二章

第10話 油断も隙もない

(1)


 イヴリンによる実家への呼び出し、レッドグレイヴ夫人との『対ルードラ・デクスター作戦会議』、そののちの二度ほどの実家訪問を経て、数日後。

 ナオミは平素と変わらぬ様子でデクスター家に訪問していた。


 この屋敷に足を運ぶのは仕事のためであり、普段通りなのは当たり前のこと。ただし幼い子供相手だと、時に思わぬ出来事で授業が滞る場合がある。(落木事故の日がまさにいい例)

 落木事故以来セイラは心を入れ替え、脱走などせず真面目におとなしく授業を受けていた。


 わからないことがあればすぐに質問する。

 間違いの原因を納得できるまで探る。正しい答えへの理解を深める。

 幼いなりに勉強の大切さに気付き始めている。そう思い始めた矢先だった。




「『お水を一杯いただけますか』……、違います。aとeが逆さま。『くださいplease』はこう……」


 背中から覆い被さる形でセイラの右手を取り、一緒にノートへ綴りを書き取ってみる。


「こ、こーう??」

「惜しいけど違います。もう一度。aは……」


 再びセイラの手を取り、繰り返しノートへ書き取る。

 セイラはまだ飲み込みきれず、遂にはうんうん唸りだした。


 同じ年頃の生徒と比べ、セイラの学力は格段に遅れている。最も足る要因はほんの一年近く前まで識字が一切できなかったこと。読みはまだいいが、特に書き取りが苦手で単語の綴りスペルどころか文字の形すら怪しいときもある。


 基礎の国語力が培われていなければ、基本教科の進捗も推して測るべし。本人のやる気にも波があり、そのやる気をいかに保つかが中々に難しい。


「もういやっ!お勉強なんて大っきらいっっ!!全然たのしくないもん!!」


 セイラはナオミの手を振り払い、握っていたペンを、ノートを床へ投げ払った。

 弾みでペン立てが倒れ、ひっくり返りそうになったインク瓶を慌てて押さえて蓋を締める。インクは幸い天板にこぼれるには至らなかったが、ナオミの手の甲や指に点々と黒い染みが飛ぶ。


 あぁ!もう!

 苛立つ一方、激しい癇癪起こすほどにセイラは鬱憤を溜め込んでいたのか。

 もっと早くに察してあげられればよかった。


「お勉強しなきゃいけないんだったら、セイラ、救貧院に戻りたいっっ。おなかいっぱいごはんが食べられるって言われたからここに来ただけだもん!!」

「セイラさん!しっ……!」


 慌てて周辺を見回すナオミに、セイラも慌て自分の口を塞ぐ。


「き、聞こえてないかな……」

「たぶん、よろしいかと」

「よ、よかったぁ……」

「いいえ、ちっともよくありませんわ」


 授業中よりも厳しさを増したナオミの声と顔つきに、セイラは石のように固まった。


「セイラさん。救貧院に戻りたいだなんて二度と言ってはなりません。お父様クインシーお兄様ルードに失礼です。そんなことをセイラさんがおっしゃったと知れば、お二人とも非常にがっかりされますよ??」

「うっ……、ご、ごめんなさい……」

「さっきの言葉、取り消しますね??」


 こくり、頷くセイラにホッと一安心。かと思いきや。


「でも、でもぉ……、今日はもうお勉強したくないぃぃ……、遊びたいぃぃ……うわぁあああん!!」


 出た。泣き落とし。

 子供の癇癪や泣き落としにはもう慣れっこだし、嘘泣きと本気泣きの違いも分かる。

 今日のセイラは後者、本気泣きだから質が悪い。


 一刻も早く宥めるべきだが、今から宥めて授業再開したとて時間はほとんど残っていない。自習か他の勉強に切り替えるか。一応授業の三分の二以上の時間は経っている。


「セイラさん、国語の授業は終わりにしましょう」

「えっ」

「その代わり、残りの時間は音楽室で私にピアノを聴かせてもらえますか??」


 ナオミはペンとノートを拾い上げ、こぼれたインクの跡を自分のハンカチで拭き取る。テキパキと荒れた机上を手早く片付けていくナオミに対し、セイラは所在なさげに座ったまま動かない。


「ざっとですけど片付けましたし、今から音楽室に行きましょう」


 勉強道具を机上の端にひとまとめにすると、ナオミはセイラに手を差し出した。セイラは迷っていたが、やがて差し出された掌を遠慮がちにつかんだ。

 しかし、遠慮がちだったのは最初だけ。音楽が大好きなセイラは自ら率先して音楽室へナオミを引っ張っていった。






(2)


「ねー!せんせー、聴いてるー??」

「えぇ、聴いてますよ。この間より上達しましたわね」

「えへへー、わかるわかるー??」


 一室の半分以上をグランドピアノ一台が占める音楽室。

 ナオミは部屋の隅で椅子に座り、少し前に習ったというバイエルを得意げに披露するセイラに返事しながら、今日のセイラの様子をクインシーにどう伝えようかと頭を悩ませていた。


 デクスター商会の会長を名乗っているが、クインシーはほぼ引退状態。実務はルードに完全に任せている。そのため、昼間はこの屋敷に在宅していることも多く、今日も例に漏れなかった。


 授業が終わると、セバスチャンと呼ばれる、名前こそこの国風だが肌の浅黒い執事(おそらく彼もインダス人かインダスの血を引いている)に、クインシーに話があると声を掛けた。


 女家庭教師は非常に微妙な立場で、身分こそレディと見なされるものの職種柄各家の使用人と立場は同等。派遣先の使用人にあからさまに冷たくされることもままあるのに、デクスター家の使用人は総じてナオミに親切だ。

 セバスチャンもまた嫌な顔一つせず、ナオミをクインシーの下──、彼曰く『趣味部屋』と呼ばれる一室まで快く案内してくれた。


「失礼します。旦那様。Miss.ガーランドが旦那様にお話があるそうです」


 入室許可の声ののち、扉が開く。


 扉正面の大窓には暗幕がかかり、昼日中と言えどその部屋は薄暗かった。

 十二帖ほどの広さの室内、三方の壁に沿って黒大理石の棚が取り付けられ、床には紫檀と硝子で出来た長方形のケースが並んでいる。

 一瞬博物館かと見紛う部屋の様相。最もたる要因は──、棚とケースに並ぶ大小さまざまな鉱石の原石だ。

 その鉱物に囲まれた部屋の中心、老眼鏡をはめたクインシーは掌で鉱石を転がし、何やら見分しているようだった。


「Missガール。貴女の方からわざわざお越しくださるなんて。とても嬉しいですね」


 クインシーは振り返りざま老眼鏡を外し、とろけるような笑顔を向けてきた。

 旦那様……、と呆れ顔で小さく窘めるセバスチャンの横で、ナオミもわざと咳払いをしてみせる。いちいち色目を使わないでいただきたいですね!


「実は本日の授業について報告がありまして……」


 正直に、叱責覚悟でセイラの件を報告すると、見る見るうちにクインシーの笑顔が消えていく。


「それは……、大変申し訳ないことをした。私からも謝罪します。セイラにもよく言い聞かせておきましょう……」

「いえ!とんでもありません。それよりも……、私はセイラさんが鬱憤を溜め込む方が気になりました」

「たしかに……。だいぶの環境に慣れてきたと思ったのですが」


 実はセイラはクインシーの血を分けた娘ではない。

 数か月前、とある没落した家の令嬢がセイラを自分とクインシーとの子だと主張、彼の妻の座、もしくは多額の慰謝料目当てに騒ぎを起こした。

 しかし、クインシーは国で一番有名な探偵に事実を調査依頼、セイラは救貧院にいた孤児だと判明。令嬢の目論見が破綻したと同時に、セイラの行き場もなくなり、結果クインシーが養子縁組して引き取ったのだ。


『引き取った以上、セイラは立派なレディに育てたい』とクインシーは常々語っていた。ナオミもまた彼の意思に全面的に賛同している。

 だが、当の本人に必要以上の重圧をかけていないか、今更ながら心配にもなってきた。


「Missガール。もしも、また今日と同じようにセイラの癇癪が爆発した時は自主学習に切り替えるなり、別の教科で気を逸らすなどしていただけませんか??」

「えぇ、わかりましたわ」


 頭を深々と下げ、差し出された大きな掌につられ、ナオミも自らのを差し出す。

 握手の直後、クインシーはナオミの手を口元へ引き寄せ──


「旦那様」


 セバスチャンのやけに冷たい響きを持つ制止のおかげで未遂に終わった。油断も隙もない!外見はともかく、中身は息子とそっくりだ。こちらの方が年季が入っている分厄介だ。

 虚無顔でさりげなく素早く手を引き、扉の側に立つセバスチャンを振り返る。彼もナオミと似たような虚無顔だった。


「失礼。少々戯れが過ぎました」

「……いえ」

「ところで話は変わりますが、ルードのことで……」


 唐突に話題が変わり過ぎだし、その話題がについてか……。


 うんざりしつつも、レッドグレイヴ夫人と立てた計画開始するにはちょうどいい機会でもあった。

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