第30話


 あらかじめ規定量に測っておいた材料をボウルに入れて、ぐるぐるとかき混ぜていく。


 パンが好きなあの子のために、学校から帰ってくる前にちぎりパンを作っていた。


 ホームベーカリーがいらない初心者向けのレシピと睨めっこしながら、慣れないパン作りに励む。


 生地をこねて丸めた後、時間を置いて発酵をして、予熱したオーブンでじっくりと焼いていた。


 喜んでもらいたい一心で、手間暇かけて作ったちぎりパン。

 焼いている間にサラダとシチューの準備をしていれば、学校から彼女が帰ってくる。


 作るのに夢中で、時刻はすっかり夕暮れ時を迎えていた。


 「おかえりなさい、ましろ先輩」

 「ただいま……あれ」


 スンと香りを嗅いで、ピンときたのかましろが嬉しそうに顔を綻ばせる。


 「良い香りする」

 「パン焼いてみたんです」

 「覚えててくれたんだ」


 好物をわざわざ覚えて作る様子は、ましろから見てどう映っているだろう。

 ただの同居人にしては尽くしすぎだと、変に思われたりしないだろうか。


 焼きたてのパンを丁寧にお皿に並べてから、いつもより少し早い夕ご飯にする。

 ふわふわに焼き上がったパンを一口食べる姿を、ついチラチラと盗み見てしまっていた。


 「美味しい…ネコちゃんって本当料理上手だね。寧々香はそこまでなのに…」

 「お父さんは仕事で忙しくて…お姉ちゃんも部活とか色々あったから、家事は私がしてたんです。その…友達もいなかったので」


 ろくに友達もおらず、暇さえあれば猫と戯れてばかりいた。

 だからこそ、たまに姉がましろを連れてくるのが楽しみで仕方なかったのだ。


 中学も同じだったが、姉とましろが仲良くなったのは高校生から。


 彼女が中学校を卒業して、もう2度と会えないと思っていた矢先に姉がましろを引き連れて家に帰ってきたときは、衝撃で本当に心臓が止まるかと思ったのだ。


 「ネコちゃんと友達になりたい人なんて沢山いるよ」

 「どうでしょう…?」

 「大丈夫だって。私が保証する」


 食事を済ませてから風呂場へ向かおうとすれば、すれ違い様に腕を掴まれる。

 僅かに熱を宿した瞳を見て、言わずとも彼女の意図を理解した。


 「…先に飲んで良い?」


 コクリと頷けば、嬉しそうにましろがこちらに向かって両手を広げて見せる。

 恐る恐る近づけば、ギュッと体を引き寄せられて、彼女の温もりに包み込まれた。


 至近距離で、絶妙にもどかしいタッチで首筋をなぞられていた。


 「…綺麗な肌、こんなにしちゃってごめんね」


 寧々子の首筋は吸血痕が至る所についていて、マフラーやストールを巻かない限り隠すことはできない程だ。


 それが彼女の証のようで、寧々子は鏡を見るたびに愛おしさをこみ上げさせていた。


 「ましろ先輩にだったら…いくらでも…」


 軽くはにかみながら返事をすれば、何の許可もなく唇を奪われる。

 

 ふわりと触れた柔らかい感触。

 何度しても慣れないキスに、気づけば猫耳と尻尾を露わにしてしまっていた。


 いつもだったら猫耳に触れて揶揄ってくるだろうに、今日のましろはどこか真剣な瞳をしていた。


 「…な、なんでいまキスしたんですか…?」

 「…ネコちゃん」


 名前を呼ぶだけで、寧々子の問いには答えてくれない。

 いまだに彼女の熱を覚えている唇は、緊張で僅かに震えているような気がした。


 「友達同士でも…キスってするんですか…?」

 「……するよ」

 「本当に…?」


 寧々子は友達がいないから、それが本当かどうかなんて分からない。

 そんなはずがないと思いながらも、完全に否定することが出来ないのだ。


 「…じゃあ、お姉ちゃんとも…葵さんや花怜さんとも、キスするんですか…?」

 「ネコちゃんにだけだよ」

 「…っなんで。ましろ先輩、今回が初めてじゃないですよ……?何回も、何回もどうして……?」

 「…特別な友達にだけするキスだから」


 グッと顔が近づけられて、鼻先が触れてしまいそうなくらいの至近距離。

 相変わらず、肌荒れ一つないきめ細やかで綺麗な肌をしていた。


 「……気持ち良いキス、したことある?」

 「…前、ましろ先輩がしたじゃないですか…」


 体育祭の日。

 吸血行為を済ませてすぐに、彼女に濃厚なキスをされた。

 息継ぎをするのに戸惑ってしまうくらい、初めての深いキスは衝撃的だったのだ。


 「……初めてのディープキスだったのに、血の味がしました」


 あんなキス、吸血鬼相手でなければ味わうことが出来ない。

 自分の血を間接的に移されるようなキスは、どこか不思議な感覚だった。


 顎をすくわれて、角度を変えながら彼女の顔が近づいてくる。

 何をされるか分かっていたのに、寧々子は気づかぬふりをしてそっと目を閉じていた。


 好きな相手からの口づけに、欲深い寧々子は飢えているのだ。


 「ンッ……」


 半開きになっていた口に、当然のようにましろの舌が侵入してくる。

 柔らかい舌同士を絡ませあって、続いて彼女の舌で歯列をなぞられていた。


 途端にゾワゾワとした快感がこみ上げて、こんな所で心地よくなれるのかと快感にうなされながら考えていた。


 「んっ…んっ…ぅ」


 互いの唾液が唇の端から零れ落ちても、口づけをやめずに彼女を求める。

 ましろの肩に手を置いて、体をより密着させながら深い口づけを味わっていた。


 そっと唇が離れていってからも、余韻から僅かに意識を朦朧とさせてしまっていた。


 「だから、なんで……」

 「……上書き?」


 初めてのキスが血の味何て、可哀そうだとでも思われたのだろうか。

 そもそもどうして、ましろは寧々子にキスをするのだろう。


 最初は、寧々子の反応を面白がっていたからだ。

 恥ずかしさで猫耳と尻尾を露わにする姿のために、彼女は触れるだけのキスを落としてきた。


 だけど、今寧々子は猫耳と尻尾を露わにしているにも関わらず、彼女は目もくれていない。猫好きの彼女が、それよりも寧々子の唇に夢中になっているのだ。

 

 第一キスをする友達なんて、本当にいるのだろうか。


 「吸うね」


 首筋に顔を埋められて、チクンとした痛みがした後に血を吸われる。

 両手でましろの服の裾を掴みながら、期待している自分がいた。


 もしかしたら、少しでも寧々子を意識してくれてはいないだろうか。

 以前とは違う、また別の感情を抱いてくれているのではないだろうか、と。


 時折漏れる彼女の息遣いにドキドキしながら、どんどん彼女に惹かれてしまう。


 今までは、ただ彼女を見つめているだけで満足していたはずなのに。

 気づけば同じ想いを返して欲しいと、何とも不相応な考えに囚われてしまいそうだった。

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