第25話 幽霊の正体①
(1)
背筋に怖気が走り、思わずその場で硬直する。
「な、なに……、だ、誰なの……」
低い囁き声とすすり泣きの正体が(絶対認めたくはないが)幽霊にしろ人にしろ、薄気味悪いことには変わりなし。自室に引き返すのが一番賢明だろう。
そう思う一方、噂の真相を確かめる良い機会だとナオミの好奇心及びお転婆心に火がついた。恐怖は完全に払拭できないが、恐怖心よりそれらの感情の方がはるかに上回った。
断続的に聴こえてくる声に冷静に耳を傾けてみる。
内容までは聴き取れないが、二人分の声の内一つは明らかに男性の声。噂の幽霊は女性なので、もう一つのすすり泣く声の方か……??と、少し緊張しながら耳を澄ましてみる。
「うーん……」
キャンドルランプを持つ左手はそのままに、右手を耳に当て、更によく耳を澄ます。すすり泣く声は聴けば聴くほど随分と幼く、到底大人の女性の声とは言い難い。
うん、間違いなく幽霊なんかじゃない。
ナオミの恐怖心は完全に払拭され、同時に新たな疑念が擡げてきた。
なぜ、こんな真夜中過ぎに大人の男性が幼い子供と一緒にいるんだろう??
ぐずる子供をあやすのは本来、
先進的な価値観を持つ今時の若い父親なら有り得るかもしれないが、少なくとも今回招待した既婚且つ幼い子持ちの紳士たち(の世代)を鑑みるに、夜泣きする我が子を率先してあやす者はまずいない気がする。と、なると──、考えるだに悍ましい想像がナオミの脳裏を過ぎるも、余りの悍ましさに全否定も兼ねて激しく頭を振った。
なのに、悪い想像は否定すればするほど脳裏にしがみついてくる。
年端もいかない子供に大人が……、なんて絶対にあってはならないのに。
残念ながらナオミが過去に受け持った生徒の中にも被害者がいた。
ただの雇われ女家庭教師では下手に動けず、せいぜい話を聴くくらいしかできなかったのがどんなに歯痒かったことか。でも今のナオミなら堂々と糾弾できる立場にある。
キャンドルランプの持ち手をきつく握り直すと、ナオミは声の方向へ足早に向かっていく。向かっていく途中で声は南の角部屋の影から聴こえると知ると、歩みが更に速まった。夜中でなければ思いっきり走っていただろう。
近づけば近づくほど泣き声は悲痛さを増し、ナオミは今にも頭が沸騰しそうだった。エヴニゼルやイヴリンが何と言おうと絶対に警察へ突き出してやる、と息巻き、遂に目的の角部屋の影へと駆け込む。
「こんな真夜中に一体何をなさってるの?!」
駆け込むと同時に大柄な背中に向かって怒鳴りつける。
しかし、彼が振り向いた瞬間、一瞬前までの勢いが嘘のように消えてなくなった。
「何を、と、言われても……」
「…………」
夜闇と同化し黒にしか見えない濃緑の瞳が、困惑を一切隠さずナオミを見下ろしてくる。その腕に抱かれる、彼と対照的な金髪碧眼を持つ幼女も「せんせぇ??」と、泣き腫らした目をぱちくりさせていた。
(2)
「セイラが家に帰りたいとぐずり泣きを始めたので、落ち着かせようと思いまして。普段は父があやすのですが、疲れて寝入ってしまってたので僕が代わりに……、すみません、うるさかったでしょうか??」
抱きかかえたセイラを揺らしながら、寝間着にガウンを羽織ったルードは申し訳なさそうにナオミに問う。やけに手慣れた様子に普段から義妹をあやすことが多いのが窺えた。
彼は『先進的な価値観』世代だし、デクスター家は家族や家族に近しい女手がいない。幼い子供の世話への抵抗も少ない、かもしれない。
頭が冷えてくるにつれ、ナオミはとてつもない羞恥の念に駆られていく。
事情も知らずにいきなりルードを怒鳴ってしまったこともだが、特定の人物でなくとも客人たちへあらぬ疑い(と呼ぶには最低過ぎる)を抱いてしまった。
二重の羞恥に、今すぐ雪のように溶けて消えてしまいたいくらいだ。
「いえ、うるさくは、ない、です……」
「本当に??さっき飛び込んできた時のナオミさんの顔、物凄く怒っていましたよ??」
ああぁぁ!改めて声に出して言わないで!!
鏡を見なくとも、顔以外の、服に隠されていない部分すべてが真っ赤っかに染まっているに違いない。
「あぁ……、えっと、うん、そうですね……」
「たぶん、さっきの貴女の様子でセイラもぐずるどころじゃなくなりましたし、あとは部屋で……」
「いえ、いいんです。気にしないで。好きなだけここでセイラさんをあやしててください」
「いえ、これ以上貴女を怒らせたくはありませんし」
『怒らせたくない』と言ったルードの声音が必要以上に優しい気がした。却って気遣われているのが余計羞恥心を煽る。
「えっと、もう怒ってません。怒ってませんから……、本当に気にしないで。それよりもいきなり現れた上に怒鳴ったりして大変申し訳ありませんでした」
「いえ、そこは全然気にしてないのですが」
気にしてないんかい。鋼
なんて、思ったのもほんの一瞬。
申し訳なさのが圧勝しているので、やはりルードの顔が見れない。
「怒ってないなら顔を上げてください。なぜ目を逸らすんですか」
「は……、恥ずかしいからに決まってるでしょう?!そこはあえて突っ込まないで
叫んだ瞬間、またやってしまった!と後悔した。
これはこれで変な誤解を生みそうだと。
「あぁ、恥ずかしいと言うのはね、貴方と目が合うことがじゃなくて!自分がした盛大過ぎる勘違いが恥ずかしくて目が合わせられないってだけですからね!勘違いしないでくださいね!」
「ナオミさん。声を落としてください」
「せんせぇ、シーッ!」
益々困惑するルードと、無邪気に唇に指を当てるセイラ双方から窘められ、慌てて口を噤む。ルードは軽く眉を顰めると(呆れというよりやはり困って)、諭すような口調でナオミに語りかけた。
「貴女がどのような勘違いをしたのか大変気になりますが……、あえて訊かないでおきますね」
「そうしていただけると助かります……」
「その勘違いのお陰で無防備な姿が見れましたし」
ルードの大人の対応に心底ホッとし、ようやく彼の顔をまともに見れたのも束の間。
目が合うのを見計らったように、長い髪を下ろし、素顔のナオミに意地悪く微笑んできた。こ、こいつ……!
「じ、女性のそのような姿、まじまじと眺めるなんて紳士にあるまじき行為だわ!最低!」
キャンドルランプを落とさないよう、両腕で我が身を庇い、ルードから数歩分後ずさる。油断も隙もないったら!
「せんせぇ、おっきな声はだめだよぉー」
「うっ……」
ルードならともかく可愛い教え子に言われては反発もできず。
当のセイラはくしくしと目をこすり、あふ……、と小さくあくびした。
「セイラもだいぶ眠たくなってきたみたいですし、そろそろ部屋へ連れて帰ります」
「え、えぇ……」
大きな目が半分閉じそうなセイラを落とさないよう抱え直すと、ルードはナオミに背を向けた。一歩、二歩……、遠ざかりつつある背中を見送りつつ、ナオミはなぜかそわそわと気持ちが落ち着かない。
非礼を重ねたのに、怒りも呆れもしない。ナオミをからかったのも、罪悪感を和らげようとしてくれた、のかも……。でも、その大人の対応が却って居心地悪くて堪らない。
「Mr.デクスターJr.」
二人の距離が客室の扉二つ分ほど開いてしまったところで、ナオミはルードを呼び止めた。驚いた顔で振り返ったルードに、少し言いにくそうにしながらナオミは告げる。
「その、色々と失礼を働いてしまったお詫び、と言っては何ですけど……、寝酒を一杯どうですか??実はなかなか寝つけなくて厨房へ行く途中だったんです」
ルードは「えっ……」と小さくつぶやくと、徐に変な顔をして黙ってしまった。
あれ??と首を傾げていると、眉間を揉み解し、天井を仰ぐ始末。いったい何なの。
「ナオミさん」
「はい??」
ようやく沈黙が終わったかと思えば、ルードは再び困惑した顔でナオミに向き合った。そして、至極真面目な顔と口調で耳を疑う言葉を言い放った。
「貴女のことなので絶対有り得ないと思いますが、……誘ってま」
「訳ないでしょ!馬鹿ッ!!」
そういうところがすべてを台無しにするんだから!
すっかり怒り心頭になりながら、ナオミは
※時代的に男性の育児参加は珍しいという設定になっています。
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