或る双子の独白

蛇ノ目るじん

≪一つの終わりと、始まりと、続ける事。≫

 俺は、死というものを知らなかった。

 正しくは、死という現象がどんなもので、どういった概念を指すのかが分からなかった。


 俺に、俺達にとって、死というのは寿命が尽きた後にのみ訪れるものだった。それ以前に予期せず死に襲われても、蘇生院と呼ばれる所へ自動で運ばれて、傷一つ残さずに戻ってくる。

 この蘇生院というのは世界中に点在していて、五年に一度俺達は最寄りのそこへ行く。そうしてそこで処置を受けると、過去五年の間に負って消えずに残った傷跡もきれいに消えるのだ。

 病気らしい病気もせず、諍いらしい諍いもなく、程ほどに働き、学び、遊んで日々を過ごしていた。


 俺達の寿命は、きっかり百年。百歳を迎えた者達はみんな蘇生院へ行って、そして空に上がるのだという。

 空には、遠い昔に永遠を手に入れた人間達が住んでいる。空に上がった者達はその仲間入りを果たし、楽園で永遠を生きているのだと。


 俺は、疑うこともせず無邪気に信じていた――――。




 *



 その日、私が大学から帰ると、家の前に一人、男の人が立っていた。

 年のころは、よく分からない。

 顔立ちは私とそう離れてはいない様に見えるけれど、でも、蘇生院で五年に一度処置を受ける私達は、概して衰えが遅い。同じくらいに見えても十歳以上離れていることだって珍しくない。彼もきっと、その類ではないかと感じた。


 だって、そこに浮かんでいる表情はひどく落ち着き払って、故郷を懐かしむような憂いに満ちていたから。

 大学の友人や先輩に、こんな顔をしている人を見たことはない。

「あの、家に何かご用でしょうか? それとも、気分でも悪いんですか?」

 思わず声をかけてみれば、家を見上げていた瞳がゆっくりとこちらを向いた。

 私とよく似た色合いの双眸は、色が似ているだけで、私とは全く違う。

 今まで見たことがないくらいに深くて強くて、そして哀しい。



 なのに、どうしてだろう。どうして、その奥にある光を、懐かしいと感じるのだろう。

 一瞬驚いたように見開かれた瞳はすぐ、悲しげながらも優しい色を帯びて、穏やかに細められた。

「いいえ。昔住んでいた家に似ていて、つい懐かしくて」

 その声も、知らないはずなのに何故かひどく懐かしかった――――。




  *  *  *




 その日、いつもの様に目覚ましの音で俺は目を覚ました。ぐっ、と目覚ましを止めるために腕を伸ばすと、昨日までよりなめらかに動いた気がして、なんとなく嬉しかったのを覚えている。

 前日に俺は十五歳を迎えて、蘇生院から帰ったばかりだったから、きっとそう感じていたのだろう。


 そして俺はそのまま部屋を出て、ちょうどやって来た祖母と顔を合わせた。

 蘇生院で処置をされている為か、俺達は概して衰えが遅い。三十歳を過ぎた辺りから、それは顕著だ。

 髪が白くなり、肌が皺を重ねるような老人の姿は、授業の一環や図書館で見られる前文明の映像の他は、終ぞ見たことがない。

 祖母も祖父も、両親とは少し年が離れた兄弟といった容貌で、たいそう若々しい。俺達にとっては、皺の多い老人の方が異常な状況だった。



 俺は第二次反抗期に加えて、他者との必要以上の接触を嫌がる潔癖症なガキだったから、その日もにこにこ笑いながら話しかけてくる祖母にそっぽを向いて、つっけんどんな返事しかしなかった。朝の散歩に行こうといういつもの提案もつっぱねた。

 普段は強く自我を通さない人だったのに、その日だけはやけに強引だった。だけど、強く出られるとさらに強く反発するのがその頃の俺の悪癖で、手こそ出さなかったがひどい暴言を吐いた。空腹で苛ついていたのもあるだろうが、当時の自分でさえひっそりと自己嫌悪したような内容だった。


 今になって後悔している。祖母だけでなく、祖父や両親にも反抗的な態度を取り続けたことを。ひどい態度に、謝れなかったのを。

 大切な双子の妹を、サリに、もっと優しくしてやれなかったことをずっと、ずっと、悔やんでいる――。



 祖母を振り切ってリビングに通じるドアを開けると、そこは全てがあかかった。


 ひたすら紅、赤、アカ……。

 何があったのかさっぱり分からないまま、俺は真っ赤に染まった部屋を呆然と見つめていた。

 鉄臭い。部屋中、鉄の臭いがする。


 呆然と足を踏み出して何かにぶつかり、下を見て、息が止まった。

 カッ、と血走った目を開いた顔――――首だけが、床に転がっている。

 見なければ良いのに俺は無意識の内に、赤を何度も無造作に塗りたくった部屋の中で、最も濃いラインの一つを辿っていた。

 そのゴールは、俺が入ってきたドアのすぐ脇。首から上のない人体が、人形のように崩れ落ちていた。それが着ている服も真っ赤に染まっていたが、あの服は確か……。


 その時、さやかな衣擦れの音が耳に届き、糸に引かれるようにしてそちらを見た。真っ白な人影が立っていた。

 淡い髪と瞳。透き通るような肌。優雅なラインを描く衣装。全てが、白のイメージだ。

 侵しがたく、神聖なその姿は、前文明が栄えていた頃、ある地域で信仰されていた神々の使いの映像と、どこか似ていると思った。

 周囲の状況を一瞬忘れ、俺はその相手に完全に意識を奪われる。しかし、その手に握られた細長い物からあかいものが滴っているところで、ハッとした。

 剣だった。その、男とも女ともつかない人物が手にしていたのは、く染まった、美しくも禍々しい、凶器。全体のイメージを損ないそうな色は、しかし完全に白にねじ伏せられて、色褪せて見える。


 その人物が、俺を、見た。

 その表情も、また、白。

 何の感情も浮かんでいない、無垢で無情な、白。


 美しい線を描く唇がゆっくりと開かれる。

「不穏分子を捕捉。排除する」

 その声は無慈悲である故に、寒気がするほど美しかった。




 そこから先は、本当に短かった。

 祖母が思いもよらぬ強さで俺を突き飛ばし、腹から背中まで剣に貫かれながら白い人影に何か叫んでいた。それに一度動きを止めた人影が何かを言い、そしてそのまま剣を袈裟状に振り上げる。

 その最期の瞬間、愕然と見開かれた祖母の目がやけに鮮やかに記憶に残っている。


 腰が抜け、あかい床に――その時やっと、そのあかいものが、血であることに気づいた――へたりこんだ俺に、返り血一つ浴びていないそれが近づき、そして、剣を振り下ろした。


 心臓を狙った切っ先は俺が動いたために僅かに逸れて、肩に深く突き刺さる。

 弾けるような熱さと、気絶しそうな痛みで全身が痺れた。そのまま気絶していれば、あるいは楽に死ねたかもしれない。

 しかし、結局俺は気絶できないまま、骨が削れていくのを感触と音で感じながら引き抜かれる刃に、声もなく悶絶した。

 剣を抜いたそれは、ぬらぬらと赤く塗れたそれを見下ろし、そいつは一瞬だけ不機嫌に見えた。血が纏いついていてもそうと分かるほど刃毀れしていたからだろうというのは俺の憶測だが、たぶん間違っていないと思う。



 まぁ、当時の俺にそこまで考える余裕があるわけなく、僅かに生じた隙に、ぬめる床を這った。その時にはもう、肩の痛みがどうこう言える余裕なんてなかった。ただ、あれから少しでも離れたい。その一心だった。

 だが、与えられた猶予はあまりに短く、俺はあまりに非力だった。再び近づくそいつが剣を翳した時は、本当にもう駄目だと思った。


「シグナルが消失したから来てみれば……やはり貴様らか。『断罪者』」

 だから、俺のものでもそいつのものでもない声が聞こえた時だって、初めは信じられなかった。

 かすみ始めていた目を必死にこじ開けて、その姿を見とめた時だって、まだ半信半疑だった。

 自分の脳が生んだ、都合の良い幻覚の可能性だってあったのだから。


 しかし、白い姿のそいつが姿を消し、俺の周囲で聞こえ始めた、感情が通ったやり取りは、紛れもない本物で。背中を支える力強い手が、とても温かかった。どこか遠かった言葉が次第に近づき、俺はその内の一つが自分へと向けられていることに気付く。


「気をしっかり持て。……よし、俺が分かるな?」

 ずっと声をかけ続けていたのだろう男は、見事な赤毛をしていた。

 しかしその赤は、部屋に撒き散らされた恐ろしくも悲しい色とは違い、燃え上がる炎のような明るさ。思わず気持ちが安らぐような、温かく燃える命の色だった。

 俺は男の腕の中で、もう大分かすんでいる視線を凝らす。そして、部屋の中で倒れ付している二つの影を見出した。

 一人は分かる。祖母だ。そして、もう一人は――。

 確かめて、思わず涙が溢れた。ただでさえ明瞭でない視界が、さらに歪む。その涙の理由は、未だに自分でも分かっていない。

「ばあちゃんと、じいちゃ、を……」

「大丈夫だ。大丈夫。お前は、何も心配しなくていい」

 あやすような男の声が落ちてきて、俺は小さい子供のようにしゃくりあげた。なるべく傷に障らないように慎重な動きで男が立ち上がり、歩き出すのが分かる。


 場の空気が、僅かに綻んだ、その時だ。ギシリと何かが軋む、小さいくせによく響く重々しい、嫌な音が空気を振動させた。

「急ぎ退避ッ! 奴ら、この建物諸共痕跡を潰す気だ!!」

 別の声が鋭く叫ぶのと、それまで優しいほどに慎重だった動きが激しい物に変わったのは、ほぼ同時だった。



 男の腕の中で、どこかぼんやりとした物に変わりかけていた傷の痛みが一気にぶり返して、俺はそのまま意識を失った――――。



 *



「あの、家に何かご用でしょうか? それとも、気分でも悪いんですか?」

 優しくて柔らかくて、そしてとても懐かしい声に呼ばれ、俺はゆっくりと視線を落とす。

 濃くはないが、きれいに化粧をされた顔が自分を見上げていた。脇に鞄を一つ抱えていて、あぁ、もう大学生なのかと離れていた年月を思い出す。この高校に行きたいと、カタログを示して真剣な表情をしていた姿がひどく懐かしい。


 優しくて、可愛らしくて。それでいて芯の強い、愛しい妹。すっかり大人びてはいるが、その姿を見誤るはずはない。

 その零れ落ちそうなほど大きな瞳に映る俺は一方、ずいぶんと変わった。

 ただ、その変化を疎ましく感じたことはない。

 幼い頃は一卵性の双子にも間違われるほどだった彼女との共通点が、鍛錬と戦闘の中、少しずつ剥がれ落ちていくのは少しだけ、悲しかったけれども。

 それでも、次第に変わってゆく自分に、後悔はなかった。



「……いいえ。昔住んでいた家に似ていて、少し懐かしくて。つい見入っていました」

 何もかも変わっていない彼女にしかし、もう俺の記憶は何一つ残ってはいない。

「そうなんですか。確かに珍しい作りですからね。祖父母の趣向で、ワフウ建築? というらしいんですけど、他にもあるんですね」

 俺の言葉を疑いもせずに笑った彼女に、俺は薄く笑い返した。あぁ、顔の筋肉がつる。我ながら人相の良くない引きつった笑みだと思うが、彼女は全く気にしていないようだ。


 蘇生院へ移転されることもなく放置されていた祖父母の亡骸は、丁重に弔われた。

 今の彼女が言った祖父母は、まがいものだ。――否、『奴ら』にとって都合の悪い記憶を消され、保存されていた遺伝子によって新たに生み出されたこと以外は、元の二人と何ら変わりはない。そして彼らも、そんな事は夢にも思っていないだろう。


 『奴ら』にとって都合の悪い記憶とは、俺の存在と、現在俺が所属している組織について、そして、彼らの能力によって握られた情報。

 この組織には『奴ら』――永遠を手に入れた人間・ポストヒューマンが不穏分子と判断し、排除しようとした者達が多い。

 創設者は、『奴ら』に裏切り者と呼ばれ、俺達の中の誰よりも命を狙われている、変わり種のポストヒューマン。彼らが居るから俺達の組織は、絶対者を名乗るポストヒューマンの集団からの全面攻撃を回避できている。


 不穏分子の定義がどんなものかはよく分からないが、特殊な能力を持った者が多いらしい。

 祖父は戦闘力はないが優秀な諜報員で、祖母はESP――超能力者だったらしい。彼等は巧妙に能力を隠して生きていたが、ある事がきっかけでと組織と接触を持ち、情報を流していたようだ。

 ちなみに俺は祖母の超能力を受け継いでいるらしいが、今のところさっぱりだ。

 そして十五歳の誕生日、処置を受けた俺が不穏分子と診断され、それをどうにか隠蔽しようとしたことで正体が発覚。殺されたと言うのが事の次第らしい。

 オリジナルの肉体を蘇生させればより能力が再発しやすいと考えたのか、彼らの亡骸はその場に放置され、そして、新たに『創られた』。

 ポストヒューマンは、そんな事まで出来るのだ。絶対者を気取り、勝手に人の命を弄び、自分達の都合の良いよう組み直す事さえ容易くやってのける。


 沸々と湧く胸糞悪い感情を完全に押し隠し、俺は再び微笑んだ。皮肉なのか、はたまた誰かからの慈悲なのか。目の前の彼女の瞳に映る俺は、当たり前のように、ごく自然に笑っていた。

 ただでさえ大きな瞳が、さらに一回り丸くなる。彼女も気付いたのか。

「……あの」

 その時、意識の端に引っかかった気配に潮時を感じ、俺は名残惜しさを感じながら一歩後ずさる。

「家族と仲良くな。サリ、サイネリア。俺の……」

 最後まで言えないまま身を翻し、そのまま振り返らずに歩き出した。




 足早に消えていく後姿を見て、私は何故かとても悲しかった。

 始めは、見ない顔だと思った。次いで、晴れているのに傘を持っているなんて変な人だと思った。

 でも、初対面なのに初めて会った気がしなくて、どこか無理が透けて見える笑みに胸が苦しくなった。


 ――――どうしてそんな目で私を見るの? どうしてそんなにさびしそうな顔をしているの?


 そんな言葉は全く言い出せないまま、最後に彼が見せた、柔らかで優しくて、それでいてとても懐かしい微笑に、無性に泣きたくなった。どうして彼が自分の名前を知っているかなんてどうでも良いことだった。

「……あれ?」

 頬を伝う雫に、自分が泣いていることに気付く。

 理由も分からず止め処なく零れ落ちる涙を拭うことも思いつかないまま、私は日課の散歩のためにお祖父ちゃんが出てくるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。



「なにか悲しいことでもあったかね?」

 そう尋ねてくるお祖父ちゃんになにか答えなければと思うのに、言葉が出てこない。人の目に触れやすいこんな通りで立ち尽くしているのを恥ずかしいと思うのに、足が動かない。


 初めて会った気がしない彼の、もうどこにも見えない後姿を求めて視線を彷徨わせる私に、祖父は少し考えこんだ後、その大きな掌で私の頭を撫でる。

 まだもう少し幼い頃、振り払われて落ち込んで泣いている私にそうしてくれた時と全く同じ仕草で。


 ――振り払われて?

 何となく思ったことに自分で違和感を覚えて、私は内心首を捻る。

 誰かに手を振り払われたことなんて、一度も無いはずなのに。ましてや、誰かに邪険にされて、傷ついた記憶なんて、あるはずがないのに。


 それなのに、その感覚を何故か、私は振り落とすことが出来なかった――。






 *


 人気が少ない方を選んで歩き続け、やがて回りに人の姿が全く見えなくなると、密かに呼吸を整えながら俺は傘――そこに仕込まれた細剣を抜いた。同時に傘を開いて、骨の付近にあるボタンを押す。途端、張り巡らされていた布がバキンと音を立てて硬化し、盾となった。

 俺が属する組織の研究者や整備士――に限らず、組織の人間は大抵――は揃いも揃って曲者だが、腕は確かだ。

 この傘改め盾はマシンガンを全弾ぶっ放されても耐えるような強度を持っているし、見た目のわりに軽い。勿論普通の傘としても使える。

 剣も、金属に切りかかろうが薙ぎ払おうが、折れない。柄部分にある、開閉させるボタンをプッシュするのではなく捻れば強力な超音波が発生して刃を振動させ、切れ味はさらに上がる。ただこちらはまだ未完成で、一定の時間を過ぎると柄まで発熱するから、長時間は使えないのが難点だ。


 ぞろりと姿を現したのは、鈍く銀色に光る全体的に丸いフォルムのロボットが数体。巡回用の機体だ。

 何も知らなかった頃は町の掃除をしたり、時々出る犯罪者の捕縛ぐらいしか見たことがなかったが、実は侵入者の秘密裏の撃退、排除、あるいはあの白い人物――『断罪者』が来るまでの時間稼ぎもやっている。必要なとき以外は仕舞われているアームが、ゴミと麻酔銃や手錠以外に、レーザーガンやドリルなどを操れる事も知らなかった。


 あの『断罪者』に出てこられたら、今の俺ではまだ分が悪い。振り切りは出来るだろうが、何しろ街中だ。そこかしこに敵の目が潜んでいる。そんな場所に長居をすれば、どこで回り込まれるか分かったものではない。

 それに、時間を掛ければ掛けるほどロボットは増えるし、新たな『断罪者』が増える可能性も上がる――『断罪者』は個々を指す名称ではない――から、とっとと始末してさっさと撤退するのが賢明か。

 そんなこと考えながら一体のロボットの足を切り裂き、その勢いが止まらない内に超音波を発生させるボタンを捻ってバランスを崩した胴体を一刀両断する。どう、と倒れこんだ側面を駆け上がって飛び上がり、背後から迫ってきていた機体の、センサーを搭載した「目」を、盾を投げつけることで潰す。無闇に振り回されるドリルを避けながら剣を突っ込んで、内蔵された動力部に損傷を与える。

 盾を回収して飛び下がると同時に、暴走した動力部によってそのロボットは内部から爆発。最初に倒した方も誘爆されて、周囲に居たロボットたちが爆風をもろに食らう。


 一旦超音波のボタンを切り、じっと睨んでいると、不意に背後から空気を切り裂く轟音がした。瞬間的にまずいと思って横に避けて盾を構え、そのすぐ先を飛んでいったそれに血の気が引くのが分かる。ロケット弾だった。

 着弾、爆発。

 唖然というか、むしろ愕然としながら熱風に煽られた俺の横に、肩撃ち式のロケットランチャーを担いだ赤毛の男が立つ。

「用は済んだな。撤退するぞ」

「……了解」

 俺の命の恩人の一人であり、戦闘技術の師匠であるこの男は、組織に二人居るポストヒューマンの片割れであり、ずっとリーダーに従ってきたという腹心でもある。呆れたことに、絶対者を名乗る者達の中にも階級という概念はあるらしい。


 盾の硬化を解き、剣を仕舞って、俺は空を見上げた。

 高く澄んだ、青い空。そこを一直線に走る白い線。

 地球をぐるりと囲んでいるというそれは、名を軌上リングと言う。ポストヒューマンの牙城だ。

 宇宙空間にあってゆっくりと動いているため、地上に居る人間も、年に何回かその姿を見ることがある。

 いつかは俺もあそこに行くんだと、無邪気に信じていた頃がひどく遠い。


「さっさと乗れ。振り切るぞ」

 師匠の言葉に視線を戻すと、いつの間にか俺達の前には車が一台止まっている。これも一見普通のありふれた形のワゴン車だが特殊な超合金で作られていて、今は粉々に砕けている巡回ロボットの攻撃も、数撃なら問題なく走らせられる。

 運転席にさっさと乗り込んだ師匠に、俺も慌てて助手席に腰を据えて素早くベルトを締め、ぐっと奥歯を噛み締めると目を瞑る。

 直後に、全身に凄まじい圧迫を感じ、そのままシートに叩きつけられた。

 かと思えば右に左に前に後ろに体が振られ、形容でなく内臓が飛び出しそうになる。しかしそれでも、絶対に目は開けない。ただでさえ車には強くないのに、目なんて開ければ、即座に終わりだ。

 師匠は、車の運転が果てしなく荒っぽい。

 それでいて何かにぶつかることも、ひっくり返ることも、壊すこともしない。しかし、乗っている者や見ている側はたまったものではなく、慣れた者でさえ時々ひやりとするような行動が目立つ。隣に平気な顔で座っていられるのは、俺の知る限り一人だけだ。

 組織に拾われる前から酔うほど乗り物に弱かった俺が、何故師匠についたのか、未だによく分からない。ただ、以前より少しは乗り物に強くなったとは思う。昔は汚い話だが、車中で吐いた事だってあった。


 不規則に聞こえてくる爆発音と、それに伴う体の揺れをどこか遠いものに感じながら、俺はそんな現実逃避をすることで、次々と襲い来る衝撃をじっと堪えていた。




 どれほど時間が過ぎただろう。僅かな浮遊感と共に、ゆっくりと車が止まる。そのまま俺はドアを開けて外に転がり出、数歩崩れるように歩いた後、ひんやりとなめらかな床に転がった。


「おかえり。水飲む? それとも吐く?」

 なんとも物騒な発言と共に俺の顔を覗き込んだのは、少年と見紛う外見の少女。

 ベリーショートの髪に一見細いがよく鍛えられた肢体は、きれいな少年で通るほど性別の分化が曖昧だが、晒された白い手は華奢で淡い色のマニキュアが施され、少女らしさをやんわり漂わせる。年頃になっても全く飾り気のない彼女に業を煮やした組織の女性達の、涙ぐましい努力の賜物だ。

「水、後で貰う。吐くのは、良い。無駄に体力使う」

「じゃ、ここに置いとくね」

 手に持っていた水のボトルを転がっている俺の横に置き、少女はそのままくるりと背を向けた。そんな仕草一つ取っても、動きに無駄がない。彼女は俺の目標だ。

 幼い頃に師匠に拾われ、養女となったらしい彼女は、俺より二つ三つ年下だが組織でも指折りの実力を持つ戦士だ。そして、師匠の車に乗っても平気な唯一の人物である。同類というか、洗脳されたというか、感覚が麻痺しているというか、彼女の運転もまた荒っぽいのだが、それはまた別の話だ。


 ぴんと背筋を伸ばして立ち去る後姿を見送り、吐き気が次第に収まってくると、俺はやっと水に手を伸ばす。キャップに指を掛けたところで差した影に顔を上げると、師匠が立っていた。

 一度止まったのは俺を下ろすためで、そのまま師匠は車を走らせ、収容してきたのだ。それにしても、最近はへばっている俺など気にもせず、いつの間にかどこかへ消えている彼が俺のそばに来るなんて、ずいぶん久しぶりだと思っていたら、彼の背後からほっそりとした立ち姿が現れる。

 その姿に、驚いて起き上がろうとしたところで、穏やかに微笑むその人はそっと俺の動きを制した。

「良いよ、そのまま」

 その人は師匠の手を借りながら腰を降ろす。その足の動きは、少しぎこちない。一度腱が切られ、治療とリハビリはしたそうだが、完全には治らなかったのだという。

 そして師匠は、その人の目配せに頷くと、俺に釘を刺すような一瞥を残して立ち去った。その様子を見送りもせず、その人は俺にひたと視線を据える。

 ポストヒューマンは皆が皆、見目麗しく優れている。頭脳も、容貌も、姿も、声も、何もかも男が、あるいは女が抱くようなある種の理想が集まっている。

 やむにやまれぬ事情から俺は一度、師匠達と軌上リングに侵入して、他のポストヒューマンと相対したことがある。その美しさに思わず息を呑んだものだが、一方でひどい嫌悪感も覚えた。当時はよく分からなかったが、今なら分かる。そして、同じポストヒューマンでありながら、師匠やリーダーにはその嫌悪感を抱かない理由も。

「紫苑」

 優しく呼ばれる名に、緊張に締めつけられていた心がゆるゆると融けるのを感じた。人目を引く華やかな美しさはないが、自然な形で柔和にまとまった容姿である。首筋から額にかけて真っ直ぐに走る傷跡さえ、その美しさの妨げにはならない。地上から軌上リングへと上がる直前に負ったという傷を、戒めだと全て残したまま、彼女は長い時を閲してきた。他の者は不要だと捉えたものを、彼女は、彼女達は投げ捨てる事をしなかった。


「家族には、無事に会えた?」

「両親の顔は、見てきました。サリとは、少しだけ話も出来ました。ただ……やっぱり、『祖父母』の顔は、見られませんでした」

「そう」

 我が事のように悲しげな顔をする人――リーダーに、胸が痛む。




 何が絶対者だ。何が楽園だ。

 ポストヒューマンは、奴らは、生命の敵対者にして侮辱者だ。そしてあそこは墓場だ。否、もっと酷い。屠殺場だ。


 師匠達と共に軌上リングに侵入して、案の定、途中で見つかって追いまくられ、ほうほうの体でどうにか脱出したが、そのときに目の当たりにした光景は、今でも夢に見て飛び起きることがある。



 ――――奴らは、新たな生を夢見て空へ上がってきた者達を、食い散らかしていた。

 気に入った部分だけを抉り取り、そうでない部分は打ち捨てて。歯牙にもかからなかった者は、出来損ないだと因子一つ余さず軌上リングの動力炉にくべられていた。

 そうして奴らは、欲求の赴くままに、自らを組み直していた。

 奴らが美しいのは当たり前だ。その美しさに吐き気がしたのも、当然だ。

 奴らの美しさは、地上から上って来て選別された者から削り取られた、最も美しい部分から成り立っているのだから。

 そして奴らは、それをなんら悪いことだと思っていない。むしろ、彼らは幸運だとさえ笑う。

 完璧に近づいている我々の一部として、永遠に生き続けられるのだから! と。


 少しでも、その行動に悔いを、せめてどこかに疑問があったのなら、感情は赦さなかったとしても、理性は何かを感じただろうに。

 まぁ、そんな殊勝さなど持ち合わせていない奴らだからこそ、一片の罪悪感も無く殲滅を考えられる。 俺は卑怯者だから、大切な相手の受けた、あるいは受ける仕打ちに拳を握り締めても、相手に決定的な落ち度がなければ振り下ろすのを躊躇してしまう。


 そして奴らは、俺にとって決定的となる落ち度を晒した。

 ならば、取る道はもう決まっているのだ。




 気付けば心なし伏せていた視線を上げれば、静かに俺を見つめるリーダーの瞳とぶつかった。一見髪の色と同じ黒に見えるのだが、僅かでも光を拾うと鮮やかに藍色に煌く。珍しい色合いだが、生まれ付いてのものらしい。

「でも、良いんです。二度と会えないことも覚悟していたのに、会えるように図ってくれました。充分です」

 そう言った俺の言葉は、紛れもない本音だった。リーダーは人を見ることに長けているから、俺の言動に偽りが無いことは分かっただろう。藍色に光る瞳が僅かに弛められた。

「サリはもうじき四度目の、俺が居なくなってからは初めての蘇生院行きを迎えます。祖父は、次が最後です。……お終いにしたいのです」

 祖父母の顔は見られなかった。俺の記憶がないこと、奴らにとって都合の悪い事実を全て消されたこと以外は全く同じだとしっているが、その二つの相違故に、俺は同一の存在と見られない。

 しかし、だからといって年目を迎えて「空へ上がり」、奴らの好きに弄ばれるのをただ看過することは出来ない。同一の存在とは認められないが、それでも彼らはやはり、自分やサリにとって祖父母なのだ。



 だから、今度こそ奴らを完膚なきまでに叩き潰す。そうするための準備は、前回の失敗も踏まえて余念がない。

 組織には、前回で間に合わず、大切な存在を永遠に奪い去られた者が何人も居る。あの時、奴らの手に落ちた者も少なくない。

 今回が、ちょうど良い機会なのだと思う。前回は、今になって思い返せば、半ば誘導されていたと思える節がある。

 それは今回も同じなのかもしれないが、かといって後戻りも出来ない。

 古いことわざに、二度あることは三度ある、というものがあるらしいが、俺達にとっては今回が最後だ。心持ちの問題もある。だがそれ以上に。


 俺はちら、と上を見た。なめらかな光沢の金属の壁。それに囲まれて、こちらを侵食しそうな黒と、無数の光の点がうごめいている。

「もう、すっかりこちらにも慣れましたが、俺はやっぱり、地上を歩く方が性に合っています」

 視線を戻し、リーダーに手を差し伸べる。白く優美な指が、武器を握り慣れて硬くなった俺の手に静かに乗せられ、伝わる温もりに僅かに鼓動が跳ねる。

 でもそれは表に出さず、ゆっくりと立ち上がった。なんとなくその手を離しがたくて、部屋まで送りますとこじつけじみた理由をつけて歩き出す。普段より格段に緩やかな歩幅と速度に、リーダーは不自由な片足を僅かに引きずりながら着いてくる。そうして俺達は、発着場を模したワープルームを後にする。

「羽虫が、うるさくなりましたね」

 俺達がワープルームを出ると同時に点灯した細長い廊下を歩きながら、ぽつりと呟く。リーダーは前を見据える俺をちらと見上げたが、何となく俺はそちらへ視線を向けられなかった。

「ジェミニ達がまた新しいステルス装甲を考えてくれているけれど、彼らの方が分母は大きいからね」


 リーダーは明確な言葉にしなかったが、俺には、俺達にはもう分かっている。

 こうして隠れ続けるのは、もう限界だ。本当は、これでなら――俺達が隠れ住んでいるこの宇宙船ならば、俺達が生きて、ポストヒューマンが寄生する地球ほしを遠く離れ、新天地を求めることは可能だ。


 しかし、結局、俺達は、愛しい人々こきょうを見捨てられはしなかった。




 俺達はやがて、大きなセクションに出る。

 そこは普段、多くの者達で賑わっている憩いの場だが、今そこに居るのは、先ほど見上げた黒と光の点在――宇宙空間に身を浸すように佇む、先ほど俺に水を渡した少女の後姿が一人分だけだ。

 彼女はよく手入れされた銃の表面のような眼差しをこちらに寄越して、感情の読めない表情のまま、目を細める。

「父さんに見つかっても知らないわよ」

「あぁ、しれっと涼しい顔で敵地に置いてけぼりくらいはされるかもな」

 むざむざ死ぬつもりもないけど。内心付け加える。

 少女の養父にして俺の師匠である赤毛のポストヒューマンは、筋金入りのリーダー心酔者で、リーダーにとって不利益となる存在には徹底して容赦がない。

 自覚さえしていなかった俺の感情にいち早く気付き、釘というには強烈過ぎる念を叩き込んでいった日の事は忘れられない。


 当時既に多少の潜入捜査程度なら、一人でも追っ手を切り抜けて戻ってこられると太鼓判を押されていたが、師匠はそんな俺を彼は、正しく赤子の手を捻るように捌いてしまった。その時よりは俺も成長したと自負しているが、それでも彼には未だに敵わない。


 リーダーに一礼した後、呆れたように俺を見る彼女の言い分は何となく分かる。その日の内にメディカル部門で繋げられ、とっくに痛みなどないはずの腕の骨が疼いたような気がして、リーダーの手を取った二の腕をさすった。


(お前が、あの方を望む事は赦さない)

 いつもどこか飄然とした翠の双眸が、あの時ばかりはまるで炎を宿しているようだった。そしてそのまま、重たい物など持ったことが無さそうな優美な形をしているくせにやたら力強い指が、容易く俺の腕をへし折った。


 ――この想いが恋なのか、憧れなのか、あるいは身の程知らずな哀れみや親しみなのか、明確な答えは未だに分からない。

 しかし、どことなくサイネリアに似たリーダーに、他の組織の人間に対してとは異なる感情があるのは確かだ。

 家族に笑っていて欲しい。それが俺の行動理念だが、最近そこにもう一つ加わった。リーダーにもう一度地上を歩いて欲しい。


 少女がため息混じりに空中に向かって何やら呟くと、宇宙空間――を映し出していたスクリーンが綺麗な青空に切り替わった。そうなると、途端にそこかしこに植えられた木々やらが生き生きと目に入ってくるのが、不思議といえば不思議だ。

 そしてそのまま彼女は軽い足取りでこちらに駆け寄ってきて、リーダーの空いた手の方に飛びついた。

「ご一緒してもいいですか?」

 先ほどまでの俺に対してのそっけなさが嘘のようにキラキラした眼差しでリーダーを見上げる。いつもの事ながら、父が父なら娘も娘だな!

 こうすることで、師匠の目を和らげてくれているのは分かっているが、正しく趣味と実益を兼ねるを地で行っている。師匠、仕事はきっちりするけど、組織内・機嫌悪い時近寄りたくねーランキング万年一位だから、怒らせまいと戦々恐々してるんだぞ。……一応。



 片やキラキラ、片やげんなりに左右を挟まれて歩き始めたリーダーは、俺達の顔を交互に見て、それからとても嬉しそうに笑った。

 その笑顔でまぁ、良いかと思ってしまう自分も大概イカレている。

 最近風物詩になりつつあるこの三竦みにこれまたお約束化しつつある野次に、すっかり慣れた切り返しを二人で飛ばしながら、リーダーの部屋までの距離を三人で埋める。


「わざわざ送ってくれてありがとうね。二人とも、良ければお茶くらいは出すよ」

「「ありがとうございます」」

 図らずも揃った言葉に微妙な表情になる俺達にリーダーはまた笑って、俺達を手招いた。

 香り高い紅茶と、パウンドケーキを中心に菓子を数種類囲んで、穏やかな時間を過ごす。

 話題は他愛のないものだ。鍛錬中に誰それが馬鹿をやった、携帯食が不味かった、そろそろ服がきつくなってきた。そんな事を話しながら、最近覚えたチェスを指したり、地上から持って帰ってきたクロスワードパズルを解いてみたり。


 こんな時間は、戦いに埋没する日々の中ではとても貴重で、とても愛おしい。




 平穏な日々をこの上なく尊いと気付くために、馬鹿な俺は大切なものを全て奪われなければならなかった。

 今、かつての大切なものはもう二度と元の形で戻ることはないけれど、新しく見つけた大切なもののために、今も大切なサリ達のために、今度は全力で以って牙を剥くと決めた。


 ポストヒューマンを完全に敵に回してシステムを破壊すれば、今の「秩序」は崩壊する。蘇生院も、恐らく機能しなくなるだろう。人類は、良くも悪くも輪の如く巡る現行の生死からは外れる事となる。

 空に上がった者の末路を知らない者達から「秩序」の崩壊者として憎まれたとしても、受け入れると決めた。無論、説明は惜しまないつもりだが、だからといって「真実」が全員に受け入れられるとも思ってはいない。


 自分達の起こそうとしている行動がエゴイズムの極まったものである事など、俺達は重々承知している。それでも、一人ではないと知っているから。

 だから、最後まで胸を張って生きると決めた。出来る事をしないで後悔する事だけは、もう二度としたくなかった。



 グッと膝に置いた手を堅く拳に握り締め、不思議そうに見つめてくる二人に、俺は笑う。二対の瞳に映りこんだ顔は獰猛で、そのくせひどく無邪気なものだった――――。

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或る双子の独白 蛇ノ目るじん @clump2196

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