第6話 一寸先にもたらされるのは

(1)


 ナオミの言う通り、あの日以降デクスター家へ何度か訪問しても、ルードと顔を合わせることは一度もなかった。

 クインシーとは一、二度顔を合わせたが、挨拶程度の会話を交わしただけ。セイラに至っては勉強に一生懸命で(彼女なりに深く反省したようだ)それどころではない感じだった。不穏な夢もあの日以来一度も見ていない。


 所詮は独身紳士の気まぐれ。間違いない。

 なんて、結論づけかけていた矢先の話だった。








 落木事故から数週間後の午後──





「では今日はここまで」

「ありがとうございました」


 ナオミが本を閉じると生徒はわざわざ席を立ち、スカートの裾を持ち上げ腰を落とす。アッシュブロンドと薄灰の瞳が美しい、華奢で小柄な少女は極めて優秀且つ生真面目な生徒である。身体があまり強くないとのことで学校に行けないのが心底惜しい。由緒ある教育機関で学べば、もっと高い能力を発揮できるだろうに。


 とは思うものの、ナオミが口を出す筋合いなどない。非常にもったいないとは思うけれど。


「グレッチェン、授業は終わっただろう??お茶でもしよう。今日は焼き立てのアップルパイだよ」


 見計らったように、扉を隔てた廊下から家人が呼びかけてきた。家人の声とアップルパイという単語を聞いた途端、少女の固かった表情がゆるゆる綻んでいく。

 授業中の真剣そのものな、授業前後のいやに緊張に満ちた顔とはまるで違う。


 なんだ、年相応の愛らしい顔もするのね。

 綺麗だけどよく言えば理知的、悪く言えば怜悧な顔立ちの少女の初めて見る表情にひそかに感嘆する。


「ガーランド先生。貴女もいかがですか??」


 少女と共に退室すると、廊下で待っていた家人の青年紳士が爽やかな笑顔で誘いかけてきた。

 己が魅力ある男だと自覚しきった微笑みにナオミはさりげなく後ずさる。なぜクインシーといい、彼といい、自分の雇用主は女たらし、もとい、やたら女性慣れした男性が多いのか。


「いえ、遠慮しますわ。この後もまだ仕事が残っていますので」

「それは残念。またの機会にでも」


 クインシーと違い、こちらの雇用主はしつこさがない。単なる社交辞令だろうと思えるだけ幾分マシかもしれない。


 家人の青年紳士と少女に別れの挨拶を告げ、玄関ポーチへ出る。

 すると、「ガーランド様、レッドグレイヴ様からお電話です」と使用人の女性に呼び止められた。


「ルシンダさんから??どうしたのかしら」


 訝しく思いながら、使用人に案内され居間へ。お茶の最中失礼します、と、テーブルを囲む少女と青年紳士に断りを入れ、受話器を取る。


「ルシンダさん、どうなさったの」

『ナオミさん』


 レッドグレイヴ夫人の声音は少し切迫気味だった。

 不審に思いつつも、受話器越しに話が進むにつれ、ナオミはその場で頭を抱えたくなった。夫人が焦る気持ちも十二分に理解できる。


「……承知はしたけど、まだ一件仕事が残ってるの。夕方六時以降にしか立ち寄れないって伝えてもらえます??お願いします」


 まだ通話途中だったが、かまわず受話器を置く。あぁ、気が重い。


「先生、どうされたのです??」


 電話機の台から少し離れたテーブル席で、教え子の少女が唇の端にパイの欠片をつけたまま、ナオミの様子を伺う。


「何でもありませんわ。それより、ここ、ついてますよ」


 自らの唇の端を指で示すと、少女は「あ」と声を上げ、慌ててナプキンで口許を拭った。呆れる程縮こまる少女に「もう取れたから大丈夫」と向かいの席で家人の青年紳士がいとおしそうに笑った。


 一見すると年の離れた兄妹に見えるが、この少女は実は養女で二人に血の繋がりは一切ない。邪な目的で引き取ったのか、と穿った目で見れなくもないが、家族同然に大切にされているし(富める者の義務だと養子を受け入れつつ、その実劣悪な扱いをするものも少なくない)、心配するような関係ではない、と思う。思うけれど、見ているこっちが恥ずかしくなってくるし、早々に退散しよう。


 二度目の帰りの挨拶を簡単にすませると、ナオミは次の仕事先へと急いだ。





(2)


 この街は東西南北中央に区画が分かれ、各区ごとに住人の階級が異なってくる。

 ナオミの下宿アパートはイースト地区、主に下位中流ロウワ―ミドルから労働者層が暮らす区画で最も人口が多い。仕事先はウエスト地区、主に中位中流ミドル・ミドルから上位中流アッパーミドル層が暮らす区画と、サウス地区、上流階級層が暮らす区画まで多岐に渡っている。


 先程の少女の屋敷と今さっき仕事を終えた屋敷はどちらもウェスト地区にあり、いつもならこのままイースト地区のアパートへ帰宅するのだが、今日は違う。

 ウェスト地区の中でもウエストエンドと呼ばれる区域は中流の中でも限りなく上流に近い家ばかりが集まっている。ナオミは今からその中の一軒へ──、彼女の実家へ足を運ばなくてはならない。


 この国の夏は夜を過ぎても明るく、六時になっても昼間と大差ない。

 真白の空に映える豪邸群を横目に、向かう足取りは非常に重い。


 豪邸群の中でも特に敷地が広く、庭には見事なバラが咲き誇る屋敷──、ナオミの実家、ガーランド家へようやく辿り着く。

 ナオミの背丈よりずっと高くそびえる鉄の門扉の守衛に扉を開けてもらい、 バラで埋め尽くされた庭園に一歩足を踏み入れればバラの芳香のきつさにむせ返りそうになった。


 芳しい香りも多く混ざりあえば悪臭になりかねない。

 庭園中がこの臭いに支配され、思わずハンカチーフで鼻と口元を塞ぐ。


 玄関ポーチの段差を踏むと同時に肩に力が入る。

 出迎えてくれた執事に対しても引き攣った笑みで用件を伝えるのが精いっぱい。

 異国風の刺繡を施した廊下の絨毯に、また変えたのか、ここに来る度毎回変わっている気がすると呆れてしまう。


「失礼します」


 考え事をしている間に来客用の応接室まできてしまった。

 家族が集まる場所居間じゃなく、他人行儀な場所へ通すところがあの人らしい。

 来客向けのお茶が運ばれることもなく、長椅子に座って待つこと約一〇分。

 入ってきたのはナオミを呼び出したあの人ではなく、応接室へ案内してくれた執事だった。


「お嬢様。庭の温室まで来ていただけますか」


 なにそれ。だったら、初めから温室へ呼べばいいのに!

 一旦中へ入って待たされて、また外へ出るなんて時間の無駄もいいところじゃない!


「奥様はご自分がいらっしゃるとき以外、温室に人を入れたがりませんので……」


 執事が気まずそうに言い訳をぼそり、述べる。

 えーえー、そうでしたね。自分の命の次に温室のバラが大事な人ですからね。

 家族とはいえ他人の私を自分がいないときに入れたりしたら、何するかわからないものね。って、なにもする気なんてまっっっったくないわ!


 ムカムカしながら執事の後に続き、庭の温室へ向かう。

 真っ白な骨組みと全面硝子張りのドーム型の温室は屋敷に隣接している。

 執事に中へ通されると、庭よりも更に濃厚なバラの香りが漂ってきた。くしゃみを堪え、艶然と咲くバラへ視線を巡らせる。


 美の女神が生まれたとき、共に咲いたといわれる純白のバラ、この国の現女王の名を冠す深いラベンダー色のカップ咲きのバラ、深いローズレッドと折り重なった花弁が印象的なバラ──、目で見る分には楽しめる。問題は香りだ。


 昔からナオミは強い香りに敏感で、香水も苦手だった。

 花は決して嫌いじゃない。香りが強くない花ならいくらでも愛でられるのに。


「ナオミさん、お久しぶり。お元気そうでよかったこと」

「……ご無沙汰してます、お義母様」

「ささ、堅い挨拶は抜きにして早くお座りになって。立ち話も何だし、今すぐにお茶も用意させますから」


 いや、こちらとしては呑気に茶飲み話をする気は毛頭ない。

 手短に話を済ませてとっととお暇したいのだけど。鼻がむずむずして堪らないし、と長話にする気には到底なれない。最も、この家に居ること自体がナオミは居心地が悪くてたまらないが。


 あの国で自由にのびのびと幼少期を過ごしたのち、六歳でこの国へ帰国させられ。

 帰国後すぐに女子寄宿学校へ編入させられ──、学校の長期休暇以外でこの家で過ごすことがなかったのだ。いつまでたっても自分の家という意識は生まれないし、たぶん一生思うこともないだろう。


 そして自分の家だと思えない理由のひとつは、今目の前にいる義母イヴリンの存在だ。

 物語にありがちな、露骨な継子いじめはないが、互いに壁を作っているのは明らか。もしかしたら、ナオミが純粋なこの国の人間であれば、もう少し互いに歩み寄れたかもしれない。


「それで、お話とは」


 むせ返るバラの香りに加え、運ばれてきた紅茶と菓子の甘い香りが漂う中、ナオミは改まった顔でイヴリンに問いかけた。

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