第15話 淑女対紳士
その後、レッドグレイヴ夫人は二球目以降も立て続けに
チーム・デクスター側も好球続きの夫人に対抗すべく、三番以降は男性打者(クインシーの友人たち)を起用。辛うじて四番打者が球を打ち返したけれど、対岸の
試合序盤、チーム・ガーランドが優勢か??
ところが、最後の六球目(投手は一回につき六球投げられる)の投球になって事態に変化が訪れることに。
五番打者がピッチを去り、夫人の隣に立っていた走者が六番目の打者として交代する。クリースに立ち、平たい木剣のような形のバットを二、三度素振りする六番打者に対し、ナオミは緊張し、余裕げだった夫人も表情をさっと引き締める。
「さぁ、レディ・ルシンダ。私の準備は整っています。いつでも投げてくださってかまいません」
「…………」
レッドグレイヴ夫人の眉目や口元が引き攣るも、すぐに一段と柔らかい笑みを唇に浮かべた。機嫌が傾いたのは遠目ながらナオミにはよく伝わってきた。
そりゃあね、ほぼ初対面でろくに話したことない相手から馴れ馴れしく
「私のことはレッドグレイヴ夫人とお呼びくださいませ。Mr.デクスター」
「これは失礼!Missガールがお名前で呼んでいらっしゃったし、夫人と呼ぶには余りに美しく若々しい方ですからつい」
「えぇ、大丈夫ですわ。私、ちっとも気にしませんから」
夫人の笑みがより深まったが、ナオミは知っている。
この笑顔は内心の怒りを押し隠すためだと。
「うふふ。では、早速投げさせてもらいますね」
助走をつけ、腕を大きく伸ばす。(肘を曲げての投球は違反になる)
回転がつくよう調整しつつ、これまでとは打って変わり、夫人は低くゆるやかな球を投げる。
長身男性のクインシーだからこそ、あえて足元を狙った低く打ちづらい球を。打ったとしても長打になりにくい球を。
弱々しくワンバウンドさせた(投球はワンバウンドさせなければいけない)球は絶妙な低速度を保ち、狙い通り、クインシーの足元へ──
「え」
クインシーには打ちづらい低い球であったのに。彼は大きくスイングさせたバットを、地面につくかつかないか絶妙な位置まで振り下げ──、を強く高く打ち返した。
打ち返されることまでは想定内だった。ただ、打ち返された球が高く遠くへ飛んでいくのは予想外だった。
ナオミの
「走って走って!!!!」
自分は間に合わないと分かりつつ球の行方を追い、コートを走り、叫ぶ。
このままじゃ球はノーバウンドでコートの
ピッチ内で
互いが対岸の
放物線を描いていた球が落ちていく。予想通り外枠を超えてしまった。
「うわっ!」
しかし、この長打の球が加点されることはなかった。
体勢を崩し、転びそうになりながらもパーシヴァルがこの球を果敢にも捕ったからだ。
投げるより早いし確実と判断したのか。パーシヴァルは球を握ったまま、ウィケットに向かって走り出した。早く速く!! ……間一髪、間に合った!!
「あぁ、残念だ。やはり歳には勝てないですねぇ。あと二十年若ければもっと速く走れたのですが」
「ご謙遜を。Mr.デクスターは充分お若くていらっしゃいます」
「またまた。肉体年齢が最高潮の若者には負けます」
ピッチから去っていくクインシーの背中は、悔しさを滲ませた言葉と裏腹に潔いほど真っ直ぐ伸びていた。
成程。顔や物腰の他に、背中で美しさを物語れるのも彼の魅力なのだろう。
「おとーさま、かっこよかったわ!!」
「うんうん、そうか!お父様はセイラに褒められるのが一番嬉しいなぁ」
交代で外野に入った夫人が通り過ぎざま、ナオミにだけ聴こえるよう、ぽそり、つぶやく。
「気障ったらしい笑顔より、優しい父親の顔の方が余程素敵に見えるのに」
「……同感。あぁ、そんなことよりお疲れさまでした」
「えぇ、とっても楽しかったわ。誰の目も憚らず、またこんな風に伸び伸びと身体を動かせるなんて幸せねぇ」
最後の投球で点を取られたにも拘わらず、レッドグレイヴ夫人はたのしげで、鼻歌でも歌い出しそうだ。パーシヴァルが聞いたら、『不謹慎なっ』と嫌な顔をしかねない。だが、ナオミは夫人の言葉の意味が理解できる。
親の都合によって、夫人は十代半ばの若さで二回り以上年上の男性と強引に結婚させられた。おまけにその男性の価値観は保守的且つ病的に支配的で、必要最低限の社交以外での外出は一切禁止。夫人の言動行動を逐一使用人に監視させ、少しでも気に入らない点があれば、数時間かけてねちねちと責め立てる。当然スポーツなどやるどころか観戦すら許されなかった。
ところが、不動産王で名を馳せていた夫人の夫は仕事上では完璧な人格者に擬態。
周囲に話したとして誰も信じないだろうと、夫が死ぬまでの約六年間夫人は黙って耐え忍んだという。
『あの人との結婚生活は生き地獄でした』
『未亡人になってようやく、私は両親からも夫からも解放されて初めて自由になりました』
女にとって結婚なんか墓場でしかない。
実母が自分より学業を、母国への帰国を選んだのは正しい選択だと思う。
イヴリン辺りは(もしかしたら父も)ナオミが実母を恨んでいると勘違いしているが、実際はまったく恨んでいない。顔も知らない、一切の記憶がない相手など恨みようなどないのに。
実母は情より己の利を優先したかったのだろう。別に悪いことじゃない。
一点だけ気に入らないとすれば、一時の情に流されて子を成してしまったこと。
かの東の島国はこの国以上に女性の地位が低いと聞く。留学を許されるだけの優秀さがありながら、なぜ??理解できないし、したくもないけれど──
「ナオミさん」
近い場所に立った夫人に呼びかけられ、ハッと現実に引き戻される。
いけない、いけない。投手打者交代の時間中だとしても気を抜いては。しかも三分に満たないごく短い時間なのに。
「今度はある意味因縁の対決になりますわね」
レッドグレイヴ夫人が水を向けた先には、二番投手パーシヴァル、七番打者ルードがピッチで対峙していた。
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