水曜、放課後トーヒコウ

海野夏

喫茶店の二階に星空

 チャイムが鳴って先生が出て行くと、意味があるようで無意味な音が教室を埋め尽くす。

 授業中は自由にできていた息を、今から水泳でもするように不器用に吸い込む。表情を取りつくろう。

 それはクラスメイトの沙穂が駆け寄ってきて私の机の前にしゃがみ込むのとほぼ同時だった。あとから他の子もぱらぱらと付いてきて、私の席の周りに小さな人だかりができる。何かと一緒に行動することが多い、いわゆる、仲良しグループ。多分、友達。


(……そうやって立って囲まれると、息がつまるんだよなぁ)


 思っても言わないけど。


「美月、前に言ってた店今日行こうって話してたんだけど、来る?」

「あー……、すっごく惹かれるけど今日はパス。先に行ってリサーチしてて」

「あっは、あたしらは毒見役じゃねーっての」

「あぁ、今日水曜だから塾の日だっけ。大変だよねぇ、親が勉強勉強うるさいと」

「お疲れさまじゃん。その間に私らで楽しんでくるから。美味かったらまた一緒に行こ」

「うん、ありがと」


 私の言葉を最後まで聞いているのかいないのか、満足したらしい沙穂たちは戻っていった。


(ごめんね、嘘だよ)


 笑顔で手を振りながら、心の中で謝る。本当は言うほど真面目に塾なんて行ってない。いつも彼女たちの遊びに付き合うのが億劫なだけ。

 でも全てが嘘というわけでもない。本当に塾には通ってる。親が決めた、電車で数駅いった先にある、頭の良い人ばかりの塾だ。そう言うと私も頭が良いみたいか、でも私も頭は悪くないはず。先生は信頼してくれてるし。

 その塾へ、水曜日だけサボったり、遅れて行ったりしているだけ。塾の先生には委員会で、とか、先生の手伝いで、とか、もっともらしい理由を言ったら信じられてしまった。委員会には入っているけど、集まりなんてそんなに頻繁にはないし、先生の手伝いなんて、面倒くさいから滅多にしないのに。


 いつからか、他人から求められる「普通」に疲れてしまった。「普通」って何? そんなよく分からない「普通」から逃げたくて、私は時々言葉に小さな嘘を混ぜるようになった。最初こそ一瞬の自由と罪悪感に心が震えたけど、それもいずれ慣れるもの。

 どうでもいい、何もかも面倒な気分だけが残った。


「嘘吐き」

「あはは、ひどい」


 オレンジ色の教室にはもう私と、前の席で夕陽の差し込む窓に背を向けて座るクラスメイトの彼女——仮野かりのさんしかいない。私の一つ前の席は仮野さんの席で、さっきの私たちの会話も聞いていたようだ。多少席同士間隔は開いていると言っても、沙穂たちが集まったらいつも邪魔だろう。友達の私だって邪魔だと思うから。思うだけで、何も注意しないけど。

 仮野さんは私の嘘を知っている、ただ一人の人だ。

 放たれた、私を責めるような言葉は口先だけで、強い夕陽に呼応して濃くなる影の中、裏腹に彼女の目は強い感情を宿していなかった。彼女はそんなことで責めるほど、私に関心がないと言う。その無関心が心地いい。


「帰る? それとも塾行く?」

「んー……」

「じゃ、行こうか」

「どこに?」

「どこでも」


 水曜日の放課後に、彼女と二人で出かけるようになったのは、ほんの一ヶ月ほど前のことだ。友達の誘いを断って、塾にも行かないで、誰も遊んでいない公園で滑り台を滑っていたところを、偶然彼女に目撃されてしまった。


「何してるの?」

「……えっと、滑り台、滑ってました」

「そうじゃなくて、塾」


 訝しげな目を向けられて焦る。私たちの会話が聞かれてたのは仕方ない、あの距離なら聞こえないはずがないし。ただ、「普通」なら友達の誘いを断って、その口実の塾もサボって、小さい子のお守りでもないのに公園の滑り台を一人で堪能したりしない。マズいな、クラスメイトに見られるなんて。何と言って誤魔化そう。

 私の頭はこれからどう嘘をつこうかと算段を立てていた。それを断ち切るように、先に口を開いたのは彼女だった。


「サボったってことね。友達の誘いも嘘ついて断って。嫌いなの?」

「それは違、」

「ま、どっちでも良いか。暇ならちょっと付き合って」


 仮野さんは興味なさげにそう言って、滑り台の降り口にいる私を手招いた。本当に興味なさそうな目で、強いて言うなら早くしろと言われているような。するると滑り降りると、彼女はもう公園の出口へ足を向けていた。

 無視しても良かった。でも、彼女についていけば何かが変わると思った。

 初めてのその日は、学校の最寄り駅から少し歩いた先にある、薄暗い藪の中の小さな神社に行って、彼女のカメラで写真を撮った。塾には遅れて行った。

 次は海に行った。途中で雨が降ってきたから、帰りに銭湯に寄って、バニラアイスを食べた。

 その次は仮野さんが行きたかった展示を見に行ってから塾に行った。

 その次は適当な電車に乗って終点まで行って帰ってきた。

 一つ一つ鮮明に思い出せる。友達と遊びに行ったことを思い出すのとは違って、彼女と出かけたことを思い出すのは億劫じゃなかった。どうしてだろう。いつも決まった遊び場じゃないからか、私が記憶違いをしていても仮野さんは咎めないからか。他の子とだったら、一緒に行ったところはしっかり覚えていようとするのに。

 私の生活は少し変わった。と言っても水曜日だけだけど。それ以外は私たちは普段通り、必要最低限の連絡事項しか話さなかった。避けてたとか、そういうわけじゃない。必要がなかっただけだ。

 水曜日だけ、彼女の前での私は、全然良い子じゃなかった。


「仮野さんの影響で不良になっちゃった」

「じゃあ真面目に塾に行けば?」

「それはやだ」


 椅子を押して出口に向かう彼女の姿をぼうっと見ていたら、その視線を感じたのか、「早く来い」と言わんばかりの冷めた目で見られた。


「待って、今行く」


 前を歩く、私より少し低い位置にポニーテールの黒髪が揺れる。それが艶やかな毛並みの尻尾みたいで、思わず掴みたくなる。と、不穏な視線を感じたのか彼女が振り返る。


「……掴まないでよ?」

「はぁい」


 そうして連れて来られたのは、学校のすぐ近く、大通りから一本入った路地の寂れた商店街だった。夕方だからちらほらと人はいるけれど、シャッターが閉まったままの店も多いからか、少し寂しい。

 普段、沙穂たちとこのあたりで遊ぶときは大通りのもう少し先にあるアーケード街ばかりだから、こっちに来たのは初めてだ。あっちも少し前は寂れていたらしいけど、偉い人がお金を出してお店や道路や装飾なんかを全部綺麗にしたらしい。新規開拓とか言って流行の店がたくさん並ぶようにしたと、高校入学前に少しニュースで取り上げられているのを見た気がする。うちの高校やもう少し大通りを行った先にある大学からも比較的近く、若者向けの人気スポットとして賑わっている。だから、知り合いにもよく出くわすのだけど、私はそれが苦手だ。そういうところは、友達にはあまり理解されない。


「何でこっちなの?」

「嫌?」


 どこか目的があるように先を歩いていた仮野さんが足を止める。


「嫌ではないけど。気になって」

「そう」


 私の答えに軽く頷くとまた歩き始める。


(理由は教えてくれないのかな)


 残念。そう思っていると、


「あっちはあなたの友達がいるかもしれないでしょ」

「そういえばそんなこと言ってたっけ」


 どこの店か興味なくて忘れてた、行ったこともないし。……あぁ、その行く機会は私が断ったんだった。


「ほんとに興味ないね。仮にも友達なのに」

「みんなそんなものでしょ」

「さぁ。私は友達の話はちゃんと聞くけど」

「そうでなくてもよく聞いてるもんね」

「でなきゃあなたを誘ったりしないよ」


 それもそうか。

 私と違って、彼女にとって話を聞くことと興味の有無は関係がないらしい。私は必要なこと以外興味が無ければ聞き流してしまうから、単純にすごいなと思う。彼女はその違いさえどうでも良いと受け流すけれど、この無責任な関係のおかげで人間に戻れるような気がする。

 彼女が友達でなくて良かった。


 仮野さんはやがて一軒の喫茶店の前で足を止めた。


「ここ? クローズドって書いてるけど」

「あぁ、良いの良いの」


 入り口のドアは鍵が開いていて、薄暗い中、カウンターのオレンジの灯りだけが店内を照らしている。そこにいたのはこの喫茶店の店主らしい、エプロンを付けたおじさんだった。


「二階、良いですか?」

「今は開いてるよ。一時間で良いかい」

「お願いします」


 何の話だと思っていると、仮野さんはおじさんにお金を払い、私の手を掴んで入り口の脇の階段を上がっていった。ごゆっくり、というおじさんの声が聞こえる。

 二階へ続く階段は、深い藍色の壁紙を明るい黄色の絵の具で汚したような、妙なデザインだ。ただ、その絵の具に何か混ざっているのだろう。店の方と違って、青白いランプの光が当たると角度によってきらきらと光る。一面銀河になったようにも、見ようと思えば見えるのかもしれない。踊り場で見えた彼女の横顔は艶めいて見えたけど、それもきっと錯覚だ。


「一時間も二階で何するの? 仮野さんったらいかがわしい」

「何考えてるのよ、あなたの方がいかがわしいじゃない」


 冗談まじりに疑問をそのまま口に出せば、呆れたように視線を向けられた。

 いつもの仮野さんだ。少しほっとして、錯覚か、とひとりごちる。


「ほら、入って」

「やだ変なとこ触らないで~、ってごめんごめん。入るから怒らないでよ」

「馬鹿」


 二階に上がると、矢印の描かれた置き看板が一つの部屋の方を指していた。

 仮野さんはその部屋の扉を開けると私を部屋に押し込む。足を踏み入れると、床に薄いマットが敷かれているのか、わずかに柔らかい。窓には遮光の分厚いカーテンがかかっているらしく、灯りのない部屋を廊下からの光が四角く切り取っていた。

 仮野さんの反応から見て違うと分かっていても、妙なシチュエーションだ。


「好きなところに寝転がって。クッションもあるから枕にして良いよ」

「待って待って、いよいよマズいんじゃない?」

「マズくないから。扉閉めるよ」


 戸惑う私をよそに、入り口前に立っていた彼女のシルエットが暗闇に溶ける。ちょうどいい温度を保つ空調の音と、彼女の動く衣擦れの音、二人分の呼吸の音。見えないから音がよく聞こえる。私の心臓の音も聞こえてしまいそうだ。


「仮野さん、いる……?」

「いないって言ったらどうするの? もう横になったんなら始めるけど」


 カチャッと、多分鍵を閉めた音に肩が跳ねる。パチン、と何かのスイッチを入れた音がして、私の場所を探るように彼女の気配が近づいてくる。始めるって何? 彼女が言うから横になったものの、息をひそめて両手で口元を覆って、仮野さんから隠れる。

 見つかるのが怖いような、……見つけてほしいような。

 トン、と肩に何かが触れた。


「っ、びっくりした……」

「あぁごめん。もう始まるから、天井見てて」


 淡々と紡がれる声。彼女は私の隣で横たわっていた。

 小さな音で音楽が流れだし、導かれるように天井を見上げると、ぽつ、ぽつ、と小さな光が天井に現れた。それは次第に増えていき、真っ暗な天井が満点の星空になった。


「看板に、オリジナルプラネタリウム上映中って書いてたの、見てなかった?」

「えっ、あぁー……、見てない。前の人の背中ばっかり見てて」

「だと思った」


 笑うような息遣いが聞こえる。彼女が今どんな顔をしているのか、横を向いても明かりが足りなくてよく分からない。表情が分からないのが怖い。


「ここの店長さんがプラネタリウム作りが趣味らしくて。これも自分で作ったんだって。で、自分だけで使うのも何だから、ってことでここの喫茶店の客にだけ見せてくれるんだ。……、何?」


 彼女の手を探して、握る。少し冷えて、小さな手だ。

 訝しげな声を無視して、きゅっと力を込める。彼女の視線がこちらを向いている気がした。握った手を持ち上げて、頬擦りしても彼女は何も言わないで、ただ私のさせるままにしていた。


「仮野さん、何考えてる?」

「こいつ何なんだろうって」

「あはは、酷い。……で、仮野さんはここに何度も来てるの?」

「……喫茶店は何度か。プラネタリウムは気になってたけど、今日が初めて」

「私と来るために取っててくれた?」


 ハァ、と大きなため息が聞こえたけど、彼女は手を振り払わなかった。

 ……優しいから。


 小一時間、そのまま並んで横になって、天井を見上げていた。よくあるプラネタリウムとは違って、ここのは製作者のこだわりというか、よく凝っていた。物語のある構成は、音楽で場面転換して、セリフは何もないのにストーリーが伝わってくる。星だって天井のシミみたいにぼんやりしていないし、さっきの店長さんがプラネタリウム作りに熱心なのがよく分かった。


「お金取るだけのことはあるよね。素人の工作だったらどうしようかと思ったよ」

「あれね、終わって下に行ったら、ジュースでもコーヒーでも一杯飲ませてくれるんだってさ。ワンドリンク制」

「わぁ、こんな寂れた商店街で聞く単語とは思えないね」

「……いい加減放したらどう?」


 廊下、階段を通って下におりながら、会話を投げて誤魔化していると、いい加減にしろと睨まれた。ずっと繋いだままの手を、踊り場でもう辛抱できないというように振り払われてしまった。あーあ。


 プラネタリウム鑑賞一回五百円、ドリンク付き。

 オレンジジュースをもらった後、店の外に出たら仮野さんが言っていた通り、看板にそう書かれていた。五百円、ということは、彼女は二人分払ってくれたのだろうか、彼女はさっきお札を取り出していたような……。知らなかったとはいえ悪いことをした。財布を取り出そうとカバンをごそごそしていると、


「お金なら良いよ。おまけしてくれたから、一人分だけの値段だったんだ」


 あなたは私のおまけね、と言う仮野さんの言葉は、本当なのか、お金のやり取りがわずらわしいからついた嘘なのか。……私のために、なんてことはないだろうし。

 どうして私をあちこち連れて行ってくれるのか、とたずねたことはない。放課後の奇妙なおでかけが終わってしまいそうで怖い。だから彼女の目的は分からないけど、きっと一人で行きにくい場所への道連れなのだと思うことにしている。私は逃避したくて、彼女は道連れがほしくて。都合の良い関係だ。

 いつ終わるかも分からない、責任のいらない関係。だからできる限り長く続いてほしい。


「じゃあ今度は、私が何かおごるよ。覚えてたら」

「期待はしないでおくよ。で、どうする?」

「うーん、名残惜しいけど、……いってきます」

「いってらっしゃい」


 私の返事を聞いた仮野さんは、早々に背を向けて歩き出していた。いってらっしゃいと言われたのは私の方なのに、まるで私が見送っているみたいだ。

 でも、名残惜しさ皆無の後姿のおかげで、今日も私は良い子に戻れる。


 仮野さんは友達じゃない。友達なんかじゃない。

 友達は、もっとどうでも良いから。

 いつかこの関係が終わるまで、どうか私を友達にしないで。

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水曜、放課後トーヒコウ 海野夏 @penguin_blue

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