貴方が見たいと望むなら

朽縄ロ忌

第1話

 欠伸が一つ。生理的に流れた涙を拭うでもなく歩き続ける。視界は歪んだままだが前がはっきり認識できる必要はない。どうせ見えても変わり映えもしない景色だ。四方八方嘘のように整った庭園。なのに受ける印象はぐちゃぐちゃに散らかっている。もう一度とこみ上げた欠伸を嚙み殺してひたすらに歩き続ける。どこにどう向かうか解らないのに立ち止まれないのは、きっと探し物の名前すら思い出せないからだろう。


 気付いたらこんな場所に立っていた。前後は曖昧ではっきりしない。記憶のない状態で知らない地に立っていたなんて月並みの小説みたいじゃないか。自分で歩いてきたような、連れ出されたような判然としないのに喉元まで出かかる経緯の認識。思い出せないだけで頭の中にはあるようだとわかったところで考えるのはやめた。辺りを見渡す。咲くだけ咲きましたといった季節感なく咲き乱れる紫陽花、夏の蓮、桜。解るものだけでも滅茶苦茶だ。その間に洒落た園芸用の机や陶器のようにお綺麗な調度品から不可思議なものまで理路整然と唐突に並んでいる。普通外にあるものじゃないもの、それだけでは使えないもの、何もかもそこに置かれている意味が解らないのに違和感がないから気持ち悪い。

 とりあえずの身の危険はないらしいと判断して出口を探すことにした。そもそも放り出された外に出るところはあるのか、もし出られたとして帰る先はあるのだろうか。それでもここにいるよりはいいだろうか。迷ったら下手に動かない方がいいらしいが、この場合は当てはまるのだろうか。

 砂利まじりの地面を歩き出そうとして自身の変化に気付く。シャツの中、身体がなにかおかしい。何がとは言えないが、風邪をひいた時に初めて呼吸をしていることに気付くように、その時にならないと解らない当たり前だったものが足りないような。釦を外してこれといった外傷のない肌を見て胸を撫でおろしたのも一瞬、触診した胸にゆっくりと指先が入り込んでいく。まさか、なんだこれは。腹も同様に押し込んだ所からたわんでいく。理解が追いつかないまましばらく骨の感触しかしない身体を確かめて、張りのない皮膚を摘まみ上げた瞬間、腹から胸部に向かってぱっくりと縦に裂けた。まるで菓子の袋でも開けるようにあっさり綺麗に。血飛沫も漏れ出す内臓もないので逡巡の後めくれ上がった肌の中を覗き込んだ。そこには普段骨が大事に守っているものは何一つ収まっていなかった。代わりといっては何ですがというように暗いそこからは名も知らない赤い花と白い花がはらはらと数輪落ちてきた。地面に落ちた花の黒くて丸い中心が人の目のようだ。ぼうっと眺めていたら、もう何もないと思っていた中から蝶が何匹か飛び去っていく。まるで昔読んだ絵本のようじゃないか。他にはもう何もないかと裂けた皮膚から手を入れて確かめたが変に弾力がある肉壁に触るだけだ。ほっとすると急に開け放した身体の芯が寒くなった気がして釦を留める。

 唐突な出来事も続けば日常になる。というには短時間すぎるが、痛くないならそれでいい。どうしているかは知らないが呼吸だって止まっていないし頭は働いている。

 しかし、差し迫った危機はないが空洞になった中身を知った今、そこに何もないのは居心地が悪いように思う。悪寒すら背骨から駆け上がってきた。何かが足りない。足元に散らばった花でも飛び立った小さな蝶でもないのはなぜだか解る。元々あっただろう内臓でもない。

 なんでもいいからこの身に詰めるモノ、出口、ついでに可能なら正しい記憶を。

 訳が解らないなりに何かに急かされて僕は一歩を踏み出した。


 前も後ろも解らない庭を歩き回ると、ふと少し先の植え込みに人を見つけた。やっと巡り合えた人に足早に駆けつつも、他人を見つけて嬉しいのに違和感がある。非現実的なここには自分しかいないと思い込んでいたからか、もしかしたら抜け落ちた記憶の僕は人嫌いだったのかもしれない。

 文字通り空虚な身体は軽いのか急ぐほどにすぐ均衡を崩してしまいそうになる。思うより遅い歩みで近付いた人は地面に座りながら、瀬戸物のような顔を半分も覆うほど生えた花をぱちぱちと手にした鋏で切っていた。切った端からすぐに同じ花が生えてきているのを見るとその効果はあまりないようだ。

 切られた花は落ちたまま枯れずに辺りに散乱している。量はそんなにない事から男が花を切り出したのは少し前からだろうか。

 ふと思い立ってその花を拾って腹に詰めてみた。まぁ特にこれといって満ちた実感もない。それでもないよりはましだろうからと落ちているものを拾っては詰めていると、ぼうっと切っているだけだった男は要領を得たのか切っては捨てるのではなく直接僕の腹に詰めだした。

 しばらくしていっぱいになった中身に興味を失ったのか、男はまた床に花を散らし始めた。

「その、花が邪魔なら毟るのを手伝いましょうか」

 中身を手伝ってもらったお礼をと申し出ると、男は初めてこちらを見てゆるく首を振った。

「いいや。別に邪魔なわけじゃないから」

「でもずっと切っているじゃないですか」

「うん。でも、まとわりついてるのはいいんだ。ただ、あまりあっても視界が良くないだろう」

 そんなものだろうか。よくわからないが、男はそれでいいという。

「それより君の方はいいの。お腹は満たされたの」

「そうですね。ましになったと思います」

 そう、なら気を付けて。男は最後まで無表情で僕を見送った。これ以上ここにいるのはおかしい気がして、見てもいないだろう会釈を一回、男の前を通り過ぎた。

 そうだ。歩かなければいけないのだった。とにかくそうしなければ。ただ足を前に向けて。


 小さな池に差し掛かった。その先にぽつんと入る家もないのに扉だけが建っている。池には所狭しと蓮の葉が咲いて綺麗だ。知っている光景と違う所といえば蓮の根本には薄ぼんやりと内側から光る程きめの細かい肌をした裸体の少年が静かに蓮を抱いて眠っているところだろうか。根の一部なのかただそこにいるのかは解らないが、蓮は元よりこのような形だったと思わせるほど澄み渡った光景。

 ああこの子は自分の場所があるのか。少しの羨望。その根ごと引き抜いてこの腹に詰めたら満足するだろうか。この身の寒さは今だ底の方から這い上がってきていた。いや、きっと違う。これはこの子の物だ。僕のじゃない。邪な思考にかぶりを振る。

 目を覚ましてしまうとほろりと解けてしまいそうで、少年の池をできるだけ足音を立てずに通りすがる。

 不可思議に放置された目の前にきて、ふと池なのにせせらぎにしてはなにか歪な水音が聞こえているのに気付き足元を見た。出所は捻られたままの蛇口から出る水が、その真下に横たわった少年に落ちていく音だった。庭の水やりの為に無理やり建てた剥き出しの水道、無気力な少年の輪郭をなぞり地面を濡らす。目に水が入るのも構わずに開いたままの瞳と目があう。

 その蛇口止めましょうか。目が合った驚きで咄嗟に出たその提案には応えず、動かないかと思われた腕がすっと持ち上がって目の前の扉をか細い指が差す。何かを口にすることはなく、こちらを向いた双眼だけが先を促してるようで、僕は扉に向き合う。

 例えすぐわきを通れば無視してしまえるが、その向こう側に続く陽光といくつもの花が見えていようとも、扉があるならそこを潜るのが礼儀だろう。小さく叩いて三回、返事はない。取っ手を回すと容易く開いた扉に入った。












 暑い。まとわりつく湿度、そこは熱帯夜だった。潜り抜けた先は変わらない晴れた庭ではなく、薄闇色のうっそうとした場所になっていた。森の中のようだ。振り返ると通ってきた扉はない。地面には黒く細い絹の連なりがずっと先まで伸びている。他には植物がさみしく生えているばかりで、とりあえずと絹を道導に歩き出す。

 途中、細い細い蜘蛛の糸が宵闇の中に鈍く光っているのを見つけた。共に横たわる少女は虚ろでぼんやりと景色に溶けて白い衣服だけが浮く。その粘性の糸に獲物が引っ掛かるのを待っているのだろうか、生きているのも感じない様は蜘蛛そのもの。自ら近付いて危うい目にあうこともないだろう。糸を時折細い足が揺らしているのを横目に先を進む。

 道に這う黒絹がその量を増して地面が見えないほどになってくると、絨毯の上を歩いているようでその柔らかさに足を捕られそうになる。腹の花がぐるりと揺れた気がした。

 やがて足に絡んで一歩踏み出すのがやっとになりつつも覆われた道を進む中、傍らにまた人を見つけた。近付くと上着の裾を摘まんで引き上げている少年の服の中に身体はなく、一本の麻紐に吊られている乾燥した花がいくつか微かに揺れている。この子も何かをナくしたのだろうか。声をかけようとして息をのんだ。

 それは少年の形だけを残した抜け殻だった。揺れる乾燥した花と同じ、そのままの姿をしただけの、空っぽの。立ち止まった僕は、少しだけ泣きたい気持ちになった。多分きっと、中身がきちんと揃っていたなら声をあげて泣いたのだろう。それでも、だから、探さないと。進まなければ。重心の不安定になった身で、また少しずつ歩み出した。

 黒い絹はとうとう膝ほどの高さになり、何度も躓いてしまう。最終的に全て埋まってしまうのではないかと思った頃、ようやく行き止まりについた。

 黒い絹の道は、張り巡らされた少女の髪だった。

 見上げる程の大きさの顔、冷たい目、呼吸も浅くなる湿度と気温にそぐわないそれが見下ろして、閉じた唇の代わりに何かを訴えかける。言葉では言い表せない拒絶と拘束。足に絡みついた髪が服からするりと這いより肌の裂け目を分け入って入り込む。花が押し出されひしゃげて辺りに散乱する。拾おうとしても落ちた先から黒い波に紛れて消えていく。

 なす術もなく膨らんでいく身のまま、いよいよ呼吸も苦しくなってきた頃、吐き気を感じてのどがぐっとあがると口から毛が漏れ出した。呼吸ができない。気が遠くなって目がかすんでも絶えず無数の髪が体内を満たし続ける。

 このまま終わるのか。視界も眩んで来た頃、一筋の光が差す。これを皮切りに何度も四方から光が差していく。足元にそのうちの一本が刺さる。視線だけで確認するとそれは生白く輝くナイフだった。ぶつりと髪が切れていく。髪を蓄えた少女がすっとナイフが飛んでくる方を睨む。その先へ向かって鋭い毛が飛び掛かって行こうとした瞬間。暗かった空間に日が差して、急速に優しい朝に染まっていく。それを受けて少女は動きを止め、収縮していく。ゆっくりと自らの髪に恨めしそうな瞳をした顔も埋まっていき、あんなにあった黒も自らに吸い込まれてすっかり消えていた。腹の中にちょうど収まる量だけ残して。

刺さったナイフだけが残され何もなくなった道に、はらりと柑子色の花びらが落ちてくる。見上げると少し上の方に柑子と白の菊を抱えた少年が霧の中の太陽のように優しく佇んで、朝だと思っていた空はその花を全部混ぜたような色をしているのだと気付いた。

「あの子は何か隠しているに違いないよ兄さん」

「あの子は何か隠しているだろうか兄さん」

 近い声にはっとして見るとそっくりな男が二人、いつの間にか道の真ん中に現れた机と椅子に腰かけてこちらを見ていた。卓上には鴉のくわえた糸の切れた首飾りや枯れても色づいた花、松笠から割れた眼鏡までが置かれており、片方の人物が撫でている鴉のように二人とも羽の首飾りに黒ずくめのいでたちで、まとう空気から卓上のそれらがさも奪ってきた戦利品のように映る。

「あの子の中身が怪しいんじゃない弟くん」

「あの子の中身が怪しいかもね弟くん」

 密やかに笑いあう男達は品定めするように目を細めている。鴉を抱いていない方の手には地面に刺さったままのナイフと同じものが握られている。それよりも二人はどちらが兄で弟なのだろうか。たずねようとしたところで音もなく瞬きの間に移動した二人に囲まれ両肩を掴まれた。何かひやりとする。下を見やると肩に添えてない方の両者の手が服の中に入っていた。笑って何事かをやりとりしながらくじ引きでもするように中をかき回す。しばらくそうした後、ずるりと引き抜かれた手には髪が絡みついていて、地に落ちる。

「つまらないね。中身がなくなってるじゃない。ねぇ兄上」

「全くつまらないね。中身は空っぽじゃないか。ねぇ兄上」

「結局どっちが兄なの」

 口に出したのと同じくして足元が揺らぐ。引きずり出されて捨てられた髪の水たまりが波打っていた。一度ぐらりと傾いたかと思うとすとんと地面にこの身が沈んでいく。真っ暗な空間に落ちて行く中で、少しずつ小さくなっていく水たまりから二人が覗き込んでいる。

「さぁね。どうしたら兄さんなんだろうね」

「さぁね。どうしたら弟くんなんだろうね」

 君は何を正しいと教えられてきたの。肩を揺らして笑う兄弟を最後にぷつりと向こうの景色が閉じた。暗転した景色をそのままずっと落ちていく。








 永遠かと思うほど落ち続ける。着地する先はあるのだろうかと疑い出したとき、上の方からつる植物が弱く発光しながら降りてきた。向こうが透けるような色素の薄い葉の群れが、やがて落下し続ける僕の辺りを覆いつくしていく。つるの合間を縫って現れた少年も今に透けて消えそうな姿で、表情は上の空だ。何かに悩んでいるようにも見えるかもしれない。手をあげるのを合図に葉にも宙にも雨垂れの幕を降らす。底なしの穴に速度をもったり、またはもたなかったりして不規則だが、どれもいずれは流れてはじけて暗がりに消える。ただその光景を見つめていると、その水滴の向こう側に何かが映っているのに気付いて目を凝らす。

 初めにわかったのが嘘のように赤い椿を背にした少女がこちらに微笑みを向けている姿だ。

「あなたにはなにが映っているの」

 鈴のような声のあと、その笑みが沢山の歪に裂け、ぱりんと割れた。絵具を垂らしたように朱く濁って、水滴がはじけた。

 次に何かが複数の水玉の中を過っていくのが見えた。追うとそれは春を蓄えた蛇の骨だった。やがて水滴の一粒でぐるりとひるがえるとその最中に少年が映ってすぐに消える。

「何を咲かせるの」

 その言葉だけを残して。蛇はまた気まぐれに次々と水滴の中を泳いで、ふいにバラバラになってしまった。壊れた小さな骨達は何匹もの金魚に変わって遊泳する。宙に置き去りの桜は長く伸びて水草になり、柔らかな指がそれを掻き分け先ほどの彼と似た少年が現れた。水中に髪を緩くなびかせて、その柔らかな姿に似合わない鋭利な視線を寄越すと泡となって消える。

「君はどこで泳ぎたいの」

 その言葉を最後につる植物ごと飛沫をあげて何もかも無くなった。

 再び暗闇の中を落ちる。落ちる。またも上から金属音と共に何かゆっくりと降ってくる。それは小さな鳥かごで、乱雑に様々な花が目いっぱい詰まっていた。

 しばらく一緒に落ち続け、何となく手を触れようとした瞬間、鳥かごの向こうから伸びた手が強い力で檻を掴む。自分の方へ鳥かごを抱き寄せたその子は沈んだ目でじっとこちらを伺っている。

「渡さないよ」

 しっかりとその身に寄せた鳥かごのことだろうか。線の細い身体に抱き込んで離さないといった意思が明確に伝わってくる。

「この小鳥はぼくのものだよ。誰にも渡すもんか」

 吐息のようなか細さの中に怨念に近い響きを乗せた言葉を吐き出すと、暗がりに溶けていく。花しか詰められていない鳥かごなのに。そう思って完全に見えなくなるその前によく見てみたそこには、言われたら羽が確かにあった。少しの隙間もない詰まった花の隙間に。ぴくりとも動かないその小鳥は果たして生きていたのだろうか。

 それからすぐに今度は下から灯りが浮き上がってくる。次いでその灯りを持った子が辺りを狭く照らしながら浮上してきた。もしくは彼が止まっていて、僕が落ちているのかもしれないが。彼は手しか見えない何者かに地肌に沿う白いレースを結いあげられているが、それを気にする様子はない。

「君は開く覚悟があるかい」

 突然言われてもどう答えていいかわからない。何をどうして開くのか。聞いてみても同じ言葉を繰り返すだけ。断るよりはきっといいのだろうか。試しにありますと応えてみる。

「ならいいよ。もうまもなく一つの終りは近い。覚悟も自覚もなくたっていつも突然だ。そういうものだろう。君はその時何を見る。どこが現だ。そこに欠片があったとして、さてどう見るか。希望が全てに等しく同じ形とは限らない。もし皆に全く同じものだったとして」

 そんなにつまらないものはないだろう。かざされた灯が目を開けていられないほどの閃光を放つ。

 つま先に硬い感触を感じた。そのまま落下していた身体はふわりとどこかに着地し、きつくつむったまぶたを開けてみた。今まで歩いてきた場所とは異なりそこは室内だった。出口はなく正方形の。材質は石で出来ている。対面の壁際、白い石床に座っている男が一人。彼が持っているロウソク立ての薄明りだけが光源のはずなのに妙に全体が明るい。むしろ灯りを持つ男だけが仄暗い印象を受けた。

「これはある兄妹の話なんだけど」

 急に始まった話にすることもないので自然と傍によって座る。

「二人はいつも顔を半分ずつ隠していたんだ。誰も見たことがない。気付いたら人の輪に自然と入っていて、おとなしいが人好きされる性格だった。でも不思議とその二人がいると物がよくなくなる。些細な物から着けていたはずの装飾品さえ。おかしいと気付いた人達が集まって夜に二人を呼び出し問い詰めると、あっさりと自分達がやったと白状した。それまで絶やさなかった笑みはすとんと失われ、体が徐々に鴉のように羽に覆われてゆく。それを見ていた誰かが声をあげて指差した。その羽の懐は盗品で溢れていたんだ。いつも隠していた二人の顔半分が露わになると、骨が見えていた。そこから剥がれ落ちるように人間だった部分が骨になり、やがて完全な二羽の鴉に変わると「もう少しだったのに」と言って奪った物ごと飛び去っていったのさ」

 風もないのにろうそくからのぼった煙が揺れ、窓すらない空間に充満してきていた。

「どうして二人は物を盗っていたのでしょうか」

 疑問を口にすると、少し呆けた後、男はにやりとして推測を語ってくれた。

「成程。成程。いや疑問を持つのは良いことだ。これは話の外、自論でしかないが、盗品は全てが誰かの持ち物で、それを集めてもう少しだったのに、というのは隠れた顔に繋がりがあると思うのさ。所持品っていうのは個性や思い入れを現す人を形成する要素だろ。中途半端な出来の顔は、もう少し人の欠片を集めたら、きっと完全な人に擬態できたんじゃないか」

 そういうものだろうか。では、この切れ目の中に何も入っていない状態は自身が人ですらない何か、という事になるのだろうか。答えの見つからない自問をしていると、それを見ていた男は、まだ話は終わっていないよと思考を中断させる。

「次はそうだな。朱色の着物が印象的な男の話をしようか。不治の病であった男はいつも赤い着物を着ていた。周りが思うより進行が早く、日に日に衰弱していく病状にも本人は焦らず落ち着いたものだった。ずいぶん青白くなった顔に深紅の着物を羽織る色合いの落差にゾッとしつつ、友人は不安はないのかと聞いた。無粋だとは知りつつも心配からつい口に出てしまった。小さな頃から共に育ってきた親友だったのだ。それに男は少し赤が染みた腰ひもを愛おしそうに撫でながら「不安はないよ。だってもうじきに全部の血が抜ける。血は始まりで魂らしい。これでまたすぐにでも会える」途端に腰ひもが赤みを帯びた気がした。何を言っているかは解らないが一瞬それが臍の緒のように見えて肝が冷えた。その年の冬を待たずに彼は亡くなり、何度目かの春に婚姻した男は大きくなった嫁の腹を擦りながらあの染み出してきそうな深紅の着物を思い出してばかりいる。やがて産まれる我が子の顔はきっと親友と瓜二つ。そんな気がしてならないのだった」

 淡々と語る口調はぼそぼそと話しているのに聞き取りやすい。煙は変わらず空気を満たしていって目の前が曇りつつある。

「そろそろ聞き飽きたかい。僕のつまらない話なんか。僕だって飽きているさ」

 自嘲しつつも語ることはやめないらしい。調子を取り戻すためか咳払いをひとつ。

「ある人物は毎年楽しみにしていることがあった。春の、それもほんの数日の期間だけを。図書館の裏手にある、人がほとんど来ない場所に明らかに管理されていない藤棚と朽ちかけの椅子が一つ。早朝に腰かけて時を待つ。やがて白藤が満開の奥、雑木林から一人の少年が姿を現した。髪まで真っ白の彼はもう覚えていない昔に偶然出会ってから期間限定の友人だった。はじめは人ではないのではないかとか、白髪の白さや、そんな草むらの中からどうしてやってくるのか等勘ぐりもしたが、今まで口にすることはなかった。元よりその人は内向的であったし、いつしか些末なことは気にならなくなっていた。辛い時も嬉しい時も彼がずっと変わらずにいてくれた。それが例え何年経っても出会った頃のまま変わらないとしても良かった。しかし時は無常だった。年老いた体には芽吹く春への移り変わりも堪えられない。いつも通りに白藤が咲いた。少年が姿を現すと椅子には若い人が腰かけていた。訝しげに誰かと問われ、若い人は祖父は亡くなった事、今まで楽しかった事、ずっとありがとうと言いたかった事を遺言として悲痛な声で伝えた。告げる苦し気な顔は初めて出会ったあの頃の人物に瓜二つであった。そうか。とだけ零した白髪の少年に落としていた顔をあげるとそこにはもう誰もおらず、茂みの方へ蛇の尾が去っていくのが見えるだけだった。最期の言葉通りに旧知の友へと亡くなった事を告げた報告をと墓に行くと、真新しい筈の父親の墓石には巻き付いて寄り添うように鱗状の白い染みができていた」

 この話は僕のつまらない話の中でも少しだけ素敵だろう。問われてうなずいておく。きっと中身が詰まった僕なら素敵だと思うだろうから。

「次はそうだな。絶世の美男子の話をしよう。あるところに一度見たら二度と忘れないだろう美男子がいた。美しくあって、更に人に優しく、まさに理想を体現した男だった。そんな彼だから誰も放ってはおかない。生きるだけであらゆる貢物で溢れ、人は彼の言う事を全て肯定した。それでも彼は決して何も受け取らなかったし、特定の人に寄りつくこともしなかったから更に人は彼に熱狂した。ある時、どうしても彼をもっと知りたくなった人々は誰も立ち入ったことのなかった家を暴いた。中に入るとがらんどうで、唯一あるのは仏壇のような高さの机に真珠の首飾りと活けられた一輪の菊、そこに線香が立ち昇っているだけだった。まるで何かを悼んでいるようではないか。そこで罪悪感の一つ抱くならいいが、熱狂した人々には誰かが彼の心に住んでいるという事実しか映っていなかった。誰かのものにならないから良かったのに。そんな身勝手な逆上で、首飾りは千切られ菊も毟り取られた。しばらくして外から帰ってきた男さえも寄ってたかって殴り殺されてしまった。顔の原型も留めない姿に人々は興味を失い、そのまま家を後にした。村全体に異変が起こったのはそれから少し後だった。彼の姿を一度でも見た事のある全員が毎晩彼の夢を見るようになったのだ。陶磁の肌も薄く研磨された宝飾のような眼もそのままに、じっと見つめてくるだけの夢。傍にはもう一人、少し似た男が立っている。鮮明な夢に誰もが何も手につかなくなっていく。どれだけ駆け寄ろうと手を伸ばそうと、絶対に届くことはない。それでも近くにいる憧れの人。皆は忘れる事も許されずにもうどこを探してもいない彼を追って眠る。眠れないならと薬まで飲む者が後を絶たない。やがて衰弱していく人々が死んでしまうだけなら自業自得で済んだが、影響は彼を見たこともない他の村にまで拡がっていった。縁のない人まで次々とあの夢を見始めたのだ。話を聞き、事の中心地を突き止めた修行僧はまだ話ができる若者を捕まえて経緯を知り、家に転がったままの亡骸を埋め、首飾りを繋ぎなおして元通り家に祀った。そうするとぱたりと夢は収まった。だが長く夢を見続けた者の多くは夢ですら出会えない事に絶望して自死していったのだった。それ以来そこには絶やさず菊と線香が供えられるようになったのだという」

 語り終える頃には部屋は濃霧のように煙で満たされて、薄っすらとしか彼が見えない。

「あの、真珠と隣にいたっていうもう一人の男は結局なんだったのでしょう」

「ただの語り部だから憶測でしかないけど、一度も美男子の家族については触れられないからきっと身内だったのかもしれないね。まぁ聞いた事を伝えるしか脳がない頭で考えた事だから解らないけどね」

 次の話をするのだろうか、待っていると暗い表情しか見せなかった彼は微笑みを浮かべて灯りを置いた。煙が流れを変えて彼の周りを回りながら収縮を始める。段々とまとまって形が作られてゆき、質感を持った骸骨になる。人の骨に見えたが頭には角のようなものがついているので違うのかもしれない。まだ立ち込める煙の中、彼の背後から灯りに近付いた骸骨が火を吹き消した。先ほどとは比べ物にならない煙が噴出して本当に何もかも見えなくなる。

「もう百も語ったか。最後の辺りだけでも君が聞いてくれて良かったよ。ただね、そう、次の始まりはきっと君の話からになるだろう。実りある完結を祈っているよ。全ては始まるためにあるからね」

 彼の声が途切れて向こうの方から大きな音がした。前に向かって強い風の流れが起きる。煙がそのまま流れて消えてしまうその間、語っていた彼とは別の少年が見えた。なぜだか知っている顔の気がする。宝飾のような瞳に、陶磁の肌、でも少し何かが完璧というには欠けた。造形の整った唇が微かに動いて白に呑み込まれる。

「忘れないで」

 石の壁が鮮明に見えるようになった。もうすっかり煙も彼も何もない。そして大きな音の正体が解った。壁が扉のように左右に開かれる音だ。その先は次の道へと続いていた。

 分厚い石の扉を通ると同じような石造りの景色が続いている。やはり何もないのに全体が発光しているように明るい。いくつか同じ部屋を過ぎた先に、これまでと変わらない部屋の中心にガラスのドームを見つけた。ガラスの下には人がすとんと落ちてしまいそうな穴が空いている。それを沿うようにして通り過ぎ、先に進もうと思ったが壁はこれまでのように開いて扉になってはくれなかった。

 どうするべきだろうか。迷っていると頬に冷たいものが落ちた。触ってみるとそれは水で、見上げると天井には無数の穴が空いていた。気付いたと同時にその穴から一斉に水が吹き出す。

 絶えない豪雨に部屋が浸水していく。このままいくときっと溺れてしまうだろう。しかし出口もなく立ち尽くすしかない。腰まで沈んだ時、不意にガラスドームがぐっと水圧を感じさせない動きで半分ほどずれた。溜まった水が濁流となって大きな穴に流れ落ちていく。水位に足をとられて抵抗むなしく僕も簡単に流されていった。

 またそのまま落ちていくかと思われた先は水面が見えて、大きな音をたてて入水する。浮上しようにも次々と流れ込んでいる水に押し込まれ、もがく間にも大量の水が空間を満たす。少しの空気もない程水位が高くなり、浮いていたガラスドームが落ちてくる。はまり込むと溢れた水が外側の壁伝いに落ちていった。

 息ができないと思ったが苦しくはならない。何故か呼吸できている。危機がないならと落ち着いて見回すとここはガラスで覆われていた。曲線とそこから伸びた注ぎ口からポットの中だと察する。ならあのドームはフタだったのだろう。そういえば水も温かな湯だ。しかしどうしたものか、フタは明らかに重いだろうし注ぎ口は細すぎて入れそうもない。

 ふと底の方に球体を見つけた。巨大なそれに近付いて触れてみると乾燥した葉で出来ているようだ。水分を得て徐々に本来の形に膨張していっている。少し浮遊して頭頂部を確認すると包んでいた葉を押し広げて中に白と黄の花が見えている。

 遅々としていた変化は急におとずれた。葉が完全に開き切り展開して開花したのだ。狭そうにしていた身を全体に広げて本来の鮮やかさを取り戻した黄色の花が湯にあわせて揺れている。同時に連になった白い花が輪を描くように浮かび上がってきた。花の輪がやけに平面的で、よく見ると人に描かれたものだと解った。小さな白い花が描かれた上半身を僕と同じ位置まで伸ばして反るから肋骨の上を皮膚が動くのが解る。解放感を味わっているのだろうか、しばらくそうして身体を湯に預けている。あげた両腕に力が入っては緩む。咲いた彼が伸ばしていた手を僕の頬に下ろして包み、顔を触れあいそうな位置まで近付けてくる。彼がくわえている小さな赤い花が当たってくすぐったい。

 何かを訴えるでもなく見つめあう。腹のすき間から大きな気泡が出て行って二人の間を過ぎていった。通った鼻筋や顎に当たって細かくなる泡が上から差し込んだ光を反映した。

 温かな湯と止まったかに思える時の流れが少しずつ体の芯を温めていく。何のために歩いて来たのだろう。ここはもう寒くない。いっそ、もう、ここでいいか。

 ゆっくり目を閉じようとした最中、彼の向こう側、ガラスの外側に薄く発光しながら暗闇を舞う二匹の蝶を見た。目を見開く。あれは確かに。

「ぼくの中身だ」

 目覚めた時に腹から飛んで行った蝶だ。それがすぐ向こうに飛んでいる。行かなきゃいけない。やっと見つけた。目の端に映った彼は一瞬顔を歪めたかに見えたが、離れて緩く此方に手を振った。ポットの全体にヒビが入っていく。とうとう破裂した破片と散り散りになった花が光を受けて綺麗だ。投げ出された身が床に叩きつけられ上から花びらが降り注ぐ。

 急速に寒くなっていく。温かさは彼と共に霧散してしまった。その上を遊ぶように蝶は軽やかに飛び去っていく。今見失ってはいけない。そんな気がして打ちつけた身をなんとか起こして追いかける。

 暗い道を蝶の気まぐれな軌道にあわせて闇雲に進んだり戻ったりを繰り返す。もうどこをどう行ったかは解らない。元より暗がりばかりであるのは凍えた体とぼんやりと光る蝶だけ。

 息も切れるくらいどれだけ走っても、追いつけそうで追いつけない蝶に立ち止まってしまいそうになる。だが立ち止まったのは蝶の方が先だった。

 見上げてばかりいて気付かなかったが、ゆっくりひらひらと降下した先には男が座り込んでいた。驚いたのはその姿で、僕と似て彼も剥き出しのあばら骨だけの胴体をさらしていたのだった。血肉のような紅い花をその空洞の身に詰め、周りには沢山の蝶が舞っている。追いかけていた二匹もその輪に戻っていく。

 蝶は僕の中身なんかではなかったんだ。疲れと落胆が襲ってきてへたり込む。濡れた服も芯も寒くて寒くて仕方ない。

「来たんだね」

 囁くような声がする。壁にもたれて座る彼は優しい光に囲まれて、鈍い動きで手招きをする。僕は床を這うように移動して目の前に座り直す。光の中は少し暖かい。満たされた気になるのに、自分のものではないのだ。

「ぼくはね、もう長くないんだよ。きっとこの身は永い眠りにつくだろう」

ほらね。中身の花弁を一枚取って握ってみせた。その手のひらには紅い粉が乗っている。この花も葉も全て乾きつつあるらしい。

「全て枯れてしまったんですか」

「まだ生きている部分も少しあるけどね。今に生きてて生きてはないんだ。君はこの中身が欲しいかな。空っぽなんだろう。君も」

 生きている部分と蝶を譲ろうかと問われるが、答えは決まっている。だってこれは

「これは僕のじゃないから、きっと寒いままだと思う」

「ああそうか、もうそこまで来ているんだね。少しいじわるしてしまったかな。過去は大人しくこのまま過去へと。思ったより少し早いけど時間がきたようだ。最後まで見届けたかったけど、それじゃあ」

 優しく頭を撫でてくれる手はそっとしていて儚い。別れを告げたその後すぐ、枝を折るような音が続く。急速な乾燥が始まったのだろう。少しして、完全に音が止んだ。彼はもう喋らない。寂しい優しさだけ残して。

「あなたは此方ですが、行先は彼方です」

呆然としている間にかけられた声に振り返ると少年が立っていた。闇に溶けるようでその輪郭は浮いたようにはっきりと解る。たった今吹き消したようにか細い煙をあげているろうそくを持って。なんとなく、たった今動くことを止めた人の終りを示唆しているようで少し不快な気がする。あの人のように中身さえ戻ればきっと、そうやって悲しんだりできるはずだ。空の腹をそっと撫でた。

 今度は何が起こるんだろうか。ろうそくから延々と流れ続ける煙を目印に何も言わずに歩く少年について行く。

 辿り着いた先は子供部屋みたく雲一つない晴天の色をした小部屋だった。綺麗な色なのに絶対的にまがい物だと感じる。中心には人が収まるくらいの繭がぽつんと置かれているだけだ。立ち止まってこちらに向きあった少年が変に浮いて見えているのは、彼はここの住人ではないからだろうか。彼だけが質量をもって存在している。偽の陽光に焼かれる少年を隠すように、体の周りに純白の花が咲き始め、徐々に少年を覆い隠して消えていこうとしている。歪めた視線のまま言われた言葉だけが強い存在感を残した。

「選ばれた癖に何も知らないのは罪に近くはないだろうか。知らなければ、感じなければ失う事もないのだから。それはわざとなのか。それとも。いや、すぐにわかるさ。無知の幸福は今ここで終りなんだから」

 嘘みたいに明るい部屋の中置き去りにされた僕の身が、ぱきりと音を立てて軋んだ。


 途端に体中が痛みだす。視界が無茶苦茶に回ってその場に立っていられない。よろめいて倒れた先、繭が待ち構えるように開いてこの身を受け止め、閉じ込められた。

 痛い、痛い。背骨から突き抜ける悪寒に反して全身は燃えるようだ。吐く息さえも熱を帯びる。暴れ出したいのに節々も骨もないはずの内臓すらも引き延ばされ折られる苦しさに呼吸もままならない。うずくまっているしかできない繭の中、自分のうめき声だけが響く。ないはずの心臓が耳の中に至るまでどくどくと鼓動する。湧き上がる何かに乱暴に作り変えられていく。今までの何かが渦になって僕を浸食する。


 どれほど気絶していたのだろうか。思考が乱れていて繭に入ってからがうまく思い出せない。意識が落ちる直前、猛烈な痛みに叫んだ時の身体中から吹き上げる血飛沫が唯一の記憶だ。覚めた時には繭の一面が真っ赤に染まっていた。それにしてもこんなにこの中は狭かっただろうか。ぼんやりしていると繭が蠢きだす。血を浴びた部分と斑に残る白い部分が個別に歪みだしている。それぞれが分裂し空間を保てなくなった繭が瓦解して地に落とされた。

 着地して少し、やはり背丈が大きくなっているなと近くなった天井を確認したり、血で染まっていない服を奇妙に思っていると、変形した繭が背後から覆うように降り注ぐ。赤い部分は無数の椿に、白い部分は蛇となって背を這い浮遊する椿を食む。

 黙々と椿を食い荒らす蛇を真似て自分もその肉厚の花弁を口へ運んでみる。鉄の味が拡がり次いで走馬灯のようにある日の情景を思い出させる。ああ、断片的で要領を得ないが解る。これは記憶だ。都合の悪い部分も忘れがたいあれやこれも都合良く、この部屋みたく色濃く蘇る。詰められるだけを成長にあわせ大きくなった腹に隠して、幾つかは蛇にやる。夢中でそれを追っているうちに部屋を後にした。きっとこの蛇からは逃げた方がいい。そんな予感に急かされる。


 あの部屋の隅にあった階段を降りてどれほど経ったか。もう何千かと思う段を降りて辿り着いたのは和室だった。簡素なようで一つ一つの調度品や縁側からの景色が見事で、初めて見たのに何かと重なって胸が締め付けられる。

 ふと縁側に活けられた立派な蓮池に人がいるのが見えた。素足でそこまで歩いていく。何かを思い出しそうで、蓮を縫って泳ぐ鯉の動きにすぐ搔き消される。

「其処でなにを」

「…ああ、待っているんだよ。友人をね」

 こんな場所でか。口に出しそうになって噤む。その様子に構う事無く男は続ける。

「あんたは死に水って知ってるか。所説あるが死んだ最後にその口を濡らしてやって、生き返ってほしいと願う意味も含まれてるんだ」

 確か死者が乾きを潤すよう、という意味もある儀式で、死に目まで看取る意味だったか。知っている。なぜ知っているかは朧気だが。

「だからこうして待ってるのさ、死に水をやるまで共にある友を」

 この池全てが死に水だとでも言うのか。恐らく約束もしていない不確定な相手を待ち構えている。終の時までその手を離さない執着心で。そんなに大事なら何故会いに行かないのか、会いに行けないのか。本当にその人は同じ熱量で貴方の事を想っているのか。何か寒気が走る。それでも一番恐ろしいのはその思考が驚くほど身に馴染む事だ。

「そうか。来るといいね」

「ああ、もう随分待っているんだ。時期に来るさ。あんたにもやるよ。いつかの日の為に」

 男は大きな蓮の葉に溜まった水をその葉から滑らせると、それは水玉のまま手の中に落ちて、椿を入れても尚空洞の多い腹につるりと落とした。そんなに大きな物でもないのに妙に重い。それきり男は沈黙して永い待ちぼうけに戻っていった。

 これからどうするか。ふと家屋の全景を見ると広大な敷地を横に上にと乱雑に積み重ねたように家々が繋がっているのが解る。その端と端の一番高い方からそれぞれ湯気のようなものが上っているのが見えた。次の行き先は決まった。

 何処をどう行くかは不思議と解る。というよりは行く方向へ向かって道が出来上がっていっている。思ったより苦労なく池から東の高い方へ辿り着けた。

 ここが特別だと解る金襴があしらわれた襖を開ける。そこには開け放たれた窓の桟に片肘をつき、煙管を燻らせる男がいた。床には自生しているのか菊が所狭しと咲いていて、男の下半身を飲み込んでいる。

 こちらに気付いた男は薄ら笑って肺から紫煙を吐き出す。

「おや客人とは。まだ早いと思ったがもうそんな時間かい。さて、話は早いに越したことはない。そうだろう」

「一体何の」

「まぁまぁ時間は有限だからといって結論を急ぐにはまだ尚早だろうよ。まずはその腹に持ち越す物種が必要だろう。そこにある菊でも摘んでお行き。何どうせすぐ生えてくる。そんなものさ」

 良くは解らないが、ここに来てから何一つ解った事はないのだから素直に足下にある菊を摘んで入れる。

「外はこんなにも清々しいじゃないか。いっそ憎いくらいにね。さぁもう出てお行き。もうここも君の居場所ではないのだから」

 話しは唐突に始まって唐突に突き放された。せめてとなんで晴れた空が憎いのかだけでも尋ねてみる。窓から陽を取り込んで旨そうに煙管を咥えているのに。

「気分によって見え方なんて山の天気程変わるものさ。例えば欲しいものが遙か遠くになったとして、さて君はこの世の全てが幸せだとして祝福できるかい」

 身の内の菊が重量を増した気がした。それは瞬の間だけ放たれた恐ろしく冷たい視線のせいだろうか。窓の外をぼんやり見ている肩越しの晴天、もう一方から上っている煙を目指して来た道を戻った。

 対岸に行くのも至極簡単だった。到着した西側の頂上も金襴の襖になっていて、開けてみる。そこは東側にあった部屋とよく似ていて、違うのは菊の色が黄丹色から竜胆色に変わっているのと、向こうより内向的そうな男が手にしているのは香炉という所だろうか。何か諦めたような視線を寄越す。

「いらっしゃい。来る頃だと思っていましたよ。小さくですが、本当に小さくですが、見ていましたから」

 指す先に東の部屋が見える。確かにかなり小さいが真正面のこの位置からはあの部屋がよく見える。

「あなたは彼に会ったのですね。まだ何方ともいえない身だからできる事」

 東側の彼の事だろうか。気になるなら会いに行けばいい。だが男は首を振る。

「隔たれているからどちらかなのです。会えるならそれは一つであってどちらかにならない。均衡は可能と不可能、向こうとこちら、混じり合えないから今になる」

 難しくて解らないが、今はそれでいいという。それに、と続けた男は根が生えた身体と菊の繋ぎ目を見せて力なく笑う。

「別たれたものは言われるまま此処に彼処に在らねばならない。だからせめてとか細いながらもこうしてお互いを確かめあうのです」

 見やった先には彼の肺から吐き出された紫煙が見える。顔も見えない程遠く、煙管と香炉は狼煙のように二人を繋ぐ縁なのだ。不確かで曖昧なものだけが絆だなんて、何時から、どうして。

 その時はらりと黄丹の菊の花弁が少し落ちて、香炉の彼は湿度を含んだ溜息をもらす。

「どうか少しだけ、ほんの少しでいい。それを分けて下さいませんか。その代わりにこの菊を差し上げますから」

 竜胆色と黄丹色の半分ずつが腹の中で揺れている。会えないならせめて、この竜胆色を彼にも渡そうともう一度黄丹の部屋に行こうとしたが、あんなにすんなりと行けたあの場所にはどうやっても辿り着けなかった。惑う僕に少し遠くで声がする。

「有り難う。此方からは一方通行なのさ」

 旨そうに吐き出す紫煙と全てを飲み込んだ薄ら笑いが見えた気がした。言葉はいつでも難しくて、どういう意味かはまだ理解できないが、何かすとんと腑に落ちる。試していないが、きっと竜胆の部屋には今からでも行けるだろう。何故か確信している。だがその真の意味を解るのはきっとまだ先だろう。目を反らすようにたまたま目の前にあった錆びた鉄の観音扉に手をかけた。

 取っ手を掴んで手前に引く。重厚な扉を思い切り力を入れ、なんとかすり抜けられそうな隙間を開いた。身を滑り込ませる。ここは四方が扉と同じく錆の浮いた黒い鉄で出来ている。中にあるのは服がはだけて上半身が露わになった男の背中、寄り添うように咲いた木蓮。周りに白い蝶がひらひらと肌や細枝に止まっては遊んでいる。顔だけで振り返った横顔は冷たい印象を受けて、中にこれ以上入ることは躊躇われた。

「丁度良かった。もう延々繰り返しだ。どうせならほら、其処の花でも持っていくといい。その代わり。近くに来て見ててごらん」

 近寄ると、花が独りでに蠢いているのが解る。言われるがまま見ていると、枝がしなって彼の肌にもたれ掛かる。開ききった花弁が肌に触れると、溶けるように吸い込まれていき、木蓮の形をなぞるように赤い線が刻まれていく。血は出ないが、それは確かに傷だ。枝や蕾に至るまでがそのまま傷の絵になって皮膚を裂いていく。彼がそれにあわせて呻き喘ぐ。痛みを逃がす息づかいまでしんとした部屋に響いて、反射で逃げようとする身体を抑えて耐えているのが肩甲骨の歪な動きから窺える。

 もう生えているのは枝だけになってしまった頃に木蓮は動きを止め、彼の肌には傷の刺青が痛々しく浮かんでいる。安堵の息を吐くと、疲れを帯びた目に捉えられる。

「これは花をやる対価だ。この傷をなぞってくれないか」

 そう言って小さな刃物を取り出して寄越す。もうそこにあるものを更になぞれとは。疑問に思っていると、花模様が最初にはいった首から順に薄れて消えていく。しばらく見ているとものの見事に全て消えてしまった。

「わかっただろう。いつまで経っても一部にならない。これはそういう呪いに近い。もういっそ消えないように刻んでくれないか」

 何もなくなった筈の枝は癒えた傷の分だけ元に戻って花を咲かせ、間を置かずしてもう花が彼に向かってしな垂れかかろうとしている。また一から傷をつけていくらしい。。

 きっとこれを何度も繰り返してきたのだろう。痛みごと忘れられないまま。もしもこの刃物で傷をつける事で終わるなら、やるべきなのだろうか。逡巡していると、また彼が奥歯を食いしばる。同じ位置に同じ痕。また首から順に消えだしていく。この花がないときっと進めないのだろうから。これが、対価だと言うならば。何度も繰り返していくのなら。

 消えていく線をできるだけ早く深くならないように。切っ先が皮膚の抵抗を感じ、次いですぐすんなりと入り込む。先程まで木蓮の痕では出ていなかった血が玉を作って刃の先に浮いている。そのまますっと曲線を描くと赤が滲んで垂れていく。躊躇していると花はどんどん枝に戻っていってしまう。彼の耐えきれない叫び声に聞こえないふりをして、黙々と彼を傷つけていった。

 全てが終わる頃、両手は血塗れで、彼は息も絶え絶えだった。歪ながらも全てを描ききると、蠢いていた枝は動くのを止め、ただ可憐に咲く花となった。

「これでもう痛まないね」

「そうだね。でも痛い事が嫌なんじゃない。本当に嫌なのは」



 綺麗な中庭、桜に囲まれた池で乾いた血を洗い流そうと手をつける。もう酸化して褪色していた血が水に溶けて新鮮な赤になる。揺らいでは薄れ消えていくのを眺めていると、澄み切った水面に浮かぶ散った桜の下を何かが通り過ぎていく。姿が見えそうで見えない何かにあわせて植えられた桜の木々を抜けていく。やがて一層大きくて枝垂れた桜の下、人が池に寝そべっている場所に着いた。泳いでいた何かは水面を揺らして枝垂れた桜に巻き付く。その姿に身体が強張った。細く長い胴に赤い目をした白蛇だった。直感的に繭から産まれたあの蛇だと解って少し距離を置いた所から様子を見守る。

 男は招き入れるように蛇が乗った桜の枝を自分の方へと寄せるが、それに乗じて乗り上げる蛇には見向きもしない。虚ろ。まさにその言葉が似合う姿だった。釦が幾つか外された服から見える胸元が、浸食されたように葉脈型に隆起している。白蛇も腹にはいるものの、何もせず男の身体を緩徐に這うだけだ。

 こちらに気付いていないうちにこの場を去ってしまおう。踵を返した直後に静かな声が聞こえた。

「どうした。ぼくは食べるところはないの」

 無機質なようで柔らかな問いかけに蛇は応えない。

「食べるほどのものはないかもしれないね。もう何も思い出せないくらいだから。悲しいくらいならいっそ忘れてしまえばなんて思った頃もあったかもしれないのに、どうしてだろうね、今はこんなにも痛みすら恋しい」

 何を忘れてしまったのだろう。何でもないような平坦な声での独白に芯が冷える気がした。感情の伴わない瞳が宙を見ている。もう何を失ったのか、または欲しかったのかも解らなくなったのに、それに思うところもない様が、知りもしない癖に知っている気がして心臓があるなら絞られるように痛んだだろう。

「もう怖いも悲しいも忘れてしまったよ。次の陽には一体あと何れを失うのだろう。目覚める時にもうぼくではなくなるのなら、次見る夢は幸せな。幸せってなんだったか」

 蕾が咲く。彼が抜け落ちるにあわせるかの如き拍子で、口数少なく語る度、何処かが咲いていく。だとしたら、この桜は、この散ったものは。

 水面を掬って落ちた桜を掻き集める。もう彼は何も喋らない。できるだけをこの身に詰め、振り切るように此処を後にした。木蓮の彼が言った台詞が何度も思い出される。

「本当に嫌なのは、全て消えていく瞬間。忘れてなくなってしまうことさ」


 何度も部屋を通り抜けて、玄関らしき場所へきた。砂利が敷き詰められ、歩いた先には塀と門扉が見える。閂を外して解放すると、外は上も下もなく不安をない交ぜにしたような不透明な色が広がっており、紫陽花が浮いていた。見ているだけで平衡感覚を失う。最盛期を過ぎた所々枯れ始めの紫陽花と共にもう一つ、朽ちかけた上半身だけの人物が浮いていた。骨まで剥き出しの身で花に埋もれてこちらを見下ろしている。口に咥えた赤い糸だけが淡い中にあって印象的だ。糸の先はどちら側にも背景の先に続いて見えない。

「彼方、此処、此よりは真。汝は汝を受諾する意思はあるか」

 空に響く声がする。目の前の人は糸を咥えたまま唇を震わせてすらいないが、声はこの人のものだと強い目線で解る。自分を受け入れるか、と質問を解釈したが、曖昧に頷いておく。

「何を賭しても、選択する覚悟はあるか」

 今の自分に賭けられるものなんて腹にある欠片達しかない。失ってもいいとは思わないが、このまま此処で堂々巡りをしても意味はないのだとは解る。進まなければならない。また頷く。

 それを見た人物は承諾したのか、はらりと糸を離した。今度は本人の口から声を発する。

「選択は常。後悔も常。得る事は失う事と識れ。繰り返すは業」

 視界が全て紫陽花で埋め尽くされていく。青と薄紫に覆われて、次いで次々と枯れていくと、目の前はずっと先まで伸びた赤い糸が落ちている道になっていた。向こうの方に何かがあるようだ。こちら側の糸の終わりはいつの間にか首に結ばれている。

 この先に向かわないといけない。赤い糸を辿りまた歩き出した。

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