第18話 私は信じない

(1)


 はじめは右目、次いで左目を慎重に慎重を重ね、おそるおそるゆっくりと開けていく。顔を庇っていた腕も同様に。

 ナオミの上に人一人分影が差しているような、実際、ナオミの上には大柄な人影が──、慌てて伏せていた顔を上げる。


 試合を放棄するなんて有り得ない。

 ピッチから待機席までの距離、駆けつけられる俊足も有り得ない。

 野球の硬球以上に硬い球をまともに受け止めようとしたのも有り得ない。


 たった今発生した事故にコートの内外問わず、状況を飲み込めず、しんと静まり返った。


 球は、ナオミと球の間に立ち塞がったルードの頭や顔には当たっていない。が、ホッとしたのも一瞬のこと。球は、咄嗟に頭を庇った腕に直撃していた。


 ルードの整った眉目が歪む。苦悶の息が小さく漏れ、わずかに一歩あとずさる。

 とっくに落ちた球がコートを軽快に転がっていくのに、彼は固まったまま腕を下ろそうとしない。


 まさか……、痛みで腕を下ろせない、とかじゃないでしょうね?!


「貴方……、何考えてるの!?信じられないっ!!」


 自分の髪や衣服についた土埃も汚れも無視し、身を起こすなり、声を荒げる。これが怒鳴らずにいられようか!


「こんな硬い球が頭にでも当たっていたらどうするの!打ったのは右腕??」


 有無を言わさぬ勢いでナオミはひったくるようにルードの右腕を取り、ポロシャツの袖を肘まで一気にまくり上げる。


「あぁ!もう腫れてるじゃない!利き腕なんでしょ??本当に馬鹿ねぇ!」

「ば、馬鹿……?!」

「余計なお節介して、しなくていい怪我するからよ!ほら、こっちへ来て!!」

「え、ちょっと……」

審判お父様!怪我人出たので試合は一時中断してもらえませんか?!」


 ナオミの激しい剣幕にこの場のほぼ全員が、ルードでさえ呆然とする中、エブニゼルも例に漏れず、ナ、ナオミ?!と戸惑い、狼狽えた。が、今はそれどころじゃない。

 ナオミはルードの怪我していない左腕をきつく引っ掴み、コートの出口へと強引に引っ張っていく。


「これしきの腫れぐらい適当に冷やせば……」

「うるっさいっっ!つべこべ言わない!黙って私について別荘まで来なさい!!」


 左腕をぐいぐい引っ張りながら、振り返り、ビシッ!と指を突きつける。

 とどめに睨みつけると、呆れたか観念したかでルードはおとなしく口を噤んだ。

 ルードが大人しくなったのをいいことに、ナオミは屋敷の方へと彼を引っ張っていった。






(2)


 コートから庭園へ続く通路を抜け、建物玄関へ急ぐ。

 扉が開くなり玄関ホールへ飛び込み、正面奥の広いダイニングルーム……、ではなく、普段は使われていない休憩室の扉を開ける。


 マホガニー製のローテーブルを、臙脂色の布地に金糸の花柄模様の四人掛け長椅子一脚、同じ意匠の二人掛けの長椅子二脚、一人掛けが三脚ぐるりと囲み、柱時計がカチカチ、室内の静寂をかすかに乱す。真夏なのに濃い深紅の絨毯が暑苦しい。

 出窓のカーテンを開け、開き戸を開ける。少しは涼しくなるだろう。


 四人掛けの長椅子にルードを座らせ、呼び出した家政メイドに湿布と包帯を用意さる。ナオミはそれらを受け取ると、間隔を空けつつ、当然のようにルードの隣に座った。


 メイドに手当を任せるとでも思っていたらしく(普通は任せるものだし)、ルードは大袈裟に目を剥く。


「お気持ちは大変ありがたく思いますが、貴女のする仕事では」

「庇っていただいた借りを返しているだけです。特に殿方からの借りはさっさと返したい質ですから。他意は一切ありません」

「貴女に他意はなくとも皆さんはそう思わないかもしれませんよ。手当てのためとはいえ、若い男女が一定時間二人きりになるのですから」

「そこにメアリー湿布を用意したメイドが控えているし、人目があるのに女性に働くほど貴方は愚かじゃないでしょう??それでも邪推したい人は放っておけばいい……、はい!終わりましたわ」

「え、もうですか?!」


 再び、ルードは黒に近い暗緑色の目を剥き、ナオミが巻いた右腕の包帯をまじまじと見つめた。


「自慢じゃないけど……、怪我の手当は得意なんです。外遊びが好きな子供でしたから、怪我もしょっちゅうでしたし」

「今もお転婆なんですね」

??」


 また『姫』の話が始まりそうだ。

 ルードに背を向け、そそくさと腰を上げる。


「もう戻りましょう。皆さんが待っています」


 背を向けたまま、ルードの数歩先を行く。追いつかれると思いきや、ルードもなぜかナオミと一定距離を保って彼女の後を行く。建物から庭園に出てもその状態は変わらない。


 並んで歩くのが嫌で先を行った筈なのに。微妙な距離感がだんだんもどかしくなってきた。

 気配はたしかに感じるのでちゃんと後をついてきている。だから、別に振り返って確認する必要なんてない。不安を感じる意味もわからない。


 大体彼と話したところで何になるの。無駄にイライラさせられるだけじゃない。

 会話すればする程、無駄に気力を消耗するだけ。コートに戻るまで一言も喋らなくたって──


「Mr.デクスターJr.、貴方に申し上げたいことが二点あります」


 そう思った矢先に、振り返って喋りかける私は馬鹿なの??

 自縄自縛したいの??


 二人が立ち止まった庭を埋め尽くすバラが、風で優雅に花びらを泳がせる。

 見た目だけは美しい淑女たちに笑われたようで、自然と唇を引き結ぶ。


「まず一点目。コートに戻ったらダフネさんに謝罪してください」

「なぜですか??」


『勉強でわからないところがわからない』と問う教え子みたいな顔で言われましても。

 出来が悪ければ分かるようになるまで徹底的に教えればいい。だが、ルードは教え子でも子供でもない。自立した立派な成人男性だ。


「なぜって……、呆れた人!貴方、彼女がクリケットが苦手だと見抜いた上で、集中的に彼女の守備位置へ打ち返していたでしょ!紳士にあるまじき行為、あれはクリケットなんかじゃない!It's not cricket!

「貴女の言う通り、あれは少々やり過ぎたかもしれません」

「言葉の選択間違ってますわよ??『少々』ではなく『かなり』、『かもしれない』じゃなくて『ました』と答えるべきだと思いますけど!」

「ははは、さすがはガーランド先生ですね。手厳しい」

「笑いごとじゃないでしょう?!」


 本気で張り倒していいかしら。

 駄目よ、駄目。一応怪我人だものね……!


「ダフネ嬢がクリケットが苦手というのはどこでお知りに??」

「休憩中にご本人から直接聴きましたわ」


 ルードは軽く眉を寄せ、ふむ、と小首を傾げた。


「おかしいですね??彼女はインダスの外国人居留地育ちで、かつてインダス国内のアマチュア女子クリケットチームで活躍されていた方ですが??」

「え??」

「レッドグレイヴ夫人からは何も聞いていませんか??」

「え、えぇ……」


 まさか、あの夫人が自分に隠していた、とか……。

 否、夫人に限っては絶対ない!ないと信じたい!!


「夫人が嘘や隠し事をする方だとは僕も思っていません。きっと本当にご存じなかったのでしょう」


 ナオミの胸に去来した不安を察したのか、ルードがすかさず夫人を擁護した。

 おかげで不安は拭えたが、新たな疑問が湧いてくる。


「じゃあ、なぜ貴方はご存じなんですか?!」

「僕は仕事の関係でこの国とインダスをしょっちゅう行き来しますし、あちらに一定期間滞在するときもあります。居留地在住の方たちと交流深めても何らおかしくないですよね??」

「交流していた方たちの中に、ダフネさんがいらしたって訳ですか」

「ええ、仰る通りです」


 それでに発展したのか、と邪推しかけて──、やめる。

 ダフネとルードの過去の関係なんてどうだっていいじゃない。私には関係ない。


「ただ……」

「ただ??」

「出会った当時……、三、四年前と今とでダフネ嬢の印象が180度変わりましたね」

「例えば??」


 どうだっていいと思う癖に、私はなぜ詳しく訊こうとするのか?!


「なんというか……、もっと元気で溌溂としていたといいますか……、そうですね、貴女に負けず劣らず跳ねっ返りな……」

「喧嘩売ってます??」

「僕は大人しい女性より跳ねっ返りな女性の方が好きですから」

「あの金髪の姫みたいな??」


 口走った瞬間、即後悔した。

 私の馬鹿!自ら墓穴掘ってどうするの!!


 ほら、褪めた体から喜色を隠しきれない感じに一瞬で早変わりしてしまった。

 憂いを帯びた目が異様に煌めき始めている……。


「試合中の発言からもしや、と思いましたが、貴女も夢を」

「えぇ、物凄く信じ難いことに!貴方と出会ってから二回ほど、金髪の姫と騎士の夢を見てしまったわ!!」

「では」

「勘違いしないで」


 前のめりに近づいてきたルードの鼻先に指を突きつけ、牽制する。


「えっと、これは二点目!貴方自身の仰る前世とかいうモノを、私は否定する気はないですけど、私自身が信じるかは別の話。私は私。他の誰かの姿を勝手に重ねられるのは非常に不愉快です。あぁ、それから、一点目の補足!ダフネさんがどうであろうと貴方の態度が大人げなかったのは事実。どうしてあんな真似をしたんですか??」


 喜色を浮かべていたのが一転、ルードの表情が見る見るうちに凍てついていく。

 余りの豹変ぶりに少し気圧されたが、更に指をずいっと突きつけ、問い質す。


「説明できないんですか??」

「…………」


 ルードの少し厚めの唇は頑なに開きそうにない。

 しつこくすればする程、この唇の固さと重みは増す一方だろう。


「とにかく!ちゃんと謝ってください。いいですね??」


 本日二度目、ナオミはルードに背を向ける。

 今度はくるり、全身で勢いよく。壊れる寸前まで早回しした、バレリーナのオルゴール人形のようだった。

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