鳥の雛

多田いづみ

鳥の雛

 その日はいつにもまして帰りが遅くなった。

 べつに急ぎの仕事があるわけではない。電話の応対やら打ち合せやらでひんぱんに作業を中断させられる昼間と違って、しんと静まった夜のオフィスは、おもしろいほど仕事がはかどるので、つい時間を忘れて遅くまで居残ってしまうのだ。けっして仕事中毒だとかそういうことではない。


 会社の入った建物は、開発されたばかりの商業地にある真新しい高層建築物で、海の見える湾岸沿いにあった。建物は最新の設備を備えているにもかかわらず、節電やら残業時間の短縮やらさまざまな理由で、夜の十時に照明も空調も切られてしまう。そのため建物は暗く、空気はどんよりしていた。


 オフィスには机が整然と並んでいた。が、照明のついていないせいか、それは黒光りする墓石の群れのように見える。そのなかに、わたしのところだけデスクライトの明かりがぽつんと灯って、カタカタとキーボードを叩く音が闇に響いた。


 オフィスの大きなガラス窓からは、灰色がかった海と、湾の外を通る大型船が見えた。

 海と一口に言っても、風光明媚な行楽地のそれとは違い、コンクリートで固められた護岸には打ち捨てられたような倉庫がひっそりと立ち並んで、晴れの日は晴れたなりにぼんやりとくすみ、曇りの日はどんよりと暗く沈むだけの、単調で物悲しくなるような代物で、どこをどう切り取ってもわたしの心を浮き立たせるような存在ではなかったが、そこを通る船となるとまた話は違った。


 用紙に打ち出された細かい文字を拾う作業に疲れると、わたしはよく窓ぎわに行って、板チョコレートを海に浮かべたようなタンカーや、色とりどりのキャラメルを載せたようなコンテナ船が、意外なほどの速さで湾を通り過ぎていくのを眺めた。遠くのものを見るのは目を休めるのによかったし、気分転換にもなった。

 けれど深夜となった今、窓の外にはただのっぺりとした暗闇が広がっているだけだった。


「もうこんな時間か……」

 と、わたしは時計を確認しながら、ひとりごとにしては大きすぎる声で言った。

 暗い仕事場にずっとひとりでいると、しだいに妙な重苦しさを肩や背中に感じるようになる。それをふり払おうとして、ひとりごとが多くなるのだ。

 冷えたコーヒーをぐいと飲み干して机の上をかたづけると、わたしはオフィスを出てエレベーターへと向かった。廊下には常夜灯がついているので、なにかにつまずくほど暗くはなかった。


 エレベーターは案の定、わたしだけだった。こんな大きな建物でも、今の時間まで居残っている人はそう多くはない。が、意外なことに途中の階でエレベーターが止まると、女性がひとり入ってきた。


 彼女のことは見知っていた。同じ会社の社員で――と言ってもわたしとは別の部署に所属していて、顔をあわせる機会もあまりなく、名前も知らなかったが――いつも髪をうしろでまとめていて、ゆで卵を剥いたような、つるりとした他人より広めのきれいなひたいをしていたので、よくおぼえていた。逆に言えば、わたしの興味は彼女の額にすべて引き寄せられて、顔はどんなだったかとか体はどんなだったかとかは、ぜんぜん記憶になかったとも言えた。


 軽くあいさつを交わしているあいだに、エレベーターの扉が音もなく閉まる。

 彼女は小柄で、こうして横に並ぶとわたしよりも頭ひとつ背が低かった。宙にぽっと水玉が浮かんだような丸い額は、以前にも増して美しく見える。わたしはなぜかボッティチェリの描いたプリマヴェーラのことを思い出した。


 そして――それはまるで彼女の完璧な付属物であるかのようによく馴染んでいたので、その異様さにもかかわらずしばらくのあいだ気がつかなかったのだけれど――彼女は、こんもりとした白い毛玉? のようなものを抱えていた。それは女性が持つ装飾品の類いなどではなく、もっと有機的な生々しさを感じさせるものだった。


 それは何かとわたしが訊ねると、

「鳥のひなよ」

 彼女は別になんでもないというように、あまり表情を変えることもなくそう言った。

 ふうんなるほど、とわたしはいかにも感心し、興味を持ったようなふりをしてあいづちを打ったが、それはただ何と言っていいのか分からなかっただけだった。


 しばらくして彼女は、少しのあいだ雛をかわりに持っていてくれないか、と頼んできた。

 深夜のエレベーターでよく知らない女性のものを、それも鳥の雛を預かるというのはなんだか妙な感じがしたし、そもそもわたしは生き物が苦手だというのもあって、あまり気がすすまなかった。

 かと言ってうまく断る理由も思いつかなかったので、しかたなくうなずいて手をさし出した。


 手渡された雛は、ちょうど手のひらにすっぽりとおさまるくらいの大きさで、綿毛のようにふくらんだ羽毛は、柔らかくて温かかった。トク、トク、トク、と小さくて力強い鼓動が手のひらを打つ。鳴いたり暴れたりするのではないかと心配したけれど、受け取ったときにほんの一瞬小さな羽をパタパタと動かして腰をすえたあとは、首をすくめて目を閉じたまま気持ちよさそうにじっとしていた。


 そうしてようやく雛の温もりに慣れかけたころ、もういいありがとうと彼女が言うので雛を返すと、彼女はとつぜん何かに気づいたように、はっと表情を変えた。


「あなた、ひょっとしてわたしに気があるんじゃなくて?」

 彼女はそう言って、上目使いにわたしをじっと見つめた。


 それは不意打ちというか、まったく思いがけない質問だった。

 たしかに彼女の額は文句なしに魅力的だったから、下心がなかったといえば嘘になるけれど、今からデートに誘うにはいくらなんでも遅すぎたし、おまけにひどく疲れていたのでそんなつもりもなかった。しかし、なぜかわたしはいたずらを見つかった時のような恥ずかしい気持ちになって、あわてて彼女から目線をそらした。


「え、いや……ちょっと……」

 と、わたしは肯定でもなく否定でもないわけのわからないことを言ったきり、次の言葉がうまく見つからずに口をつぐんだ。

 返事を待っているのだろうか、彼女はそのままわたしを見続け、わたしは彼女から目をそらし続けた。それは、ほんの一瞬の出来事のはずだったが、永遠の時のように感じられた。


 そして、気まずい沈黙をかき消すように到着音が鳴り、ゆっくりとエレベーターの扉が開く。彼女はわたしの返答を待つことなく、足早に去っていった。

 コツ、コツ、コツ――。足音はしだいに小さくなって闇の中に消えたが、取り残されたわたしの手には、まだ雛の柔らかな感触が残ったままだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鳥の雛 多田いづみ @tadaidumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説