事故物件

龍宮真一

事故物件

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事故物件とは、広義には不動産取引や賃貸借契約の対象となる土地・建物や、アパート・マンションなどのうち、その物件の本体部分もしくは共用部分のいずれかにおいて、何らかの原因で前居住者が死亡した経歴のあるものをいう。


(ウィキペディア『事故物件』より引用)

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 鈴木智恵が友人から聞いた話は、1人暮らしをする上で聞いておいて損の無い内容ではあった。ただ『知りたくなかった』という気持ちも同時に抱いてしまう内容だった。

 殺人、自殺、孤独死。何らかの理由で部屋や物件で人が死ぬとしよう。そうすると、その部屋や物件に住む人々は精神的な負荷を感じる事が多い。そう言った『心的負荷がかかる物件』の事を、世の中では『事故物件』と呼ぶ。

「問題はね、不動産屋が契約時に告げなければいけない責任を負うのって、結局『前の住民が』ってところがポイントなのよ」

 友人は真剣に話している。だが智恵には『怖がる人に怪談話をして悦んでいる』ようにしか感じられなかった。

 智恵は自分がそんなふうに思ってしまう事が嫌だったし、怖い話はやめてと言えない自分も嫌だった。

「要するに、自分がその部屋を借りる前に誰かが1度でも部屋を借りて住んでいたら、そこが事故物件だって伝える義務は無いの!」

 ドヤ顔で言う友人に、智恵は引きつった笑いで応える。

(どうして1カ月前から1人暮らしを始めた自分にこんな話をするのだろう。どうせなら、部屋を探している時に教えてくれればよかったのに)

 智恵はそう思わずにはいられなかった。

 友人は自宅から職場に通っている。恐らく事故物件とは無縁の生活をしているのだろう。

(だからこんなに無邪気に話せるんだ)

 智恵は軽く怒りを覚えていた。

 とは言え。

 智恵の友人がこんな話をし始めた理由は、智恵自身にあった。この友人に相談を持ち掛けたのは、智恵なのだ。


 —— 最近、部屋の中で視線を感じる。


 1人では不安を解消できず、智恵は思わず大学からの友人にそう話してしまったのだ。

 初めての1人暮らしで不安に感じていたのは否めない。

(だから、ありもしない人の気配や視線を感じた気がしただけよ、きっと)

 智恵は自分に言い聞かせたが、心のどこかでその楽観的な思いを否定する自分が居る事も感じていた。

「たぶん無いとは思うけどさ。本当にその部屋が大丈夫なのか、不動産屋に問いただした方が良いんじゃないかって思うの」

 友人は大真面目に鼻息を荒くした。

(そんなことをしたところで、告げる義務がない事を不動産屋がわざわざ話してくれるとは思えないけど……)

 智恵は苦笑いをこぼし、この友人からの助言は今の自分にとって重要なものではないと判断したのだった。

 友人とはファミレスで別れた。

 智恵は少しの罪悪感に苛まれていた。自分は結局、自分が安心できるような言葉を聞きたかっただけなのだ。


『心配ないよ』

『大丈夫だよ』

『気のせいだよ』


 そんな、自分の楽観的な思いを肯定してくれる言葉。それを言ってほしかっただけだったのだ。

 智恵はそれに気づいてしまったのだ。

「私って嫌な奴……」


 ◆◆◆◆◆


 仕事から帰ると、玄関を照らすLEDライトが出迎えてくれる。智恵の帰宅はいつもそうだった。防犯からもこのライトは一日中消さずに点灯させている。

 常に帰宅時間が22時を過ぎてしまう智恵にとって、玄関のライトは精神安定剤の一種でもあった。

 扉の前に立って、カバンの中に手を入れる。いつもの場所に鍵を入れている。半ば無意識にその行動を実行し、取り出し、玄関の鍵を開けた。ガチャリという音を確認し、鍵を抜いてカバンの同じ場所へと仕舞う。ドアノブに手をかけ、軽くひねった。

 ドアを開けて中に入り、後ろ手に扉を閉めて鍵をかける。

「すぅぅ……ハアア……」

 玄関はお気に入りのアロマが空間を満たしている。智恵は帰宅すると決まって玄関で深呼吸をする。そうする事で、自分の中のスイッチを切り替えているのだ。

 廊下の電気を点けると、その先にある自室まで光が零れていく。

 智恵は部屋へ行く前に風呂場に行き、バスタブにお湯を張る為に排水口に栓をする。外側にある給湯用のパネルで『お湯張り』ボタンを押すと、いつもの音声が『お湯張りを開始します』と告げた。

 自室に入り、ライトを点ける。出かける前のままになった自室を見渡し、智恵は安堵した。

(……私、安心してるの? 何に?)

 そう。そこには確かに、安堵している自分が居た。

 最近いつも、心のどこかで考えているのだ。

 帰宅後の自室に嫌な変化があるのではないかと。

 自分が居ない間に、何かが変わっているのではないかと。

 だが実際にそうであったなら……。

 その『もしも』を考えたところで、自分がどうしたら良いのかなんて智恵には想像もつかないでいた。

「馬鹿みたい」

 そんなあり得ない事への不安を想像し、智恵は自嘲気味に呟いた。


 ◆◆◆◆◆


 智恵が目を覚ましたのは、目覚ましのおかげでは無かった。

 そもそも目を覚ますような外的要因は無い。

 騒々しい音などまったく無い、静かな自室のベッドの上だ。

 チッ、チッ、という目覚まし時計の秒針がたてる音だけが室内を満たしている。その目覚まし時計に視線をやり、時間を確認する。

 3時。早朝の3時だ。

「ハァ……」

 智恵は思わずため息をついた。

 ここ1週間、同じ感じで早朝に目が覚める。

 布団に入ったまま、視線だけで部屋を見回す。

(あぁ……まったく嫌になるわ……)

 廊下と部屋を隔てる扉。磨りガラスになっているその扉の向こう側に、確かに見える。


 黒い、人影。


 いったい何度同じことが起きるのだろう。

 初めての時は全身が麻痺するような恐怖によって、金縛りにあったかのように身じろぎひとつ出来なかった。

 今も恐怖は感じている。

 確かに感じてはいるのだが……

 またか、という思いも強い。

 そして湧き上がる、怒りの感情。

 だがそんな怒りの感情も、次の瞬間に吹き飛んでしまった。


 ギギッ……


 扉についたレバー型のドアノブが、ゆっくりと下がっていく。

 今までこんなことは無かった。今まではすべて、扉の向こうの出来事だった。

 智恵は後頭部が一気に痺れてくるのを感じた。

 1週間前に感じた恐怖の感覚が、水滴が水面に落ちて波紋が広がるように身体を蝕む。

 口の中が異常に乾いて感じた。

 飲み込めない唾を飲み込もうとして、喉に痛みが走る。

 だがその痛みが、智恵に一瞬の自由を与えた。


 ギィ……


 ゆっくり開く扉。

 智恵は上半身を一気に起こすと、右手で枕を掴んで力の限り扉に投げつけた。


 バァンッ!!


 早朝の3時に出すような音ではなかった。

 それほどの衝撃音が、部屋中に響いた。

「ふざけないでっ!!!!」

 その音よりもさらに大きな声で智恵は叫んだ。

 開きかけていた扉は衝撃で再び閉まり、向こう側に見えた人影は見えなくなっていた。

 智恵は寝間着の胸の辺りを掴むと、その手が震えていることに気が付いた。

 肩で息をし、心臓が早鐘のように打っていた。全身の足りなくなった酸素を届けるため、ドクドクと血液を送り出していた。

(明日……不動産屋に行こう)

 智恵は仕事を休むことを決心していた。


 ◆◆◆◆◆


「お話しする事は出来かねます」

 想像していた通りの返答を受け、智恵は心の中でため息をついた。

 告知義務が無いのだから、当然の反応だろう。

 だが、こちらは既に被害を被っている。心療内科に行って心的苦痛を受けている事を証明してもらう事も難しくないだろう。

「そうは仰られましても……分かりました。もう一度上司に確認してまいりますので、今しばらくお待ちいただけますでしょうか」

 女性はそう言って席を立ち、店の奥へと消えていった。

(本当は疑ったりしたくないんだけど……)

 それほど大きな不動産屋ではないが、自分が初めて一人暮らしするために訪れた店で、担当者である男性はとても丁寧に対応してくれた。だからこそ、今の部屋が事故物件であるとは思いたくなかった。

 だが、智恵は友人の言葉が気になって仕方がなかったのだ。

 考えすぎであってほしい。智恵は心からそう思っていた。

「お待たせ致しました」

 戻ってきたのは、先ほどの女性ではなかった。

「店長の長嶋と申します」

 名刺を出しつつ自己紹介をする男性に、智恵は見覚えがあった。

 契約の時に担当の男性と何かしらやり取りをしていたはずだ。

「お客様の担当をしておりました横田ですが、つい先日退職いたしまして……」

「え?」

 智恵の口からは、間の抜けたような返事しか出てこなかった。


 ◆◆◆◆◆


 結局、智恵が不動産屋に足を運んで得られた情報は、部屋探しを担当してくれた横田という男性がつい最近退職したという事実だけだった。

 あの後、色々と尋ねた智恵だったが、店長の長嶋が多くを語ることは無かった。安心してくださいの一点張りだったのだ。

(安心も何も、今起きてる状態が普通じゃないんだってば)

 智恵は心の中で文句を言いながらも、まぁ仕方がなかったんだろうと自分を納得させようとし始めていた。


 そして……また夜がやって来る。


 ◆◆◆◆◆


 途中で目が覚めないようにするため、智恵は深夜の2時に布団に潜り込んだ。

 これで眠ってしまえば、さすがに3時に目を覚ますことはないだろう。そう考えたのだが……。

 そんな考えが甘かったことを、思い知らされることになった。

(また……目が覚めちゃった……何時?)

 枕もとの時計に目をやる。


 時計の後ろから、人がこちらを見ていた。


 脳天から足の指先まで、まるで雷でも落ちたかのような衝撃が走る。

(あ……あぁ……)

 時計の向こうは、すぐ壁だ。

 人が入るスペースなど、有るわけがない。

 だが確かに、そこから人が覗いている。

 その目は暗く落ち窪み、瞬きをせずに智恵を凝視していた。

(怖い。見たくない。でも目を閉じるのも怖い。逃げたい。でも身体が動かない。怖い。見たくない。怖い。逃げたい。怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!!)


 ズル……


 時計とは反対側から、何かを引き摺る様な音がした。

 今や智恵の五感は異常なまでに研ぎ澄まされていた。

 そんな状態が、嫌でも音の出どころと状態を想像させてしまう。

 気配がする。

 何かが居る。

 時計の横の顔は、未だに智恵を凝視している。

 反対側の気配が動いてきて、ゆっくりと自分の顔の横まで来た。

 息が顔にかかっている気さえする。

 息遣いが聞こえる気がする。

 何かが月明りを遮り、自分の顔に影を落としている気がする。

 いや……

 気がするだけでは……なかった……


『綺麗ナ髪……許セナイ……』


 はっきりと、智恵には聞こえた。

 耳元で、低く、唸るような声が、空気が抜ける音とともに発せられた。

 智恵はもう、何も考えられない状態だった。

 無意識に両目から涙が溢れ出していた。

 智恵の肩を、何かがつかんだ。

 手だ。節くれだった手だ。

 そのすぐ後に、髪を引っ張られる感覚があった。


 ギリ……ギリ……

 ブチ……ブチブチッ……


 髪が引き千切られる感覚。

(痛い! 痛いぃぃっ!!)

 その痛みが、溢れる涙をさらに加速させた。

(なんで? なんで私が? なんでこんな目に?)

 智恵はそう思わずにはいられなかった。

 泣きたくなんて無かった。

 だがそんな智恵の気持ちとは裏腹に、悔しさと恐怖と痛みが、両目に涙を溢れさせた。


 時計の横にある顔が、唇を動かした。


『オ前ハ……出テイケェェェェ!!!』


 顔が膨れ上がった。

 瞬く間に天井に届くくらいの大きさになり、顔が叫び声をあげた。


 プツリ――

 

 智恵の意識は、そこで途切れた。


 ◆◆◆◆◆


 翌朝。

 智恵は目覚まし時計の音で目が覚めた。

 何事もなかったかのような状態で、ベッドの上で布団をかぶって横になっていた。

 体温が下がったりもしておらず、本当に何事もない目覚めだった。

 智恵は上半身を起こし、部屋を見渡した。

 寝る前と、何も変わっていない。

 まだベルを鳴らし続けている目覚まし時計に、恐る恐る視線を向ける。


 顔は―― 無かった。


 目覚ましを止め、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

 どうやら知らず知らずのうちに息を止めてしまっていたようだった。

 思い出したくなど無かったが、無理なことだった。

 智恵の脳裏には、くっきりと昨夜の出来事が焼き付いてしまっていた。

 多分、いや、間違いなく、その記憶は一生智恵を縛り付けるだろう。

 智恵は陰鬱な気分のまま、布団から出て洗面所へ向かった。

 顔を洗って気持ちを落ち着けたかったのだ。

 洗面台の蛇口をひねり、水を出す。両手に水をため、顔を洗った。

 顔を拭いた後、洗面台に髪がはらはらと落ちていくのを見た。

 右手で髪を鋤いた。

 指の間に、ごっそりと、髪がまとわりついていた。


 悲鳴が、響いた。




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