第5話 事情はいろいろ

 人生いろいろ、人間関係もいろいろ。


 

 数日まえに家庭内でゴタゴタがあり疎遠そえんになっていた近所の親戚や、滋賀県に住む高齢のおばさんまで巻き込む騒動に。 


 で、すったもんだのあげく、なぜか大阪から滋賀県に私が車で米を取りに行く、そんな運びとなる。


 そしてなぜか家が困窮しているのを知っている親戚から、ガソリン代だと1万円をいただく。


 取りに行く米は親戚のではなくこちらの米なので、お金をうけとる道理がないから、一応かたちだけは断りを入れるが「まあ受け取りや」と、無職の人間に嬉しいことを言ってくれるので、2回目のすすめであっさり受諾じゅだく


 親戚に感謝しつつ1万円のよくわからないガソリン代は、私の財布のなかへ収監しゅうかんされた。


 [パカパパッパパァァアア!](ゲームの効果音風)


 [貧乏なおっさんは不労所得を手に入れた]


 そのように、人生と言う名のロールプレイングゲームが、いま始まろうとしている。



 2021年10月15日午前6時ちょうどごろ、ラジオをかけたコンパクトカーは、滋賀県にむけ自宅の駐車場から発進。


 準備は万全で、ふだん収納しているハッチバック内の荷物は玄関に下ろし、おそらく精米前の玄米げんまいを乗せるであろうスペースを確保し、小さなクーラーボックスをスカスカの場所に置く。


 あわよくば保冷が必要なお土産をもらえるかもしれないと、打算まじりにクーラーボックスを用意したが、けっきょく自費で購入した丁稚でっちヨウカンと草餅くさもち、それに将棋の強い高齢男子からふかし芋のかけらを与えられ、それをボックス内に。


 ふかし芋はスーパーなどで手に入る無料のポリ袋に、食べかけの芋と一緒だったので、丁重ていちょうに断ったのだが、「何も持たせてやるものがない」からと、高齢男子からゴリ押しされ、仕方なく大阪まで持ち帰ることになった。


 こうしてスモールポテトは大阪へ私と共に配送され、2日ほど冷蔵庫で眠ったすえに、朝食か夜食で食べた記憶がある。


 正直に告白しよう。


 スモールポテトよりスイートポテトの方が良かった。


 

 車は家を出てから順調よくすすみ高速道路までくると、山からのぼる朝陽が運転席のドア窓から、まぶしいぐいらいの日光を運び、夜中に起床したせいで残る眠気を、多少なりとも解消してくれる。


 京都の山科やましな区で高速をおり、いつも立ち寄るプチ贅沢のコンビニをスルー。


 前の日にスーパーで、割引シールのはられたサラダ巻きを購入し、朝食にしたので腹は減ってない。山科区を通るたびにコンビニで買ってきた、銀シャリおにぎりと和風ツナおむすび、もしくはチャーシュー炒飯おむすびは今回はおあずけ。


 高速料金やガソリン代もタダじゃないし、倹約できるところはやらないと、一瞬で餓死が待っている。それが弱肉強食の資本主義ってもんだ。



 京都から滋賀県の西側にのびる自動車専用道路を終点まで走り、儒学者の中江なかえ藤樹とうじゅの故郷にある道の駅には寄らず、わざわざ琵琶湖の湖岸こがんぞいを行くことに。


 春には桜並木が美しい湖岸ぞいも桜の葉がかすかに紅葉したていどで、ただのドライブになる。


 乗用車がギリギリ2台すれ違うのがやっとの岸辺を走行中、猿やカラスが道路のまん中をうろつき、誰もいないオフシーズンのびわ湖で食料を物色している様子。


 腹をすかせた畜生ちくしょうたちに同情し、助手席にのせた某製パンメーカーの『黄金のメロンパン』と、某メーカーのマーガリン入り黒糖ロールパンをチラリと流し見て、あとで畜生の分まで食べてやろうと、道路からびわ湖へと向かう猿をながめながら思ったとさ。

 


 8時20分、地上から50度ほど角度をつけた太陽に礼拝するため、祭礼用のかみの中継地である御旅所おたびしょに車を駐車。


 狛犬こまいぬ灯籠とうろうが岸辺の小さな一角に、ポツンとたたずむだけの質素で簡単な造りの御旅所だが、波音が静かなこの場所が気に入り、滋賀県に来ると毎回のように東の空にむかって拝むようになった。


 太陽が東にあればそれを拝み、お祈りをしながら聞こえてくる波音と、湖面にしみるような天を舞うトンビの鳴き声が、心落ちつくひとときを与えてくれる。


 ただ無心に祈る瞬間だけは世間の喧騒や打算を忘れ、大自然の一部でいられる、ここはそんな場所。



 御旅所から車をすすめ、有名人もちょくちょく顔を出すローカル道の駅でトイレをすませ、まずは親戚に気づかれぬようコソッと墓参り。


 村のボス的そんざいのおばさんに見つかると、もんげー口うるさいので、出会う時間と用事は少ない方がよく、目的の1つを消化してからおばさんの家に行こうと思う。


 比較的に新しい墓地は、竣工が平成4年と入口の石柱に刻まれてあり、短いスロープをのぼった所にはお地蔵さんが6体ならび、参拝者を迎えてくれる。


 居そうろうの私にとって初代家主様が眠る墓に手をあわせ、親戚の墓石にも合掌。


 初代家主様とは諸事情により名字が違うので、死んでもこの墓には埋葬されない私だが、墓参りは死者と自分を思いなおす手段だと考え、好んでするようになった。


 自分が死ねば墓もないので、骨はゴミと一緒に捨てられる運命だろうが、新しい墓を建てる金もないので、己の不徳を自覚して最後のときを待つようにしている。


 墓参りをすませたあとも遺物好きの私が、古い墓地から移送された墓石の文字を調査していると、村の女ボスが電気なし自転車をこいで墓地に登場。


 大阪で騒動があっただけに、駐車スペースに止まった車を見つけた村人が、ボスに伝えたようで、あらためてアナログネットワークの素早さと狭さを感じる、ボスの登場だった。


 村の情報網、恐るべし。



 墓参りを密かにした懸念は当たり、女ボスの叱責が墓地に鳴りひびく。


 やれ花を供えろ、墓石の掃除をしろ、花入の水を変えろ、墓に参るだけじゃ何にもならんのやぞ、とか、ぐちぐちぶつぶつ。


 高齢になってもパワフルさは健在で、衰えた肉体と反比例して口数の多さは異常な数値をたたきだす。


 私はただただうなずき聞き流し謙虚な姿勢でのぞんみ、一言いい返せば言葉の機銃掃射が待っているので、ここは忍耐。


 忍耐しながらおばさんに聞いた、『天保てんぽう』の文字が刻まれた墓石のことだけが、墓参り唯一の収穫だったかもしれない。


 ただし聞いてから墓石をさぐったが、江戸時代後期の改革や飢饉で有名な天保の文字は、ついに確認できなかったので、唯一の収穫もなかったとも言える。


 

 おばさんが郵便局に寄りたいと送迎を要求したので、墓地をくだってすぐの小さな池の周辺に自転車を駐輪し、車は女ボスを乗せて郵便局へ。


 郵便局でおばさんを下ろし、待機時間を利用して道の駅に丁稚ヨウカンを買いにゆく。


 立地条件が幹線道路ぞいのため、大した営業努力もしないでそれなりに繁盛する道の駅に車を駐車し、建物に入り地場産品の和菓子を吟味する。


 毎度のことながらローカルのくせに値段はそこそこ高い。


 考えに考え抜いたすえ、丁稚ヨウカン2本と3つ入りの草餅1パックを購入。


 庶民感覚ゼロの環境大臣が推進したレジ袋の有料制度のおかげで、すっかり背中に定着したナップザックに羊羹ようかんと草餅を入れ、車は道の駅から郵便局へ移動。


 都会のスーパーでも和菓子は買えるが、田舎の丁稚ヨウカンと草餅の素朴な甘味は、ここでしか味わえないソウルフードで、滋賀県に来たら最低1本は買って帰りたい。


 金のないときはそれも我慢してきたが、最近は金銭的に苦しくても我慢できなくなった。本当に欲しいソウルフードを、我慢してまで生きることに疲れたとも言える。


 なのでこれからは金がなくても、ここに来たら丁稚ヨウカンを1本は買う、神仏もそれぐらいの贅沢は大めに見てくれると信じたい。



 郵便局についてもおばさんの姿は見えず、狭い駐車場でしばらく待機。


 10分後ぐらいにおばさんが後部座席に戻り、局内で知り合いと長話しをしてたと告げられたので、だろうなと思う。


 このように田舎の時間はミミズのようにスローだ。


 村に帰るとまずは将棋の強い高齢男子の自宅へ行き、農機具と食料の保管庫となった旧家屋から、米なり野菜なり柿なりを荷台にのせ、新家屋の高齢男子に挨拶。


 ついでに自称初段の実際は三四段の、プロに角落ちで勝利したことのある高齢男子と、家から持参したばんこまで2局だけ将棋を指す。


 結果は1勝1敗でまずまずの成績。


 高齢男子は最後に負け惜しみで、私のことを5級ぐらいの棋力だと言ってたが、犬のようにキャイン!と言わせてやったので、まぁ良しとしよう。


 高齢男子からお土産の芋のかけらをもらい、将棋の内容も我ながら満足して気分よくおばさんの家に向かう。

 


 ゴミ屋敷の一歩手前でかろうじて踏みとどまっている、おばさんの家に入って思う感想はそれ。


 ガラクタやゴミにまじってまつられた犬の遺影は、我が家の初代家主様が大阪のスーパー駐車場でひろった、捨て犬のミニチュア・ダックスフント。


 大阪から滋賀へ一時的にあずけられたはずの犬は、紆余曲折をへておばさん宅で永住権を取得。


 拾った当初は毛むくじゃらの醜い小型犬で、大阪に様子を見にきたおばさんからは「こんな犬、捨ててもうたったらええんや」と、眉をしかめて言われたもんだが、最後は犬なのに猫かわいがりのすえ旅立ったのだから、幸せな一生だったかもしれない。


 少なくとも居候がタダ飯を食らう我が家で、私と餌の争奪戦をしながら飼われるよりは、はるかにマシってもんだろう。


 ただし愛犬が他界して、やる気が失せたから家がゴミ屋敷になったのではない、前からそこそこゴミ屋敷だったことを付け加えておく。


 物がない時代のおばさんは不必要な物でも捨てられず、床に落ちたチリメン雑魚じゃこでも食べるぐらい、究極のエコロジストなのだ。



 運転で神経は使ったが体は動かさなかったので、腹は減ってないと何度も説明したが、この時代の人は飯のすすめ方が執拗で、相手はつねに空腹だと思い込みたい。


 少し辛めのおでんと白米に漬け物をちょろっとだけ食べたあと、おばさんのお説教タイムが1時間45分ほどつづき、それらを適当に聞きながす。


 マジメに相手してたら帰るのが夜中になるので、適当に受け答えするのが必須。


 帰るときになると、私が大阪の親戚からガソリン代をもらったことを、なぜか知っていたおばさんは、もったいぶった態度で3千円を出してきた。


 せん別金の相場はだいたい5千円。


 なるほど、1万円をもらったのだから自分は3千円でよし、そんなおばさんの邪念が透けて見える。


 さすがは村のボス、締めるところはちゃんと締めてくるなと、むしろ感心した。


 

 田舎のスローライフとおばさんの説教などで、帰る時間を予定よりずいぶんオーバー。


 何十年もまえからほぼほぼ変わらない、おばさんとの送迎のやりとりをこなし、車はドブ川のように汚れた街、大阪へとむかう。


 おばさんの家をでてすぐのコンビニで、レギュラーサイズのアイスコーヒーと、サッカーの宝くじを一口300円だけ購入。


 合計1万3千円の現金収入を得て、コーヒーの香りと宝くじの夢を買った。


 宝くじは結果を見ずに保管し有効期限ギリギリで確認すれば、夢を1年間ほど堪能できる。


 300円で当選してるかもしれない、当たらない宝くじで細い幸福感を持続する、貧乏人の知恵だ。


 

 おばさんから頂いたおにぎりを食べ、めったに買わないコーヒーを飲み、西の空に沈む夕日をながめながら、最後は夜景の街を楽しんでドライブできた。


 人間生きていれば苦労も多いけど、こんな日もたまにはあるので、日常の生活を乗り越えることができる。


 そんな風に物思いにふけりながら、移り変わる窓外の景色に心をただよわせ、車はヘッドライトとテールランプの行き交う、夜の道路を走りつづけた。

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うろうろ放浪記 枯れた梅の木 @murasaki123

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