第2話 その男、雇用主につき


 頭が、特に後頭部にかけてズキズキと鈍く痛む。

 痛む箇所を手で擦る。嫌だわ、たんこぶができてるじゃない!

 ごろり、目を閉じたまま寝返りをうち──、ナオミは自ら置かれた状況に違和感を覚えた。


 セイラの頭突きをまともに食らった後、樹から落ちたかして頭を打ったようだ。心なしか顎もまだ痛い気もする。ということは、このベッドは。


 ナオミはパッと目を開け、起き上がろうとしたが──、できなかった。


「あぁ、良かった!目覚めの気分はどうですか、Miss


 パチュリ、ムスク、ジャスミン、サンダルウッドが混ざり合った独特の香りは、に好意を抱く女性ならたちまちうっとりするだろう。しかし、ナオミには頭痛を助長させる不快な臭いに他ならない。


『目覚めの気分??最悪!』と答えられたらどんなに良いことか。でも言える筈がない。なぜなら彼は。


「……ガーランドですわ。Mr.デクスター」

「私のことはクインシーとお呼びくださいと」

「……申し訳ありませんが。不毛なやり取りする気力が……、ですから、やめていただけます、か」

「おっと!失礼しました。あぁ、無理せず」

「いえ、」


 クィンシーを制し、痛む頭を抑えて緩慢に起き上がる。

 ナオミの下宿部屋のベッドなんかと比べ物にならない、広さ、枕やマットの柔らかさ、豪奢で寝心地の良い寝具類を改めて認識すると途端に居心地が悪くなってくる。


 最もたる居心地の悪さの一端を担うのは、ヘッドボードに手をかけ見下ろしてくる香水臭い気障な金髪の中年男、もとい、ナオミの雇い主であり、この屋敷の主クインシー・デクスターであったが。


「娘が授業を放棄、脱走しただけでなく、貴女にお怪我まで負わせてしまい大変申し訳ありませんでした」

「いえ、落木したのは自分の落ち度です。私こそ却って迷惑をおかけして申し訳ありません」

「貴女自身は何も悪くない。それよりも具合はどうですか??貴女が気絶する間、屋敷の侍医に診察させましたが、目を覚ますまで気が気じゃなかった。本当に気分は悪くないですか??」

「ええ」

「眩暈が生じるとか、呂律が回らないとか、身体が痺れるとかもないですか??」

「頭が少し痛む以外、特に大丈夫そうですが……」

「念のため、少し動いてみてもらえますか??」


 反応が大げさすぎでは。

 余りに真剣なクインシーにたじろぐも、言われた通り、ベッドから降りて部屋の中を歩き回ってみせる。


 うん、ふらつきもせず、まっすぐ歩ける。


「大丈夫ですね」

「あぁ、良かった!ですが、今後もし違和感が出てきたら遠慮なく教えてください」


 クィンシーは階級や立場が格下の相手であっても最大限の誠意を見せる。

 そこは尊敬できるのだけど、と思いかけて、悪戯っぽく片目を瞑ってきたため『前言撤回』と憮然となる。


 年齢を経ても色艶が保たれた豪奢な金髪、皺すらも勲章に過ぎないと思わせる華やかな顔立ち。見上げんばかりの長身。なにより若者にはない、匂い立つ大人の色気に数多の令嬢、ご婦人方が腰砕けになるのは理解できなくもない。


 しかし、ナオミが顔の良さや大人の渋み、色香、包容力に惑わされる女と思ったら大間違い。むしろ白けて引いてしまう。


 今日はもう授業にならないし、帰ってもいいかしら。

 喉元まで出かかったが「ガ、ガーランドせんせぇ……」と消え入りそうな声に、我に返る。


 声がした方へ、クインシーの腰辺りに目線を向ければセイラが隠れていた。


「ほら、ちゃんと先生のそばまでいきなさい」


 大きな掌が小さな背中を優しく撫で、前へと促す。それでもセイラは躊躇し、クィンシーの影に引っ込んだままだ。


 もじもじする姿は普段のお転婆ぶりからはかけ離れ過ぎている。

 セイラは何度も何度もクインシーとナオミを見比べたのち、ようやくナオミに歩み寄っていく。


「ガーランドせんせぇ……、ごめんなさい……、ゆるしてぇ」


 セイラは大きな青い瞳から涙がこぼれ落ちそうなのを、唇を噛んで必死に堪えている。


「えぇ、わかりましたわ」


 薄く微笑んで頷けば、我慢の糸が切れたセイラの瞳から大粒の涙が溢れだす。

 ナオミはセイラの前で膝をつき、小さな肩を何度も撫でた。


「でも、これからは逃げずにちゃんとお勉強してくださいね」

「うっ……」


 途端にセイラは泣き止み、声を詰まらせた。背後で、セイラ……とクインシーが頭を抱えて呆れている。


「うっ、うっ……、ど、努力します……」

「なるべくそうしてくださいね。女性と言えど、男性に負けじと知識教養を身に着けるべきだと私は常々思っていますから」

「……女の子はお嫁さんになるだけなのにぃ??」

「……お嫁さんになるから勉強しなくていい訳でもありませんわ」

「でも、でも、かしこい女の子なんて男のひとは好きじゃないって、お嫁にいけないって」

「セイラ。先生を困らせてはいけないよ??」


 見兼ねたクインシーが二人の間に割り入ってきた。

 正直助かった。幼子相手に本気でを延々と語り続けるところだった。


「それにね、セイラ。お父様は賢い女性好きだよ」


 再び前言撤回。さりげなく流し目送ってこないで。

 見なかった振りして立ち上がる。


「では、そろそろ失礼いたします」

「Missガール。待ってください」


 まだ何かあるのか。頭痛いし、早くアパートに戻って休みたいのだけど。


「おひとりで帰るつもりですか」

「え、えぇ」

「万が一、帰り道にお倒れにでもなったらどうするつもりですか。貴女のご家族に立つ瀬もありません。しばらくの間は家の者に馬車で送迎させます」

「いえ、そこまでしていただかなくても結構です」

「遠慮なさる必要はありません」

「いえ、本当に結構で……」


 本当に結構である。

 紋章入りの旗を掲げた馬車が下町のアパートの前で停まったら。


 まずは大家による興味津々の追求逃れ。次いで、周辺の住民への言い訳を考えねばならない。

 デクスター家の名誉のため、事実落木事故は伏せなければならないし。

 かと言って、あくまで厚意。強く言いすぎて不興を買う訳にもいかない。ただでさえ痛む頭が更に痛んでくる。


 なんでもいいから早く帰りたい。

 ところが、納得してもらう断り文句を思いつく前に、押し問答は突然のノックの音によって終了した。


「失礼します」


 凛とした艶のある低い、けれど若い声はどこかで聴いた覚えがあった。

 ドアが開き、入室した青年を一目見るや否や、一刻も早く退室したくなった。


 年頃は二〇半ばから後半。ナオミと同年代だろう。声と同じく艶めいた黒髪に黒い瞳、濃い眉、彫りの深い顔立ち──、特に目の周りの彫りの深さと厚めの唇の、はっきりした容貌に浮かべるのは褪めた表情。


 間違いない。頭痛だけでなく眩暈まで起きてきたが、顔色と気分の悪さをクインシーに悟られるわけにはいかない。悟られてしまえば問答無用で馬車に乗せられてしまう。


「呼び出して悪かった」

「いえ、ちょうど商談が終わって帰宅する予定でしたので。それより……、話はセバスチャン執事から訊きました」


 青年は鋭い視線をクインシーからセイラへと巡らせる。

 クインシーと変わらぬ高身長の青年に冷たく見下ろされ、セイラの泣き腫らした顔がさっと色を失くした。


「ルード。セイラは充分反省している。責めないでやってくれないか」

「もちろんです。ただ……、いえ、何でもありません」

「なんだ、言いかけたならはっきりと」

「いえ、本当に何でもありません。聞き流してもらえますか」


 それでも追求すべく続けようとしたクインシーを無視すると、ルードと呼ばれた青年は少し表情を緩め、セイラに頷いてみせた。おかげでほとんど泣きかけていたセイラの表情も緩んでいく。


「Missガール。蚊帳の外にしてしまって悪かった。彼は私の息子ルードだ」


 知ってる。否、名前と素性はたった今知ったのだけれど。ルードという人物とはすでに面識がある──、ナオミにとって最悪な形で。


 彼とは二度とお目にかかりたくなかったのに。

 唯一の救いはナオミと相対しても、ルードは特に関心を示したりせず、再び入室当初と変わらず褪めた表情に戻っていた。ように見える。

 そうだ、その調子で他人行儀な(実際他人だし)態度のまま、あの夜の一件はなかったこととしてくれればいい。

 

 しかし、願いは虚しく絶たれた。

 ルードはセイラからナオミへ向き直り、足早に歩み寄ってくるじゃないか。


 悪い予感がしつつ、ナオミも彼からさりげなく後ずさった。だが、ささやかな抵抗虚しく、ナオミに肉薄したルードは徐に両手を握りしめてきた。


「姫!どうして貴女は無鉄砲なんだ!少しは我が身を顧みてくれ!」


 誰が姫じゃ!妄想も大概にしてよ!!


 割と本気で怒鳴られるし。突拍子なさすぎるし。

 驚きと怒りと呆れがないまぜになり、言い返そうにも言葉がまともに出てこず。バカみたいに口をぱくぱくさせるしかない。

 ルードの後ろではクインシーが「姫??」とぽかんとしているし、彼に抱き上げられたセイラも目をぱちくりさせていた。

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