習作 猿の神

 こんな獣道を進むなんて。彼女はそう言って嫌がったが、少し強引に連れてきた。しかしそんなことも忘れたかのように、この見晴らし台からの景色に彼女は瞳を輝かせていた。

「すごい……こんな場所があったんだね」

「ああ。子供のころに見つけたんだ。多分、誰もこの場所は知らない。僕と……君だけだな」

「そうなんだ……カメラ持ってくればよかった。スマホも置いてきちゃったし……」

「写真に撮れなくて残念だね。でもその分、自分の記憶に焼き付ければいいよ」

「そうね……」

 彼女はそう言って微笑んだ。

 ここで言うべき言葉は、この景色に関することではないと分かっていた。

 彼女は四月で異動する。仙台の支店に行くことになったのだ。営業の成績を買われて、向こうでの戦力として期待されている。役職が上がるわけではないが給料は上がる予定で、事実上の栄転のようなものだった。

 彼女は二十七歳。僕と同い年だ。会社の同僚であり、恋人。会社には僕たちの関係はばれていないが……むしろそれが問題だった。

 僕は異動はしない。彼女は異動する。道はいくつかあるが……何かをあきらめなければならない。僕自身のキャリアか、あるいは彼女のキャリアか。遠距離恋愛という道もあるが、今選択すべきはそれではない。結婚して、どちらかが仕事を辞めるしかない。

 一般的には女性が会社を辞める場合が多いのだろうが、彼女は僕より高給取りになる。その点では仕事を辞めるのは僕の方が適任で、僕が彼女についていき、向こうで再就職なりすればいい。

 しかし、僕はこの町を離れることができない。彼らとはそういう約束だった。

 だから僕は決意し、彼女をここに呼び出したのだ。

「うちの会社……あの赤い看板の向こうよね? こっから見えそう。ね、輝波雄……? 何、そ――」

 用意しておいた鈍器で彼女の頭を思い切り殴った。袋の中に湿った砂を詰めたものだ。ブラックジャックというらしいが、名前はどうでもいい。これは外傷を与えずに脳震盪を起こしやすく、血が飛び散らない。過去にはバットを使ったこともあるが、血が飛び散らないという点で、この鈍器の方が優れていた。

 彼女は膝から崩れ落ち、地面にうつぶせに倒れた。彼女はきれい好きだから、こんな風に倒れて土がつくのをものすごく嫌がる。でももう心配ない。目覚めることはないのだから。

 僕は結束バンドで彼女の両手を腰の後ろで拘束し、ついでに両足も拘束する。そして首はペット用の首輪をまいてきつく締めあげる。彼女が少し呻いたが、これでそのうち窒息する。暴れても結束バンドは解けないし、このまま死ぬだけだ。

 僕は彼女の上半身を起こし、僕の肩に彼女の体を乗せるようにして担ぐ。消防士担ぎという担ぎ方で、意識のない相手を担ぎのに最も適した方法と言われている。最初の時は腕をつかんで引きずっていったが、この担ぎ方の方がよほど楽だった。

 僕は獣道を少し戻り、その途中の横道を進んでいく。あの社に続く道だ。この横道は特別な時にしか見えない。僕が必要とし、そして彼らが必要とした時にしか見えない。

 肩の上で彼女が暴れる。意識が戻ったのだろうか。それとも気絶していても、苦しくて暴れているのだろうか。かわいそうに。もうじき楽になる。我慢してくれ、美里。

 五分ほど道を進む間に、美里は大人しくなった。ずっしりとした体重を感じる。肉の重さ。この肉体と魂は彼らのものだ。そして思い出だけが僕のもの。

 あの赤い社が見える。声が聞こえる。分かっているとも。すぐやるさ。

 僕は右奥の井戸の前に進み、その暗い井戸の中に美里を落とした。

 何度か石にぶつかるような鈍い音が聞こえたが、やがてその残響も消え、静かになる。そして数秒して底にぶつかる音がした。

 これで五人目。みんなこの井戸の底で眠っている。美里もやがて腐敗して土に還り、残った骨も朽ちていくだろう。

 僕は与えた。次は彼らが僕に与える番だ。

 何がもたらされるのかは分からないが、きっといいことに違いない。

「さようなら」

 帰る時は決まってこの言葉だ。彼らと、そして僕が愛した人たちに。またここに来るかどうかは分からなかったが、きっと来ることになるだろう。また誰かを愛し、そしてその時が来る。分かれはつらいけれど、一番美しい時間をこうして繋ぎとめる。きれいな思い出とともに、僕は生きていく。

 道を戻り獣道を抜けて帰る。登山道に出ると、登山道の先に彼らがいた。

 黒い猿の姿。三メートルほどの黒い靄のような体に、白い顔が浮かんでいる。目は黒く、唇は赤い。その赤はあの社の朱色と同じ色に見えた。

 黒い猿の前には旗を持った小人がいて、後ろには傘を差した男がいる。

 黒い猿がこちらを見ていた。まるで人形のように見える。しかしそれは生きていて、そして特別な存在であることが分かる。彼らは私の見送りに来たのだ。

 黒い猿はしばらく私を見ていた。やがて後ろを向き、小人達と連れ立って森の中に帰っていった。

 僕もその後姿を見送っていたが、姿が見えなくなったので、登山道を下って自分の車に戻った。

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ファンタジー小説の練習 登美川ステファニイ @ulbak

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