第10話
自宅に帰ってきてすぐにリビングへ向かえば、そこには珍しく父親の姿があった。
仕事が忙しいため、平日はいつも夜遅くに帰ってくる父が、この時間にいるのは珍しい。
また、ソファに腰掛けている姉もどこか普段と違う様子だ。
気まずそうな表情に、違和感を覚える。
「お姉ちゃんたち、もうご飯食べた?」
「寧々子、そこ座りなさい」
被せるように父親が発した声は、どこか真剣さが滲んでいた。
戸惑いつつ、ダイニングテーブル前の椅子に腰を掛ける。
「なに…?」
「……寧々子も今年で16歳だから、発情期がいつ来てもおかしくない」
前々から言われていたこと。
姉からも、何度も口うるさく恋人を作っておけと言われていたのだ。
ずっと目を逸らしてはぐらかしてきたが、いずれ向き合わなくてはいけないことを、寧々子だって分かっていた。
「今週の土曜日に
「誰それ…?」
「猫族の男の子で、寧々子の一つ上だ」
何を指しているか察して、嫌だと首を横に振る。
「会いたくない……」
「酷だけど、発情期は一人で乗り越えられるものじゃない。パートナーがいないと…辛いのは寧々子だぞ」
「でも、好きでもない人となんて…」
「顔も知らないやつよりはマシだろう」
何も言い返す言葉がなくて、ギュッと下唇を噛み締める。
好きじゃなくても、想いが通じ合っていなくても。
体を重ねることは出来ると、16歳にもなれば理解できる。
それでも、心は到底納得できるはずもない。
「土曜日だからな。うちに迎えに来てくれる予定だから…一度、顔だけでも合わせておきなさい」
それだけ言い残して、父親はリビングを後にしてしまった。
顔色を青ざめさせる妹に、姉が優しく声を掛けてくれる。
あやすように背中を擦ってくれるおかげで、僅かだが心が温まっていた。
「寧々子…」
「お姉ちゃんは…康太さんと会う時怖くなかったの」
「…私の方が康太のこと好きだったもん。だからお父さんに頼んで、会えるようにセッティングしてもらったから…」
猫族同士惹かれ合って、お互いが好意を寄せた状況で付き合った。
自分が好きな相手から、当然のように同じ想いを貰っている姉が、羨ましく思えてしまう。
「……会いたくないよ」
この期に及んで我儘を言えば、ギュッと手を握られる。
寧々子に対して過保護な姉はしつけに関しては厳しいけれど、基本的に妹には酷く甘いのだ。
「……恋人いるなら、お父さんに会わせたほうがいいよ。本当に寧々子が好きな相手なら、猫族じゃなくても…きっと納得してくれる」
「恋人じゃない…ただ、私が一方的に好きなだけ……たぶん、叶わない恋だから」
想いを寄せても叶わぬ恋だと、初めから分かっていたはずなのに。
心のどこかで期待して、彼女と共にいられる未来を夢見ていた。
土曜日は本来、ましろと猫カフェに行く予定だったというのに。
好きな人との約束を蹴って、見知らぬ男性と会わなければいけない。
鼻の奥がツンと痛んで、気づけば瞳から涙を零れ落としていた。
ようやく涙が枯れ始め、自室に戻った寧々子はあの人に電話を掛けていた。
あれほど用事が無ければ電話が出来ないと怯んでいたが、まさか最初の電話がデートを断るものになるなんて思いもしなかった。
数コール置いてから、電話口から彼女の声が聞こえてくる。
「はい」
あまり高くない落ち着いた声色が、好きで仕方ない。
また涙が込み上げそうになるのを堪えながら、必死に言葉を続けた。
「ましろ先輩…」
「どうかした?」
「…土曜日の予定、ずらしてもらうことって出来ますか?」
「なにかあったの?」
「えっと…どうしても外せない予定が入ってしまって…」
「そうじゃなくて…元気ないから」
泣いた後とはいえ、鼻声になっているわけではない。
些細な声のトーンで、ましろは寧々子の変化に気づいてくれたのだ。
「………ほんとに、ごめんなさい…」
「…いいよ。来週の土曜は?」
「大丈夫です」
「わかった。じゃあ楽しみにしてるね」
必要最低限の会話を済ませて、通話を切る。
急な予定変更だというのに、ちっとも嫌そうな反応をしなかった。
両手で顔を覆いながら、思い出すのは今電話したばかりの彼女のこと。
やっぱり、あの人のことが堪らなく好きだ。
本当はましろと一緒になりたい。
彼女と恋人同士になって、心を通わせあいたいのに。
それを伝えれば、ましろは迷惑だろうか。
2人の関係がぎくしゃくしてしまうのではないかと、怯えて何もできない。
そんな臆病な寧々子が、我儘を言う資格なんてないのかもしれない。
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