第42話


 以前の寧々子であれば、人が往来するテラス席なんて絶対に選ばなかった。

 人からチラリと見られるのがあれほど嫌だったというのに、今は堂々としていられる。


 何かを言われたとしても、雑音だと聞き逃すことが出来るのだ。

 

 久しぶりに姉と共に駅前のカフェへとやって来ていた。

 姉の友人である葵がアルバイトをしているお店で、落ち着いた雰囲気で姉妹共々気に入っている。


 「最近ましろとはどう?」

 「仲良いよ」

 「そっか…あ、発情期はもうきたの?」


 声を潜めながら尋ねられて、コクリと頷いて見せれば、姉がホッとしたような表情を浮かべる。

 発情期が訪れるのは健康に成長している証なのだ。


 「本当?よかったじゃん…」

 「けどびっくりした…自分の体なのに、全然抑えが効かなくて…」

 「最初は驚くかもだけど、そのうち慣れるよ」


 レモンティーをストローで一口のみ込めば、爽やかな風味が口内に広がる。

 以前はアイスコーヒーばかり飲んでいたというのに、ましろに影響されてメニューにあるとつい頼んでしまうのだ。


 「けど、戸惑わなかった?」

 「そりゃあ、あんなの初めてだったし…」

 「そうじゃなくて…発情期の後って、記憶があやふやになるから」

 「え……?」


 初めて聞く話にぴたりと動きを止める。

 戸惑う寧々子に、姉は丁寧に説明を続けていた。


 「まあ、冷静じゃないし…熱にうなされてるようなものだから、記憶が飛んだりすることがあるんだよ」

 「…じゃあ、私も何か忘れてる可能性があるってこと……?」

 「全員が全員そうじゃないけどね。けど私も初めての発情期の後は、結構色々忘れちゃってて…」


 戸惑ってパニックに近かったし、と恥ずかしそうに姉ははにかんでいた。


 姉と同じく、寧々子もあの時決して冷静ではなかった。

 突然発情状態になって、自分が快楽を得ることばかり夢中になっていた。


 初めての行為の最中。

 寧々子が幸せな気分に包まれていた行為の間、ましろはどんな気持ちだったのだろう。


 彼女がどんな顔をしていたのか、何も覚えていない。


 行為の時の記憶は所々あやふやで、気にも止めていなかったけど、もしかしたら大切な何かを見落としているのではないかと、初めてその可能性に気づいたのだ。





 自分の身に起こった出来事のはずなのに、一体何を忘れているのかが分からない。

 どれだけ頭を捻っても、そもそも覚えていない記憶がどれなのか、忘れている状態で分かるはずが無いのだ。

 

 ため息を吐きながら公園前に差し掛かったとき、唯一の友人から声を掛けられる。


 「寧々子お姉ちゃん!」

 

 小走りでこちらに駆け寄ってくるルルは、どこか緊張したような表情を浮かべていた。

 

 以前お気に入りだと言っていたスカートを、皺になるほど握りしめている。

 

 「お姉ちゃんが通り掛かるのずっと待ってたの」

 「今日遊ぶ約束してたっけ…?」


 ゆるゆると、ルルは首を横に振っていた。

 一体何の用なのかと、戸惑ってしまう。


 「…ね、寧々子お姉ちゃんって口かたい?」

 「どうしたの急に」

 「いいから答えて!」

 「そもそも友達もルルちゃんしかいないから…お喋りな方でも無いと思うよ」


 辺りをキョロキョロと見渡してから、ルルは軽く屈んで寧々子の耳元に口を寄せた。


 内緒話をするような小さな声で言葉を漏らす。


 「……一緒に来て」

 「え…?」

 「はやく」

 「どこ行くの…?」

 「……寧々子お姉ちゃんの悲しい顔、もう見たくないから」

 「どういうこと……て、ちょっとルルちゃん……!」


 すべてを言わずに、ルルが寧々子の腕を掴んで走り出す。

 彼女の方が背は高いため、歩幅が違うせいでついて行くのがやっとだ。


 そもそも、小学生のルルと家に引きこもってばかりの寧々子では体力は雲泥の差だろう。


 息を乱しながら必死に足を動かしていれば、5丁目の一軒家の前でようやくルルは足を止めた。


 洋風で年季の入った建物は、どこか立ち入りづらい雰囲気を放っていた。

 ガーデニングが施されていて綺麗だが、咲き誇るバラの棘が人の立ち入りを拒んでいるように見える。


 「ここって…」

 「誰にも言っちゃダメだよ?」

 「誰が住んでるの?」

 「魔女さん」

 「え…!?魔女って…」

 「声大きいよ!」


 公には出来ない秘密なのだと察して、すぐに謝りの言葉を入れる。

 吸血鬼に、犬族や猫族がいる世の中だ。


 魔女がこの世に存在していたとしても、不思議ではない。


 「私もママに連れられて2回しか会ったことないんだけど、魔女さんが住んでるの。会えば分かるよ」


 インターホンを押せば、女性の声が返ってくる。声色からして、かなり若く感じた。


 魔女と言っているから、年を重ねた女性を想像していたのだ。


 『はい』

 「ルルだよ」

 『どうしたんですか?』

 「お願いがあって来たの」


 入るように促されて、ゆっくりと門を開く。

 バラの生い茂った道は、やはりどこか浮世離れしていて。


 ごくりと生唾を飲んでから、意を決してルルと共に足を進めた。

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