第19話


 大きめのスーツケースにスキンケア用品や下着、お気に入りのフレグランスに洋服を目一杯詰め込む。


 冬服は入りきらなかったため、また衣替えの季節にでも取りに来なければいけない。


 土曜の朝早く、いまだパジャマ姿の父親に声を掛ける。


 「じゃあ、行ってきます」

 「寂しくなったらいつでも帰ってきなさい」


 それだけ言い残して、すぐに新聞に目線を移してしまう。


 最寄駅は同じだが、これから別々に暮らすというのにあっけない別れの挨拶だ。


 「お父さん寂しいんだよ。まさか私より寧々子が先に家出るとは思わなかったんでしょ」


 無事に吸血パートナー関係を契約したため、これから寧々子は彼女のパートナーとしてましろの家で暮らす。


 契約規約にも、原則パートナー同士は共に暮らして、吸血鬼の健康な食生活をサポートするように記されているのだ。


 「まさか、ましろが吸血鬼だったなんて…」

 「お姉ちゃんも知らなかったんだ…」

 「もちろん、私も葵も…花怜だって、みんな知らなかったの。3年間一緒だったのに」


 学校の休み時間はいつも皆んなと同じようにパンやお弁当などを食べて、血液パックを飲んでいる姿なんて一度たりとも見たことがないと言う。


 吸血鬼も人間と同じように味覚はあるが、それは栄養にはならない。


 彼らの主食は血液で、それを摂取しない限り生命活動は維持されないのだ。


 「喧嘩とかしたら、いつでも戻っておいで」

 「お父さんと同じこと言ってるよ」

 「だって寂しいじゃん!ねえ、本当に行っちゃうの?」


 名残惜しそうな目をする姉と強くハグをして、こまめに連絡するように約束してから家を出る。


 スーツケースをガラガラと転がしながら、好きな人との同居生活に僅かに胸を膨らませていた。






 吸血パートナー関係は吸血鬼と吸血される人間が満16歳を満たしていれば、保護者の了承さえあれば取り交わす事ができる。


 互いの両親があっさりと判を押してくれたことで、とんとん拍子に事は進んでくれたのだ。


 同棲生活初日。

 彼女からすれば同居でしかないだろうが、寧々子はこっそりと同棲のつもりでいるのだ。


 この日は片付けで色々と忙しかったため、近くのコンビニで買ってきたハンバーグ弁当を夕飯として食べていた。


 ローテーブルの向かい側では、ましろが美味しそうに血液パックを飲んでいる。


 「…あの、ましろ先輩」

 「ん?」


 ストローで血液をチュウっと美味しそうに飲み込む姿。


 何百年前の吸血鬼からすれば信じられない光景で、きっとこれが現代の吸血鬼の姿なのだ。


 「いえ…」

 「血生臭かった?」

 「そうじゃなくて…」


 彼女と吸血パートナー関係を結んで、寧々子は腹を括っていたのだ。


 毎食彼女に首筋を噛みつかれて、血を吸われる覚悟でこの家にやってきたというのに、ましろは以前として政府から配給された血液パックを飲んでいる。


 しかし、それを指摘するのもどこか気恥ずかしい。

 私の血を飲んでくださいなんて、どう伝えれば良いか分からないのだ。


 「吸血パートナー関係を結んでも、血液パックってもらえるんですか…?」

 「そう、吸血鬼に対して本当手厚いからね」

 「じゃあ、ましろ先輩が吸血行為をしたのって…前が初めてですか?」

 「そうだよ」


 つまり、ましろにとって生まれて初めての吸血相手になれたのだ。


 そんな些細な事に、単純な寧々子は胸をときめかせる。


 「血液パックと直接吸血するので味が変わるって知らなかったよ」

 「え……」


 吸血鬼でなければ分からないだろう、血液の味。

 その違いにどんな意味が込められているのか、聞くのが怖い。


 寧々子の血は美味しくなかったのだろうか。

 美味しくないから、目の前にいるのに吸ってもらえないのだろうか。






 お気に入りの白色のルームウェアの裾を、キュッと握り込む。


 お風呂から上がってドライヤーも全て終わった時には既に夜遅く、このまま眠りにつく事になったのだが。


 「いっ、一緒に寝るんですか…!?」

 「だってうち、客用布団もソファもないし」


 当然のようにベッドルームへ連れて来られて、何も気にしていない様子でましろはさっさとベッドに横たわる。


 以前寧々子の家に泊まった時も、ましろは恥ずかしがらずに2人で眠ることを受け入れていた。


 意識していないから、寧々子と一緒に眠っても恥ずかしくも何ともないのだ。


 「早く寝ようよ」

 「は、はい…」


 何度かましろの家に訪れた時、このベッドを見るたびにドキドキしていた。


 普段ましろはこのベッドで眠っているのだと考えて、あわよくば一緒に横たわりたいと邪な感情に駆られていたのだ。


 その願望は叶ったのに、2人の想いは通じ合っていないまま。


 シングルベッドは当然2人で眠るには狭く、所々体が触れ合ってしまっていた。


 「狭くないですか…?」

 「狭いけど平気」


 向かい合わせの状態で、すぐ側にはましろの端正な顔がある。


 ましろの真っ黒な黒髪と、寧々子の白髪が重なって互いの色が混ざり合っていた。


 「本当ネコちゃんは変わってるね」

 「え…」 

 「私なんかとパートナー関係結びたがるんだから」


 ましろこそ、よく寧々子とパートナーになってくれたものだ。


 彼女ほど魅力的な女性であれば、その座を狙う人なんて老若男女問わずいるだろうに。


 綺麗な黒目がちな瞳を見つめながら、寧々子は不安に思っていた言葉を口にした。


 「私の血美味しくなかったですか…?」


 好みじゃなかったから、今夜飲んでくれなかったのか。


 採れたての血ではなくて、採取されて時間が経ったものを選ぶのか。


 たとえどんなに乱暴な吸われ方でも、ましろ相手であれば構わないのに。

 

 「…どうして?」

 「今日吸ってくれなかったから…」


 ボソボソと声を溢せば、上体を起こした彼女によって覆い被さられる。


 ベッドの上で好きな人に押し倒されているかのような状況に、一気に頬を赤らめた。


 「……痛くなかったの?前吸われた時」


 ほんの僅かに痛みはあったが、それ以上にましろに吸われている状況にドキドキしていた。


 「…痛かったけど…それよりも嬉しかったです」

 「……ッ」


 以前とは反対側の首筋に、彼女が顔を埋める。


 狙いを定めるかのように舌でペロペロと舐められる感触が、擽ったくて仕方ない。


 唇を軽く噛みながら、勇気を出して彼女の背中に腕を回す。


 噛みつかれる痛みを想像して、ギュッと目を瞑った。


 「んっ…ッ」


 一際強く吸いつかれるが、それだけで噛みつかれはしない。


 顔を上げた彼女はこちらを見下ろしながら、いたずらっ子の様に笑ってみせた。


 「今はお腹空いてないから」


 きっと、凄く期待した目をしていただろう。


 ましろに吸われたくて堪らない寧々子は、物足りずにもどかしさを覚えていた。


 首筋に触れれば、彼女の唾液でわずかに濡れている。


 「また、今度ね」

 

 その今度は、いつ来るのか。

 吸われている間は、ましろの熱を感じられる。


 彼女の舌の感触も、柔らかな髪も。


 今の寧々子はそうでもしないと、彼女と密着することが出来ないのだ。


 首筋を舐められて、本当は期待していた。

 

 唇でも、体でも。


 そのまま舌が移動して、あらぬ所を舐めてほしいと欲を込み上げさせていたのだ。

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