第36話
ビーチサンダルは砂まみれになっているというのに、不快感よりも喜びの方が優っている。
好きな人が隣にいて、右手は温もりに包まれている。
それだけで、きっと寧々子はどんな状況下でも幸せを感じてしまうのだろう。
人気の少ない方を選んで歩いていたため、辺りに人は殆どいない。
プライベートビーチでもないためいつ人が来るか分からないというのに、まるで二人きりのようだと胸を高鳴らせていた。
浜辺に二人並んで座りながら、ぼんやりと海を眺める。
「バーベキュー美味しかったですね」
「だね、けど…」
もうすぐ時刻は17時を迎えるため、彼女が言わんとしていることを察する。
吸血鬼の彼女はどれだけ食事をしても、血液を飲まない限りお腹いっぱいにはならないのだ。
「…飲みますか?」
「…外なのに良いの?」
たとえ誰かに見られても、側にましろがいればちっとも気にならない。
万が一吸血行為を咎める言葉を吐いてくれば、怖がりながらも身を挺してましろを守るだろう。
酷く格好悪いやり方だったとしても、必死にましろを守ってあげるのだ。
「…前の私だったら、出来なかったよ」
「え…」
「誰に見られるかも分からない場所で吸うなんて…もし、人に見られて化け物扱いされたらって…怖くて吸えなかった」
首筋に顔を埋められて、くすぐったさで身を捩る。
チュウッと血を吸われながら、恐る恐る言葉を漏らした。
「あの…その…えっちな気分になると、猫耳と尻尾が出ちゃうので…いやらしいことはしないでもらえると……」
口を離した彼女は、口角を上げてクスリと笑みを零した。
「分かってるよ」
宣言通り、ただ噛みつくだけで他の部分を舐め上げてはこなかった。
それが本来の吸血行為であるはずなのに、どこか物足りなさを覚えてしまう。
彼女に触れられる感覚に体が慣れたせいで、邪なことを考えてしまっているのだ。
「ネコちゃんの可愛い姿、他の人に見られたくないもん」
可愛いと言われるだけで、こんなにも胸が擽られる。
キュンと胸が高鳴って、体がじわじわと温かくなっていくのだ。
同時に、「ネコちゃん」という呼び名が気になってしまう。
かつては愛称として呼ばれるのが嬉しかったと言うのに。
どんどん、我がままになってしまっている。
「私の名前、寧々子です…」
「知ってるよ」
「そうじゃなくて……な、名前で…呼んでもらいたいなって」
「ネコちゃんは嫌だった……?」
「そうじゃなくて……い、いまの無しです。なんでもないから気にしないでくださ……」
最後まで言い終えるより先に、唇にキスを落とされる。
散々舌を絡めるキスを彼女としたくせに、ただ触れるだけでも恥ずかしくて仕方ない。
「寧々子」
きっと今の寧々子は耳まで赤くさせて、頬だってだらしなく緩んでいる。
猫耳と尻尾を出さずに済んだだけ奇跡だ。
ただ手のひらを合わせていただけの手つなぎが、指を絡めたより密着したものに変わる。
「じゃあ私のこともましろって呼んでよ」
「呼び捨ては流石に…」
「じゃあ、ちゃんは?」
「ましろさんじゃダメですか…?」
「いいね、それ」
心の中で「ましろさん」と呼べば、どこかしっくりくる。
ずっと先輩と呼ぶのも距離があるようで寂しかったため、特別な権利を与えられたようで喜んでしまっていた。
「……あの」
彼女にどこまで踏み込んでいいのか、いまだ分からない。
手探りで進んでいく状況がずっと怖かったけれど、何もしなければずっとこのままなのだ。
彼女のことが好きだからこそ、僅かでも足を踏み出したい。
緊張で胸を早くさせながら、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「ましろさんは好きな人いますか?」
意外な質問だったのか、彼女の瞳がゆっくりと見開かれる。
時間にしたら数秒だろうに、ましろが口を開くまで数十秒掛ったのではないかと錯覚するほど、時間が長く感じてしまっていた。
「……いるよ」
ドクンと心臓が嫌な音を立てる。
ときめきよりも、緊張で心臓がギュッと締め付けられていた。
一体それは誰なのだろう。
もしかしたら寧々子だったりしないだろうかと、最近の彼女の態度を見ていると期待してしまう。
「寧々子は?」
「私も、います…」
ましろさんですと言えば、どんな反応を示すだろう。
同じ気持ちだと抱きしめて欲しいけれど、もし「勘違いさせたならごめん」と言われたら立ち直れない。
そうすれば、きっと一緒にもいられなくなる。
自分に好意を寄せる女の子をこれ以上勘違いさせないために、ましろは寧々子から距離を取るだろう。
「…この話、もうやめよう」
「え……」
「葵からそろそろ帰るって、メッセージ入ってたから。行こう」
握り込まれる手の力が、先程よりも僅かに強いような気がした。
彼女の半歩後ろを歩きながら、じっと綺麗な黒髪を眺める。
ましろは好きな人がいて、その相手は寧々子であって欲しいと思うけれど、結局のところは分からない。
踏み込んで、もし拒否をされたら。
最悪な結末をすると足がすくんで、結局その場で足踏みをするばかり。
強くなったつもりでも、寧々子はまだまだ弱くて。
傷つくことを恐れて、怯えてばかりいるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます