゆっくりと、でも確実に廊下を渡り、階段を通り過ぎようとしている。

 誰かの趣味の悪い悪戯か??

 ならば階段を駆け上がって問い詰めるべきだろう。

 悪趣味な悪戯は不快極まりない。直ちにやめさせなければ──、なのに、身体が一向に動かない。


 乱れた長い黒髪のは、衣服も寝間着ではなく普通のドレス姿で二階の廊下を彷徨っていた。


 現在別荘に滞在する女性でナオミ以外に黒髪(もしくは黒に近しい髪色)は使用人含め一人もいない。あと遠目でちらと見ただけだが、あのドレスはバッスルではなくクリノリンタイプで流行から大分遅れている。今時クリノリンタイプを着用した日にはご婦人方の格好の嘲笑の的。下手したら正気を疑われかねない。でも、だからって──


 幽霊なんて馬鹿げてる。

 頭ではの存在を否定しているのに、急激に迫り上がった直感的な恐怖感に支配され、ナオミは情けなくも足が竦んでしまっていた。

 その間にも身動き一つ取れないナオミに気づきもせず(気づかれたくもないが)、は茫洋とした様子で階段を通り過ぎていく。


 自室に戻るに戻れなくなってしまった。

 廊下の奥へと消えていくの姿を成す術もなく見送りつつ、ナオミはひとり途方に暮れた。


 幽霊なんて信じたくもないし怖くないと思いたかったのに!


 が消えて行った方向を睨んでいると、視界が二階の廊下から天井へ突然入れ替わり──、「危ないっ」という呼びかけの直後、再び視界の位置が廊下へと戻った。


 わずか数秒の間に何事が起きた??

 訳が分からないなりに状況を掴もうとして、ナオミは控えめな悲鳴を上げてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る