伯爵令嬢は物語を愛する ~ありふれた婚約破棄におけるひとつの結末~

彩瀬あいり

伯爵令嬢は物語を愛する

「テレサ、君との婚約を破棄する」

 貴族の子どもたちが通う学園のホールに、第二王子・フリッツの声が響き渡った。

 卒業を間近に控え、式典の予行演習が行われている。多くの生徒が集まる衆人環視のもとで放たれた先にいるのは、勝気そうに翡翠の瞳を燃やす女生徒。

 平等を謳う学園ではあるが、制服を彩る襟元のタイで爵位を示すことが慣例で、女生徒のそれは伯爵家。そうでなくとも彼女は知られる存在で、向かい合う第二王子のかたわらに立つ女生徒と比較する声も多い。

 驚きか、得心か。

 王子と彼女、どちらに味方すべきか悩む生徒たち。

 それこそが、テレサ・ドルステンが待っていたものだった。



     ◇



 少女が第二王子と婚約したのは、七歳の頃。

 第一王子の生誕祭に関わった父親に付いて訪れた王宮は、見たこともないほど広く美しかった。己が住む邸とは比べものにならない。

 ひらりと舞う蝶のように庭に踊り出た可憐な少女は、花香る庭園の奥で第二王子と巡り会う。刹那、まるで運命の邂逅であるかのように、荘厳な鐘が響き渡った。

 美しい金色の巻き毛は柔らかな風になびき、それはさながら天使のごとき――



「盛りすぎじゃないですか、それ」

「大袈裟なぐらいでちょうどいいのよ。わかっていないわねルークは」

 振り返り、右手に持っていたペンを従者に突きつけて、テレサは言う。

「本当のことを書く必要はないの。フリッツが庭にいたのは迷子になっていたのだとか、泣きべそをかいていたとか、そんなことはどうでもいいのよ」

「いえ、私が言いたいのは、悪役の立場である少女が主人公じみていることについてでして」

「流行りらしいわ。王子の恋を邪魔する少女は、公衆の面前で断罪されるのですって。悪趣味よね」

 肩を落とし、これ以上の問答は受け付けないとばかりに、机に向かう。

 忘れないうちに書き留めておかなければ。小説においてリアリティは大切。読者の感情を揺さぶるには、己自身の叫びを込めなければならないはずだ。

「しかし見せ場である婚約破棄シーンにおいて、お嬢様の投影である少女が震えるのは、屈辱でも哀しみでもなく歓喜なのでしょう?」

「わたしの気持ちはどちらでもいいじゃない。どう感じるかは読者にお任せするわ」

「作者のリアルな感情とはなんだったのか」

「うるさい」

 口出しはするけれど、テレサのやっていることを決して否定しないルークは、よい従者だと思う。

 十歳を機に父が付けてくれた彼は、家族にも等しい存在だ。貴族令嬢のくせに、物語を書いてみたいだなんて、俗っぽい趣味を秘密にしてくれている。


 テレサは本が好きだ。

 絵本に始まり、年齢を重ねるにつれ幅も広がり、一般に流通している大衆小説も読むようになった。外交官をしている父親の伝手で、外国の本だって手に入るのだ。ドルステン伯爵家の蔵書は多岐に渡る。

 代々、読書家であり好事家でもあるため増える一方。父の代になり、敷地の隣に図書棟を建ててしまったほどだ。

 利用者は主に王宮の文官や研究員。もともと有名だったドルステン家の蔵書が気軽に読めるとあって、文献や論文などを参考にするべく通ってくる。

 一角には物語の書架もあるが、そちらの利用者はまだ少なかった。商業区にある貸本屋のようにはいかないらしい。

 だからこそ、こうして趣味に勤しむことができるのだが、できればたくさんのひとに手に取ってもらいたいというのが、父から図書棟の管理を任されたテレサの願いである。



「それで、天使のような少女が成長して学園へ通うことになり、同級生となった弱虫王子が他の女に懸想して白昼堂々と逢引を繰り返した挙句、多くの生徒たちの前で婚約破棄を告げるこの物語は、どういう結末を迎えるのですか?」

「なにか、とってもトゲがある言い回しね」

「世にありふれた物語の内容を、ざっくりと要約しただけですよ」

「……わたしが書いているものは、独自性に欠けるって言いたいのね」

「むしろ、典型通りに行動なさっているフリッツ殿下に私は感動しています。それを喜び勇んでネタにしているお嬢様にも」

「喉が渇いたからお茶が欲しいわルーク」

 従者の言葉を遮って、テレサは休憩を求めた。

 応じて一礼した青年は、脇の給湯室に消える。丁寧な物腰はいつものことだけれど、今日にかぎってはどこかとげとげしい。

 忠実なる下僕を自称するルークは、フリッツの言動に怒っているのだろう。七歳の折に結ばれた契約は、多くの者が成婚する十八歳を迎える直前に一方的に破られたのだ。

 まだ王家から連絡は来ていないけれど、城に勤めている父や兄には一報が入っていることだろう。女の自分は待つことしかできない。貴族令嬢とはそういうものだ。

(いいのよ。フリッツとは互いに心を通わせたわけではないし)

 負け惜しみではなく、呟く。

 自らの筆で振り返ったように、フリッツとの出会いは第一王子の誕生パーティー。

 国内外の貴人が集まるなかには見慣れない顔ぶれも多く、テレサは四歳上の兄と一緒に歩きまわった。テーブルには異国の珍しい菓子や料理が並んでいて、舌を喜ばせる。父にせがんで、伯爵家の料理人に再現してもらったほどだ。

 第一王子は、どうやら兄と学園で仲良くなったようで、妹を紹介する約束をしていたらしい。互いの弟妹も同じ年ということで、自分たち同様に仲良くなれたらという兄心だったのだろう。

 テッサ、殿下だよ。友達になったんだ――と笑う兄は、妹から見ても豪胆だった。

 快活で優秀な兄殿下と比較されるせいか、どこか卑屈で気弱だったフリッツは、王宮の庭でひそかに泣いていた。迷子になったらしい。

 広い庭を散歩していたテレサは偶然彼を見つけた。

 泣き顔に気づかない振りをしたことで気に入られたのか、パーティーが終わるまでのあいだ、ずっと話をしたものだ。

 それ以来、テレサはフリッツ係になり、いつのまにか婚約者になっていた。

 周囲は大歓迎だし、第一王子は「本当に妹になるなんて。私もテッサと呼んでもいいだろうか」と嬉しそうだし、なんというか完全に外堀が埋まっており、テレサの意思が介入する隙間はすでになかった。

 恋と呼べるものではなかったけれど、貴族の結婚というのは家同士の契約らしいので、まあいいかと結論づける。

 べつに嫌いではない。そのうちどうにかなるかもしれない。

 絵本のお姫様たちのように、王子様との結婚に憧れもあった。


 こうして王家と縁を持つ偉業を成し遂げたテレサは、ドルステン伯爵家に大いなる利をもたらした。

 外交官の父は出世し、兄は第一王子にもっとも近しい友人となった。美しい容姿で名を馳せた母はふたたび脚光を浴び、社交界で名を聞かない日はないほどだ。

 婚約から三年。齢十歳にして、テレサは嫉妬という名の洗礼を浴びた。

 もっとも弱く、もっとも幼い少女はドルステン家を羨む者たちの餌食となった。

 王宮の庭。テレサが乗った馬が突然暴れ出し、振り落とされた少女はしたたかに腰を打ちつけた。

 宮廷医師による治療の甲斐なく後遺症は残り、身体機能を一部損傷した。歩行は困難となり、わずかながらに喉も潰したのか声も細くなった。それまでテレサを形作っていたものの大半が失われた。

 王家の名誉にかけて捜された犯人とおぼしき者は複数で、馬に細工をした者だけではなく、毒を盛った者もいたのだとか。テレサへの妬みではなく、それらは父や兄、母に向けられたものであったことがわかったとき、家族らは嘆いた。

 職を辞する覚悟を決めた父を止めたのは、他ならぬテレサだ。


 父さまはもっともっと立派になるべきなのです。そのほうがずっと素敵だもの。

 わたし、運動は得意ではないから、足が悪いのはとってもよい口実です。授業を免除してくださいますわよね。

 それに、ねえ、父さま。異国には車椅子というものがあるのでしょう? わたしがそれを使うことによって、同じ苦しみを持つ国民たちの知るところとなるのではないかしら。外交官の腕の見せどころよ。


 しばらく休学したのち、テレサは国内第一号となる車椅子保持者となり、広告塔を務めた。

 学内では基本的に使用人を配することはできないが、事情が事情だ。特例で認められた少年を従者に携え、テレサは己の身に起きたことなどおくびにも出さず明るく過ごし、その姿は多くの民に讃えられた。

 しかし、貴族間の評価はふたつに割れる。

 満足に社交ができないであろう令嬢に価値はあるのか。第二王子の婚約者の地位とて、いつどうなるかわからない。なにしろ彼女は、国民の前に「立つ」ことができないのだから。

 ゆえに、テレサはフリッツが他の女性と縁を結ぶことを心から応援した。

 自分のことを決して重荷にしてほしくない。同情なんてもってのほか。それはテレサの自尊心が許さない。

 すべて話し合って決めたこと。

 国王を交えて、もう決まっていたことなのだ、あの婚約破棄宣言は。王家とテレサの家族だけが知っている茶番劇でしかない。

 フリッツに想う女性が現れたなら、婚約を解消する。もとより周囲のお膳立てで決まった結婚。互いのあいだにある感情は、姉弟のそれに近いことを、ふたりはよく知っていた。

 そんな不義理はできないと泣くフリッツにテレサがつけた条件は、多くの生徒たちの前で宣言することだった。

「わたしをヒロインにしてちょうだい。世に溢れるロマンス小説のようにね。勿論、慰謝料だってたくさんもらうから、覚悟なさいフリッツ」

「……わかった。テッサの言うとおりにする。盛大にフッて、誰がどう見ても悪いのは僕だって見せつけるから」

「あら駄目よ。だってわたしの役どころは断罪されるお嬢様なんだもの。悪者になるのはわたしなの」

「テッサは本当に物語が好きだよね」

「ええ、とっても大好きよ。貴方よりずっと愛してる。だから最高の物語をわたしにちょうだい」


 テレサは本が好きだ。

 物語の中でなら、なんでもできる。どこへだって行ける。

 声のかぎりに歌い、野を駆ける、馬を駆る。己が足で歩み、さまざまな国を訪れることだってできる。どこまでも行ける。

 だからテレサは、物語を愛している。


 口にしたことはないけれど、その心はきっと家族には察せられていて、父は娘の将来を見越して図書棟管理の仕事を与えてくれた。

 邸と地続きでありながら、独立した建物。いずれ家を継ぐであろう兄が妻子を設けた際は住まいを分けることができるように、日常生活が送れる最低限の設備も整えられている。

 二階への階段脇にはゆるやかなスロープがしつらえられており、昇降機も設置されているため、他人の手を借りずとも単独での移動が可能。本棚同士の幅は広く取られていて、車椅子のテレサが不自由なく過ごせるような配慮がそこかしこにある。

 ドルステン家の図書棟は、テレサのために作られた、テレサの城だった。

(わたしはとても幸せだわ。醜いと虐げられることもなく、居場所を作ってくれた。塔に閉じ込められたお姫様のように、窓から長い髪を垂らさなくても大丈夫)

 王子様は迎えにやってこないけれど、同じように書物を愛するひとびとがテレサのもとを訪れる。

 学園の友人たちは、卒業したあとも図書棟へ遊びにきてくれるはずだし、これから社交界に足を踏み出す彼女たちの愚痴吐き場所としても利用してほしい。そうしていまの流行を教えてもらって、テレサはそれを物語るのだ。

 これまでは読む一方だった物語を、自身で紡ぐ。それを製本して書架に並べるのがテレサの夢なのだけれど、恥ずかしくて誰にも言ったことはない。知っているのはルークだけだ。

 事故のあと、父が連れてきた異国の少年はテレサの話し相手として配された。あのころ――誰が犯人なのかもわからなかったあの時期は、自国の人間はたとえ子どもであろうと信用ならず、テレサに近づけることはできなかったのだろう。

 見慣れない黒髪に藍色の瞳をした少年は、まるで夜の化身だった。

 金髪ブロンドの中に紛れ込んだ異質な色を持つルークは、ちっとも物怖じせずに生きていて、その姿にテレサは憧憬の念を抱いた。

 怪我を負った自分に対するまなざしが怖かった。

 同情されるのが嫌だった。

 誰かを恨むのも嫌だった。

 なにを思うか、なにをどうしたいのかは自分で決めたい。

 ルークを見て、テレサは自分の未来これからを強く意識したのだ。

 集団のなかにいる異分子。他と違うと蔑まれた水鳥がやがて美しく羽ばたく鳥となったように、自分も気高く生きよう。

 必死にあがいて、けれどその姿は見せず。

 皆の目には、強く美しく気高い伯爵令嬢として映ってみせる。

 テレサの決意を知ってか知らずか、ルークは身体を起こせるようになったテレサ専属の従者となった。

 手を貸し、時に周囲の敵から彼女を守る盾となり、使用人の鑑として仕えてくれた。感謝している。

 従者として学園に通うにあたり、ふたつ年上のルークは年下のなかで生活してきたことになる。

 浮いた噂のひとつもなく、かといって男色という陰口もなく。あるじとしては忠義に報いるべきなのだろうが、ルークの望みがいまひとつわからない。なにしろテレサは自由のきかない身体だから、なにをするにもルークがついてまわるのだ。彼に隠れてなにかを用意することは不可能ともいえる。

 以前、兄に相談を持ちかけたことがあったが、あまり役には立たなかった。

「簡単なことだ、テッサ。あいつにとっては、おまえ自身が褒美だよ」

「兄さま。とっても下品ですことよ」

「可愛い妹よ。いつのまにそんないかがわしい本を読むようになったんだ、兄は興奮……いや、哀しいぞ」

 兄の性癖はともかくとして、使用人としての分をわきまえているルークにかぎって、それはありえない。

 決して踏み込まない、領分を侵すような真似はしない。

 何年経っても、彼はテレサを愛称では呼ばないのだ。それを口にする立場にはありません、と。

 そんな潔癖なところが好きで、だからテレサはもどかしい。

(動けないでいるわたしは、フリッツのことを弱虫なんてもう呼べないわね。彼は立派に役目を果たしたもの)

 第二王子妃に求められるのは、兄殿下の立場を脅かさない程度の家格。それでいて、あまり身分が低すぎるのもよくはない。

 父や兄の立ち位置も踏まえて、テレサは釣り合いがとれた理想の相手だったのだと、大きくなった今ではわかる。

 このまま結婚したほうが美談となっただろう。傷を負った伯爵令嬢を、幼いころの約束のままに迎え入れる物語。乙女の夢を詰めこんだような話だ。

 けれど、フリッツが選んだ相手だって悪くはない。彼女はさる小国から亡命してきた王族の生き残りである。

 縁者を頼ってこの国に訪れて、身分を隠して過ごしながら王子様に見初められるだなんて、こちらだって存分に乙女心をくすぐる物語。テレサは全力で応援している。

 テレサの立場なら、元王女をいじめてこそだが、車椅子のテレサは相手に気づかれないように近づいて背中を押したり、相手を転ばせるような行動はできないのだ。期待に添えなくて申し訳ない。

 それでもフリッツはきちんと彼女に心を伝え、ああして婚約破棄宣言にこぎつけたのだから、満足している。自分がロマンス小説の一員になれた気がして、嬉しいぐらいだ。

 あとはこれを物語にするだけ。結末は、まだわからないけれど。

 ふと、鼻先に良い香りが届いた。ルークがお茶を淹れてきてくれたようだ。

 お気に入りの茶葉とお気に入りのお菓子。至福のひととき。

「今日はお嬢様に物語をひとつ」

 茶器を並べながらルークが言う。

 出会ったころ、よく異国の物語を聞かせてくれた。またなにか新しい物語を入手したのだろうか。

 促すと、彼は口を開いた。


 あるところに少年がいた。

 異国からやってきた少年は、親族に連れられて王宮を訪れることになった。そこでは盛大な宴がおこなわれていた。

 見知らぬ国で大人たちに囲まれて萎縮していた少年は、ひとりの少女を見つける。まるで天使のようだった。

 来たくもない国を訪れていた少年だったが、少女と話をしてみたい一心で、言葉や文化、歴史を学んだ。事情があって自分の国に帰れない悲しみよりも、少女の近くにいきたいという思いが勝った。

 しかし天使は天上の者。少年の手の届かないところにいる。

 それでも三年かけて知識を吸収し、師のお墨付きをいただくまでに至った少年に神が褒美を与えた。

 いや、少年にとっては褒美だったが、天使にとってはそうではなかったはず。あれは神ではなく、悪魔だったのかもしれない。天使は羽をもがれ、地に堕ちたのだから。

 少年は傷心の天使に近づくことにした。良い子どもを演じ、天使の傍にはべることに成功する。

 天使に近づくすべてを排除し信頼を獲得したが、それは天使を守るためではない。悪魔に心を売った少年が、天使を我が物にしようと画策したにすぎない。



「悪魔に心を売ったというけれど、どうかしら。少女が少年の献身を喜んでいたのだとしたら、それはもう悪ではないのよ」

「なるほど、お嬢様は偽善を肯定しますか」

「わたしがこれまでどれほどの偽善を受けてきたと思っているの」

 その優しさが本心なのか打算ありきなのか。境界線は曖昧で、当の本人も判別できないのではないかとテレサは思う。少なくとも、ずっと傍にいた少年ルークからは、悪意を感じたことはない。

「それで、少年あなたは何者なのかしら。わたし、異類婚姻譚も大好きよ」

「悪魔との婚姻をお望みと? お嬢様は姫と王子の物語がお好きなのでは」

王子様フリッツは迎えにこないし、来てもらってはむしろ困るの」

「予想外の回答で、困惑しています。華々しく明かすつもりが出鼻をくじかれた。どうしてくれようか」

「言っている意味がわからないんだけど」

「これを」

「はあ……」

 ルークがぞんざいに差し出したのはタイピンだ。女子が襟元のタイで爵位を示すように、男子はタイピンで地位を表す。使用人のルークは飾り気のない量産品をつけていたが、手渡されたのは凝った造りのものだった。

 似たものを知っている。何度も近くで見たことがある。

 それは、国籍を問わず『王族』にのみ許されるデザインだ。

「少年の国は一夫多妻制のため権力争いが絶えないんだ。面倒ごとを避けたい少年の母親は、自分の祖国へ子どもを留学させて逃がすことにした。無理に帰ってこなくてもいいとまで言ったよ。これは、入学祝いに母が送ってくれた。身分証明になるから、いざというときに使いなさいと」

 そこで言葉を切って、テレサに向き直る。

「フリッツ殿下がなぜプロム当日ではなく、予行演習の場で婚約破棄を宣言したかわかっていますか?」


 プロムはお披露目の場なのよ。

 将来を誓ったふたりが踊る特別な空間。

 わたしはダンスができないから、もう関係なくなったけど。


 復学前の他愛ない雑談。封印したつもりの憧れは未だ胸に燻っていることを、傍に控える彼が気づかないはずもない。

 瞳を揺らすテレサの前にルークが跪き、目線を合わせた。膝に置いた手を握られる。

「旦那様には期限を設けられてた。弱虫殿下が踏ん切りをつけるまでは駄目だと。焚きつけた甲斐があってなんとか間に合った」

「焚きつけたって……」

「王子と舞踏会に出席する物語のヒロインになる気はありますか?」

「――踊れないお姫様でも……?」

「それこそが作者の独自性だろ? だってこれは、あなたの物語だ、テッサ」

 頬を伝う涙を指でぬぐったルークが囁いたのは、ずっと呼んでほしかった己の名前。心臓が破裂しそうなほど高鳴って、たまらず瞳を伏せる。瞼の上に落ちた柔らかな感触に身体が溶けてしまいそう。ロマンス小説のヒロインは、鋼鉄で作られているのではないかしら。

 崩れ落ちそうになる身体を支えた従者に「確認していいですか」と声をかけられ、背中に腕がまわされる。

「すごく柔らかくて、いい匂い」

「……ばか」

「返事をいただいていないのですが」

 耳に届く拗ねたような声色。

 優しく抱きこまれた腕の中で、テレサは笑って答えを返す。


 物語を愛する少女を待っていたのは、異国の王子様からの求愛。

 これは、ありふれた婚約破棄から始まった物語の、ひとつの幸せな結末。




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