第3話 永遠にさようなら……したかった
遡ること一ヶ月前。
ナオミは下宿先の女主人に誘われ、とある屋敷の夜会に参加していた。正確に言うと、強引に参加させられていた。
大家である女主人はとてもいい人だ。いい人なだけでなく、亡夫の資産を運用して小さいながらも不動産業で成功し、女一人余裕で食べていけるだけの稼ぎを得ている。なので、多少は自由に遊びに出ることもできる。
ナオミより少し年上なだけの彼女は、ナオミが理想に思う独身女性の生活を体現している。ある意味では。
できるだけ静かに、慎ましやかに暮らしたいナオミと違い、下宿先の女主人は社交家で(生活に支障をきたさない範囲で)サロンや夜会に出掛けるのを好む人であった。
大抵は数多い友人女性たちと出掛けるのだが、この夜会に限ってはなぜかナオミを誘ってきたのだ。
ナオミも誘われた当初は固辞していたけれど、『仮面をつけての夜会だから顔は判らないし、絶対行って損はないから!』と鼻息荒くまくしたてられ、渋々出掛けたのだが──
巨大シャンデリアが天井の至る所から吊り下がり、少しでも目線を上向けると光量の凄さに目が痛くなってしまう。目線を自然な位置に合わせてみても、その光がグラスや皿、光沢ある布地のドレスに反射し、やはり目が痛くなってくる。
別段目が弱く、光が苦手という訳じゃないが、華やかな場を満たす人工的かつ過剰な輝きは苦手だ。
ナオミは会場の中心から相当遠い壁際にもたれ、連れの女主人が老若男女の是非問わず、楽しそうに談笑する様を仮面越しに眺めていた。
大勢の人々が集まる様子を一歩引いて観察するのは好きだ。でも、自分があの中に溶け込みたいとは思わない。自分はあちらの世界の傍観者でいたい。
しかし、観察が好きと言っても限度はある。
望んで壁の花と化していても少なからず気疲れはする。
背後の緞帳の裏側に身を隠す。
少し夜風に当たりたくて、天井からナオミの胸辺りまである格子戸をそっと開く。
乾いた風が心地いい。夜の庭、降り注ぐ淡い月光に寒色系で統一された花々がよく映える。
もっと肌で風を感じたい。庭の花々に癒されたい。
仮面を外し、窓枠に肘をつく。
でも今なら誰にも見られていない。改めて外へ顔を向ける。そのときだった。
ちょうど、ナオミが視線を投げた方向に大柄な影が横切ったのは。
この夜会で仮面を外すのは原則禁止事項。
例外があるとしたら……、憎からず思える相手と出会い、ふたりっきりの状況に進んだ場合。つまり、仮面を外す=何らかのアプローチに繋がってくる。
慌てて仮面をつけ直そうとして──、その必要はなくなった。
「今のは見なかったことにしておきますよ」
ナオミがいる窓辺と彼が立つ庭の一角からは少し距離がある上に、夜気にほとんど溶け込み、聞き逃してしまいそうな小声。
なのに、はっきりとナオミの耳まで届いたのはその声が持つ艶と、肌が粟立ちそうな冷淡さだろう。彼の声はナオミが言葉に窮す程度には威圧感を放っていた。
「レディ。迂闊な真似は自重なさった方がよろしいですよ。まさかと思いますが、ローマンとユリエッタの真似事でも??」
「……は??」
庭園に佇む謎の『宵闇の君』が口にしたのは、この国の中流以上なら誰もが知る有名も有名な戯曲。対立する家に生まれた恋人たちの悲恋を描いた作品で、そういえば、バルコニーで愛を語らう場面があったような。
「まさかと思いますが、ご存じないのですか??」
「それこそ、まさか!ですけど。責任能力のない子供同士で愛だの恋だのと愚かなことだと、大変イライラさせられましたもの」
我ながら性格の悪い受け答えをしていると思う。が、先にイヤミたらしい発言を繰り出したのはあちら。個人的な感想についても一点の嘘はない。
下宿先の女主人や父が聞いたら、『またそんなひねくれたことを……』と顔を曇らせるだろうが、今、ふたりはこの場にいない。
ナオミの辛辣な返答に今度は宵闇の君の方が黙り込んだ。
呆れるか気分を害すかして、さっさと立ち去って頂戴!
「つかぬことをお訊きしますが」
ところが、宵闇の君は立ち去るどころか逆にナオミに興味を持ってしまったようだ。
『この女、
「貴女はかの文豪の作品がお嫌いなのですか??」
「そうね、正直あまり好きではありませんわね。人種差別的な表現が多いですし。まぁ、かの文豪に限らず、現代の文豪もですけど。この国の人々は自国民以外への偏見が根強いですし、自国民の間でだって差別偏見が激しいですから」
答える義務なんてないし、さぁ、とか適当に煙に巻き、逃げればよかったのに。
自分としたことが少し、否、だいぶ喋り過ぎてしまった。
自然と、黒に近い真っ直ぐなブルネットの髪を撫でる。
普段ならぎゅうぎゅうにきつく結い上げている髪は今夜に限って半分下ろしている。ナオミは目立たせたくないのに、『貴女は下ろし髪の方が魅力が増す』と下宿先の女主人が聞かなかったのだ。
華やかな社交場に出向く者なんて、ナオミの言う差別偏見を悪気なく無意識に行う者ばかりだろうに。宵闇の君だって絶対にそちら側の人間だろうに。
ひどく気まずくなり、窓を閉めようとした──、が、できなかった。
「バルコニーはもう先客でいっぱいだよ。緞帳の影に行こう」
「そうね、そうしましょ……」
酔いに任せていくらか熱を含んだ声で囁きながら、ナオミが隠れる緞帳へと男女の声が近づいてくる。飛び出せば互いに気まずい思いをしてしまう。どうしよう。
考えること数秒。ナオミの体格ならこの窓の大きさくらい抜け出せるかもしれない。
人より小さく華奢な体格もたまには役に立つものだ。
「レディ?!」
窓枠に手をかけ、よじのぼってみせたナオミに宵闇の君は焦ったらしい。
ドレスの裾を下着が見えないぎりぎりまでまくり上げ、窓枠にまたがったままシィッと唇に指をあてる。妙齢の(一応)淑女のあられもない姿に宵闇の君はとうとう絶句した。
そのまま黙っていて、と心中で祈りながら、窓枠から地面に飛び降りる。着地で身を屈めたと同時に例の男女が緞帳の中に入ってきた。
頭上で「寒い!」「誰だ窓開けっ放しにしたのは」などの言葉と共に窓が勢いよく閉まる。
念のために腰を低くしながら立ち尽くす宵闇の君の下へ進んでいく。
近づくにつれ、彼の容姿が暗闇の中でもはっきりと見て取れるようになってきた。
なるほど。上背はあるし、黒い髪に黒い瞳に彫りの深い顔立ちは神秘的で女性の気を十分に引きそう。あの冷たい物言いさえなければ。
「お話の続き、いたします??こんな行儀の悪いはしたない女とはもう口を利く気にならなくて??ごきげんよう、さよな……」
「……っくりだ」
「ん??」
「そっくりだ。さっきの行動も今の言葉も、記憶に違わずそっくりだ……!」
「……??仰ることが判りかねます。貴方と私は先程出会ったばかりで、面識など」
「えぇ、現在の僕たちに面識はありません。ですが、貴女で間違いないんです。いいですか??貴女と僕は生まれる前、戦の際に自ら前線で指揮を執る美しくも勇敢な姫騎士と護衛の騎士であり、愛し合う婚約者同士でした」
いきなり何を言いだすかと思ったら。妄想甚だしい。
庭へ降り立った時点でこの人の前から去っておけばよかった。なぜわざわざ話しかけに行ってしまったのか。
とにかく、一刻も早く適当な別れの挨拶を述べ、ここから去らなきゃ!
しかし、ナオミが逃げる態勢に入りかけたのを見越してか、大きな掌がナオミの肩をがしりと掴んできた。目が完全にイッてて怖い。
「口説くにしてももう少し……」
「口説くなんて軟派で軽々しい真似を僕がするとでも??」
声と目つきが一気に鋭く凍てついていく。
抗弁したくても彼の声と視線が刃となって喉を貫き、上手く声が出ない。
「しつこいようですが、さっき窓から飛び降りたのも行儀の悪い女と口を利く気になれないだろうとの発言も寸分違わずかつての姫と同じでした」
「ただの偶然じゃ」
「いいえ、偶然なんかじゃありません!……あ、失礼、現在の貴女とは初対面でしたね。数々の非礼申し訳ありませんでした。ですが、貴女が忘れているというなら、徐々に思い出してもらいましょう……」
「いいえ!結構です!!私は貴方と二度とお会いしたくありません!永遠にさようなら!!」
彼の手が再び伸ばされるより先に、ナオミは駆けだした。
もっと走れるはずなのに、長いドレスの裾、きついコルセット、高いヒールの靴が邪魔をする。向こうが本気で追いかけてきたらひとたまりもない。
だから彼が追いかけてこなかったこと、夜会後も何の音沙汰がなかったことに心底安堵していた、筈だったのに。
※某文豪(のモデル)や某文学作品(のモデル)に対する作中での批判はあくまで登場人物の一感想であり、決して実際の作品を貶すものではなく作者の個人的な意見でもありません。(むしろ作者は好きです)
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